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2009-02-26

アメリカに憧れる学生時代

今日もいってみましょう。

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そうして三ヶ月のアメリカ生活が終わり、帰国したものの、帰国後もぼくはアメリカで勉強する方法ば
かりを考えていた。日本の大学から編入できないかと、学生課に問い合わせてみたりもした。いろいろ
と探しているうちに、交換留学制度を見付けた。受かるかどうかはわからなかったが、さっそく応募し
た。答えが出るのはまだまだ先だ。

ふたたび日本での学生生活が始まった。ウィンドサーフィンのサークル仲間で、ほぼナンパ目的の「南
紀白浜夏合宿」を実施したり、合コンに明け暮れて、渋谷のセンター街に繰り出す日々を送った。そん
な間も英語の勉強だけは欠かさなかった。

そしてアメリカ熱は冷めやらず、夏休みにはまた、アメリカに行った。高校の先輩に教えてもらったキ
ャンプツアーに参加。ロサンゼルスからニューヨークまで、大きなバンの屋根に荷物を載せて、キャン
プ場を転々としながら三週間でアメリカ大陸を横断するツアーだ。参加者は全部で十二名。同い年の欧
州の女の子が圧倒的に多かった。彼女たちはベビーシッターの仕事でアメリカに行き、休みを使ってキ
ャンプツアーに参加していた。

ロサンゼルスからニューヨークなんて、まさにアメリカ横断ウルトラクイズの世界。ラスベガスで生ま
れて初めて拳銃を撃って、モニュメントバレーをバックに馬で疾走して、グランドキャニオンを散策し
て、ニューオリンズではカキを何ダースも食べて、ジャズを聴いた。

「アメリカってスゲェ!」そんな気持ちでいっぱいだった。

夏休みが終わると、何度もTOEFL(アメリカ留学に必要な英語試験)を受け、留学の準備をした。
そしてめでたく、ぼくは交換留学生として三年生の夏から十ヶ月間、ワシントン州立大学に行くことに
なった。場所はシアトル。あのサマーキャンプ以来の生まれ故郷だった。憧れのアメリカでの大学生活
だ。

七月にはシアトルに行き、寮に入った。授業は九月からだったので時間があった。ぼくは例のアメリカ
横断ツアーを企画していた会社の、アラスカキャンプツアーに参加した。二十八日間のキャンプツアー
だった。

そのキャンプツアーで大事な友だちができた。寝るときは二人用のテントで寝る。初日に適当にコンビ
を組む。ぼくのテントメイトはロンというマレーシア人だった。恰幅がよくて背も高い。彼と過ごした
二十八日間のテント生活で、ぼくはいろいろなことを教わった。今思えば、ロンはぼくが生まれて初め
て出逢った、日本人以外のアジアの友だちだ。彼はマレーシア人だが、華僑の生まれなので、肌の色は
そんなに黒くはない。当時、三十二歳。ニューヨークで弁護士をしていた。そして彼は敬虔なクリスチ
ャンだった。

とにかく物知りで、何でもよく知っていた。本をたくさん読み、博学で、日本の歴史にも精通している
。「山本五十六」なんて名前もさらりと出てきた。ツアーのときは、十七世紀に書かれた英語の古典を
読んでいた。「昔の英語はとてもきれいなんだ。ラテン語に近い。そう、ぼくはラテン語の勉強もして
いるんだ」と言っていた。

そのアラスカのキャンプツアーに参加していたメンバーは、ぼくの他にもうひとり、ノリ君という大阪
から来た日本人がいて、ロンを合わせた三人がアジア人だった。南アフリカから来た女性がひとり、そ
れ以外はみな欧米から来た人ばかりだ。

ツアーのリーダーはカナダの女性で、名前は忘れてしまったが、髪が短くて男みたいな性格だった。顔
がジャック・ニコルソンにかなり似ていた。メンバーの年齢層は三十代が多く、ぼくとノリ君だけが二
十代だった。夜はキャンプファイヤーを眺めながら、いろいろな話に花が咲いたが、ぼくとノリ君は英
語力不足で、なかなか話についていけなかった。そんななかでロンは、いつも話の輪の中心にいた。同
じアジアの人が、欧米の人と対等に話しを楽しんでいるのが、なんだかとても頼もしかった。

ぼくとノリ君にとって、ロンは頼れる兄貴分だった。ロンは面倒見がよく、ぼくたちを弟のようにかわ
いがってくれた。彼は、キリスト教のことについても教えてくれた。
「ぼくは今まで、弁護士一筋できたけれど、これからはキリスト教の牧師として生きていくんだ。牧師
をやる上で、弁護士の知識が生かせると思う」

彼はそんなことを言っていた。それまでぼくは宗教というものにまったくといっていいほど、無関心だ
った。ロスからニューヨークまでのアメリカ横断の旅をしたときに、夜、キリスト教について仲間たち
が意見しあっていた場面があったが、内容が理解できなかったし、あまり興味が湧かなかった。当時は
、キリスト教にカトリックとプロテスタントという、大きく分けて二つの宗派があるという大前提も、
しっかりとは理解していなかったほどだ。しかし、ロンに出逢い、初めてキリスト教のことを詳しく知
った。

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2009-02-24

大学一年生の頃の出来事:アメリカにて

さ、今日も行って見ましょう。

昨日の続きでーす。


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食事はお母さんが作っていた。ペンネのサラダと冷凍物の白身フライにスープ。そんなメニューが多か
った。サラダも大量に作っておいて、二、三日分が冷蔵庫に入っている感じ。地下にある業務用の大き
な冷凍庫には、つねに白身魚やハンバーグなどの冷凍食品がぎっしりと詰まっていた。

忘れられない出来事がある。お母さんといっしょに買い物に行ったときのことだ。お母さんは忙しいの
で、一度の買い物で二ヶ月分以上を買い込む。半端ではない量だ。アメリカのでっかいカートが二台分
。冷凍のハンバーグやフライドポテトはもちろんのこと、百パーセントの濃縮ジュースが三百グラム缶
に凍ったものも、どさどさっとカートに放り込んでいく。

お母さんは買い物の途中、家に電話を掛けていた。
「おかしいわ。家にいるはずのダンナが出ない。携帯の電源も切っている」

お父さんはなかなかのモテ男なので、気が気ではないらしい。買い物をしていたのは郊外のメガスーパ
ーだったので、帰るまでにはしばらく時間がかかる。家に着くと、お父さん自慢のBMWのオープンが
停まっていた。

「なんだ〜、いるね、ちゃんと」とぼくは思ったものの、お母さんの対応は違った。すぐに自分の車か
ら降りて、BMWのボンネットを触る。

「まだ熱いわ。今帰ってきたばっかりよ」と言うやいなや、
「あなた、どこに行ってたの〜!!」と怒鳴りながら家に入っていった。
ぼくは恐る恐る、あとから家に入った……。

結局、お父さんはグレッグを学校に迎えに行っているだけだった。たまたま携帯の電源も切っていたら
しい。

そんなフィッシャーマン家での三ヶ月はとっても楽しく、あっという間に過ぎ去った。イースターには
親戚一同が集まり、食べきれないくらいのご馳走がテーブルに並んだ。七面鳥のお腹に芋や豆を入れて
オーブンで焼き、庭にはチョコレートでできた卵を飾った。「イースターってこんなことして過ごすん
だ」と、アメリカ文化の一端を知ったようで、とてもうれしかった。

グレッグはティティとぼくに心を開いてくれて、三人でよくしゃべるようになった。三ヶ月が終わるこ
ろ、ぼくはアメリカの大学で勉強してみたいと思うようになっていた。

水で溶かして飲む百パーセントジュースも、毎朝食べるグラノーラも、一ドルで野菜入れ放題のハンバ
ーガー屋も、すべてが当時のぼくには新鮮だった。「とにかく英語を勉強しよう」と、この留学生活の
最後のほうは、犬のピーパーといっしょにソファーに座って夜遅くまでディスカバリーチャンネルとか
アニマルワールドを見ていた。

余談だが、二〇〇〇年夏から放浪の旅に出て、ぼくはもう一度ワシントンDCを訪ねることができた。
フィッシャーマン一家がまだ居るだろうかと、記憶をたどり地下鉄に乗って家を訪ねたが、そこには違
う家族が住んでいた。残念ながら、フィッシャーマン一家と連絡を取るのは、もう難しくなってしまっ
た。グレッグは立派な成人になっているはずだ。

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2009-02-23

学生時代の出来事その2

前回の続きでございます。どうぞ!


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ホームステイをしていたフィッシャーマン一家もユニークな家族だった。まず、家族構成がとてもユニ
ーク、というか複雑だ。お父さんに、お母さん、息子の三人家族だが、お母さんは三番目の奥さんで、
息子のグレッグは、お父さんの最初の奥さんの末っ子だ。グレッグは十五歳の高校一年生。お父さんと
はほとんど口を利かない。

お父さん、お母さん共とも働いていて、それぞれに車を持ち、お父さんは黒いBMWのオープンカーに
乗っていた。なかなかのハンサム中年だった。お母さんはたしかベネズエラの血が入っていて、クレオ
パトラみたいな髪型をした黒髪で、ガッシリとした豪快な女性。ぼくは彼女が好きだった。サバサバし
ていておもしろい。ニューヨークの出張から帰ると、よくチーズケーキを買ってきてくれて、そのケー
キは無茶苦茶コッテリとしていておいしかった。

そして、ぼくの他にもうひとり、ホームステイをしていた女性がいた。パナマから来たティティだ。ぼ
くより年上で、二十代後半。ティティはいつもホームシックで、パナマのお父さんと電話をしているこ
とが多かった。電話が掛かってくると、すごく嬉しそうに「オーラ、パピー!(こんにちは。お父さん
)」と言っていた。パナマにいる彼氏ともよく電話をしていて、電話口で泣いている姿も何度か見た。
パナマに帰りたかったのだろう。

そういえば、ピーパーという名前の毛むくじゃらの犬もいた。そんなメンバーが三ヶ月間、ひとつ屋根
の下で暮らしていた。築百年くらいのレンガ造りのすてきな家で、庭も広かった。共稼ぎの、けっこう
ハイソな家だった。晩御飯はグレッグとティティとお父さんとぼくの四人で食べることが多かった。お
父さんはグレッグに話しかけるが、いつもグレッグは何も答えない。ぼくとティティにも最初はほとん
どしゃべらなかったが、だんだんと打ち解けてきた。

ごくふつうの家庭で育ったぼくにとっては、お母さんが三人目の奥さん、というグレッグの状況を自分
に照らし合わせることはなかなか難しかった。不思議なことに、グレッグは意外とお母さんとはよく話
していた。お母さんの快活なキャラクターのせいだろう。グレッグにしてみれば、お母さんというより
は、仲のいい年上の女性という感覚だったのかもしれない。

週末になると、二、三歳の二人の女の子が家に来ることがあった。その子たちは二人目の奥さんとの子
ども。二人目の奥さんは何か遺伝子的な病気で、四十代で寿命を終えてしまう運命らしかった。哀しい
ことに、子どもたちも同じ運命にあるらしい。それにしてもかわいい姉妹だった。その運命ゆえか、妖
精のようだった。

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2009-02-20

学生時代の出来事

あっという間に2月下旬。

後3週間で気合い入れて本を仕上げます。

3月20日からのウォークの準備も快調。只今、4人の仲間が参加表明してくれてます。

最近、マヤカレンダーを意識してるんですが、2月18日から27日までは宇宙と繋がりやすい日らしいです
よ。

うっし。後一週間は特に気合い入れてみます。

ということで、またうっかりと久し振りになってしまいましたが、前回からの続きです。えー、1990-9
1年の出来事です。

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高校を卒業して、青山学院大学経営学部に入学した。入学早々のいちばんの感心事、それはどんなサー
クルを選ぶかだ。当時の大学は、サークル活動がかなり盛んだった。みな、それぞれのスタジャンを着
て、学食で一日のほとんどを過ごす。ぼくが入ったサークルは、「ホキパ」というウィンドサーフィン
のサークルだ。週二回、逗子のビーチでのウィンドサーフィン。大会に出るわけでもなく、ただ純粋に
、ウィンドを楽しんだ。

大学一、二年の二年間は、ぼくの人生のなかで「遊び楽しむ」ことに集中していた日々だった。大学に
いるほとんどの時間は、学食でサークル仲間と無駄話をして過ごした。授業の終わるころになると、そ
っと教室に忍び込み、出席の紙だけを提出する。試験前になると、なぜか回答が回ってきて、それを縮
小サイズにコピーして難局を乗り切った。袖の中に隠して試験に臨むわけだ……。

そんなグウタラ生活を過ごしていた大学一年の春休み、ぼくはアメリカに勉強をしに行くことを決めた
。このまま、ただ学生生活を謳歌しているだけでは意味がない、と思った末の行動だった。

「英語を勉強しにアメリカに行こう」

そんなことを急に思い立った。渋谷の留学センターに行って、学校を探した。そこで手続きをして、二
月からの入学が決まった。行き先は、ワシントンDCの語学学校だった。フィッシャーマン家にホーム
ステイをしながら語学学校に通う毎日。

語学学校には南米や中東など、世界中からの生徒が集まっていた。授業のほかにもピクニックをしたり
、日帰り旅行に行ったりもした。そんな日々を送るうち、中一の夏に行ったサマーキャンプの記憶が蘇
ったのか、だんだんと旅心がうずいてきた。予定では、留学の期間は二ヶ月だったが、ワシントンDC
での生活があまりにおもしろかったため、ぼくは滞在期間を三ヶ月に延ばした。日本の大学では、すで
に二年の授業が始まっていた。

 ワシントンDCはさすがにアメリカの首都。スミソニアン博物館があったり、国会議事堂があったり
、ウロウロするには事欠かない町だった。そしてニューヨークにも足を延ばした。ぼくは『アメリカ横
断ウルトラクイズ』を見て育った世代だから、福留アナウンサーの「ニューヨークに行きたいかー!?」
のフレーズは耳に焼き付いていた。

ニューヨークはやはり憧れの地だった。フィッシャーマン家の奥さんに紹介してもらった家に泊まり、
初めて訪れたニューヨーク。よく覚えているのは、マンハッタンの南の端にあるバッテリーパークで見
たサーカスだ。

 夜九時ごろに始まって、終わったのは夜中の一時過ぎだった。動物を一切使わない、カナダのケベッ
クからやって来たサーカスで、サーカス団の名前は「シルク・ド・ソレイユ(太陽のサーカス)」だ。
その後、日本でも有名になった。

アクロバチックであり、またとても幻想的で、ショーの合間に出てくるチャップリンみたいな格好をし
たピエロには、腹を抱えて笑っていた。観客をステージに上げては、即興の劇を演じる。それが、とに
かくおもしろかった。観客のほうも、あらかじめ打ち合わせをしているのでは、と疑いたくなるくらい
に乗りがよく、リアクションもすばらしい。

 途中、何度か休憩があり、外に出てみると、タキシードで着飾った紳士、淑女がシャンパンを飲んで
いた。遠くにはライトアップされた自由の女神が見える。ぼくは、野球でいえば外野席みたいな、十ド
ルほどのチケットを買ったが、休憩の度に空き席を見つけては、もっと前の席に移った。最後はほとん
ど最前列。大満足の夜だった。

「ニューヨークの人たちって、人生の楽しみ方を知っているんだな」
 地下鉄を待ちながらそんなことを思った。

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2009-02-05

【YES 愛 CAN】 in札幌のお知らせ

【YES 愛 CAN】 in札幌のお知らせ
北海道の方に嬉しいニュースです。

るいるいサンタさんが2月14日に札幌でイベントを企画しています。

るいるいサンタさんには昨年の秋に逢いました。
我が家に泊まってくれた一晩では聞き尽くせなかった壮絶な人生。

壮絶な人生を駆け抜けて、今、愛と希望を振り撒いて全国を旅し続けています。

僕と同い年。

本名は類子さんで、「人類を繋ぐ子」という意味だそうです。

凄い。そして正に彼女は人類を繋いでます。

14日のゲスト、千歳のラーメンみのりの大将もぶっ飛びの人生を送ってます。
そして栗城くん。

人生に「不可能」なんて文字は無いってメンバーです。

そして、文字通り、イベントの名前は

【YES 愛 CAN】 in札幌

こりぁーとんでもないイベントです!

以下、るいるいサンタさんからのメールを転載します。

それにしても、会場の「天使大学」って、これまたとっても気になる大学ですね。
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【YES 愛 CAN】 in札幌

〜 夢と恋の華ひらく、バレンタインスペシャル 〜

<月日>2月14日(土)
<時間>12時受付スタート/13時スタート(16時終了予定)
<会場>天使大学 体育館(駐車場はありません)
http://www.tenshi.ac.jp/access.html
<住所>札幌市東区北13条東三丁目

<入場料>
一般 前売り3000円 当日3500円
中高生 前売り2000円 当日2500円
小学生以下無料

<主催>るいるいサンタ(渡辺類子)

<ゲスト>
【 大嶋啓介 】
有限会社てっぺん 代表取締役
http://teppen.info/

【 栗城 史多 くりき のぶかず 】
http://kurikiyama.jp/profile.html
↓栗城くんは、こんな人です!(youtube動画)
http://jp.youtube.com/watch?v=nSkH2b-uLTU
http://jp.youtube.com/watch?v=KSMNk3Psc6s&feature=channel_page

【 石崎 道裕 】
らーめんみのりの大将
http://www.ramen-minori.com/top.html

【 諏訪ゆうこ 】
笑顔セミナー主宰
http://www.egao-chanto.com

【 我武者羅應援團 】
http://www.gamushara-oendan.net/

【 るいるいサンタ 】
「るいるいサンタからの希望の贈り物in高尾山」
http://www.youtube.com/watch?v=QNHiBlCdGWs
<生きてくでNO.1に選ばれました> 
http://ikiteku.net/index.php?id=182  

< 前半内容 >
栗城くん、大嶋さん、みのりの大将による夢のトークセッション
我武者羅應援團による参加者の夢への本気の応援

< 後半内容 >
諏訪さんとるいるいサンタ、スペシャルゲストによる命
笑顔輝かせる参加型バレンタインスペシャル

<申し込み方法>
rainbow_2009214@yahoo.co.jp
お名前・お電話番号・メールアドレス・参加人数を明記の上
メールお願いします。

※体育館なので、上履きをご持参ください
※参加者全員でチョコレート交換をしますので、おひとつご持参ください
(出来たらメッセージカード付きで。誰に当たるかわからないので
<例>あなたに会えて嬉しいです)。

るいるいサンタは、内緒にしていたけど魔法が使えるの

空を飛んだり、スプーンを曲げたりは出来ないけど
          
苦しみを喜びに☆ 悲しみを笑顔に☆ 憎しみを愛に☆ 闇を光に☆  
地球に「希望」の虹もかけれるんだよ。

でもね、あなたも魔法が使えるの。 そんな魔法の時間を贈ります♪

2月14日バレンタイン、魔法にかかりにおいで!!


あなたとあなたの大切な方といらして下さいね
るいるいサンタが両手を広げてお待ちしています

参加は出来ないけど、応援するよ基金
ゆうちょ銀行(郵便局の銀行)
10080−49399621
ワタナベルイコ

全ての命が安心の元、光りかがやきますように

みんな愛だぁ〜

るいるいサンタ

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「祭り好き」の原体験

今日は息子の一心の一歳の誕生日でした。

一升餅を背負って元気にハイハイしてくれました。しかも褌一丁で。

病気も無く、元気に育ってくれて感謝です。

さ、昨日からの続きでございます。

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青年期の原体験・湘南高校の体育祭

自分の幼少期、青年期を振り返ると、小学校と高校の時代には楽しい思い出がたくさんあるのに、中学
校時代だけが、なぜか少し暗いイメージがある。自分なりにそれを解釈してみると、「校則」に原因が
あるようだ。小学校までは、もちろん校則なんてない世界。とくに五、六年生の担任だった宮沢先生は
自由な発想をいちばん大事にしてくれた先生だった。たとえば台形の面積の出し方について、丸一日以
上を費やしたことがある。教科書には台形の面積は、(上底+下底)×高さ÷二、とあるが、どうして
そういう定義が生まれるのかを徹底的にみなで話し合った。その結果、なんと三十通り以上の答えが出
てきた。今でも感謝しているが、宮沢先生のおかげで、枠にとらわれない生き方の骨格を学ぶことがで
きた。

中学校に入ると、学生服を着るようになる。ぼくが通っていた中学校はいわゆるガクランだった。ここ
で初めて校則と出会う。タックの入ったズボンは禁止、開襟シャツは禁止、髪の毛は耳にかかってはい
けない。そう言われると、逆にやりたくなるのが心情で、ぼくは開襟シャツにタックの入ったズボンを
履いて、髪は耳が隠れるくらい長かった。

その反動か、高校はいちばん自由な学校を選んだ。

湘南高校は自由な発想を尊重する学校だった。学生服にはとくに禁止事項もなく、夏場は半袖、短パン
で授業を受けた。そして秋には「体育祭」があった。この「体育祭」がぼくの人間形成に大きくかかわ
っている。

ぼくは二〇〇〇年から放浪の旅に出たが、世界放浪をするにあたって、ひとつのテーマがあった。それ
は「祭り」だ。「祭り」はその土地の文化を、いちばんよく表していると思う。その土地の祭りを体験
して、祭りに参加する地元の人々と出逢い、また、その祭りを追いかけてくる旅人と出逢うことで、自
分なりの世界地図が描けるのではないかと考えていた。そんなわけで、ぼくは「祭り」をテーマに旅を
続けた。

その「祭り」の原体験が、湘南高校の「体育祭」だ。

毎年、秋に開催される体育祭は「色対抗」で行われる。一学年、十二クラスが十二色に分けられて、そ
れが三学年分。一クラス四十五人ほどだから、一色で百五十名弱。全十二色のチームができあがる。こ
の十二色対抗の体育祭だ。

ただし、湘南高校の場合、ふつうの体育祭ではない。体育祭には「仮装」という競技も含まれている。
これは九分間の音楽に合わせて行う、いわば自主制作のミュージカルだ。これが、ものすごく盛り上が
る。テーマを決めて(たとえば『ノアの箱舟』や『オペラ座の怪人』など)、九分間の音楽をつくり(
オーケストラ、ロック、歌謡曲など好きな音楽をつなぎ合わせる)、振り付けを考えて、衣装、小道具
、大道具など必要なものを揃えていく。

この準備に半年を費やす。というか、学校生活はほとんどこの「体育祭」を中心に回っている。「一年
の計は元旦にあり」じゃなくて、「一年の計は体育祭にあり」って感じの学校生活。だからぼくには、
ブラジルのリオの人たちがカーニバルを中心に生きている様子がなんとなくわかる。

高校一年生の体育祭はとくに心に残っている。仮装のテーマは『オズの魔法使い』だった。

ぼくの役は、ピンクの空飛ぶ猿。いったい、『オズの魔法使い』にそんなキャラクターがいたのかどう
かは、まったく分からない。三年生が、近くの病院からもらってきた白いシーツを、巨大な釜でピンク
色に染めていた。その布があったからの役柄なのか……。

布をもらい受け、家に持ち帰って母に衣装作りをお願いした。一時期、若者の間ではやっていた「着ぐ
るみ」のピンク版だ。衣装を作り、踊りを習い、ムカデ競争の練習をして、その合間に授業をする。そ
して、なんと体育祭の二週間くらい前からは、授業もなくなり、学校中が体育祭一色に染まる。中学時
代の厳しい校則から解放されて味わった、初めての体育祭。心底、楽しくてしょうがなかった。

体育祭が終わると、大宴会が始まる。クラスで、または学年を超えての「色分け」で、と何かと集まる
理由をつけて、一週間ほどは学校全体の宴会ムードが冷めなかった。宴会が終わるころには秋も深まり
、だんだんと受験シーズンに向かった。三年生は勉強に忙しくなる。そして一、二年生はすでに来年の
体育祭に向けて動き出す。

こんな高校生活を経て、ぼくはいつしか「祭り好き」になっていった。

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2009-02-04

13歳の夏・忘れられない体験

どうでしょうか?!

昨日の続きを楽しみにしてくれてる人、居ますかー?

あ、そういえば昨日、近くにある竜ヶ崎を散歩したら、キタキツネに出逢い、岬に行ったらトドの夫婦
(多分。親子かもしれないけど、大きさが大体同じだった。)が泳いでいるのを発見しました。デカイ
!一瞬、丸太が浮いてるのかと思いました。

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ロペツ島からカヤックに乗って、近くの無人島に一泊のキャンプ旅行に出かけた。カヤックを漕いで、
石がゴツゴツしている海岸に上陸し、ビニールシートで簡易テントを張った。夜はキャンプファイヤー
だ。次の日、二メートルほどある岩場から、みなで海に飛び込んだ。ぼくは飛び込みが得意だったので
、何度も、何度も挑戦した。それがやけに楽しく、今でも強く思い出に残っている。この無人島の一泊
旅行で何かが吹っ切れて、ぼくはサマーキャンプになじみ始めた。

 あい変わらず英語はほとんど解っていないはずなのに、ふつうに言葉を交わしていたような気がする
。実際には、どんなふうに話をしていたかは覚えていないけれど、馬に乗ったり、ヨットに乗ったり、
アーチェリーをしたり、劇を作ったり、ダンスをしたりと楽しい時間が過ぎていった。夜は同い年の女
子グループのキャンプに行って、ビスケットにハーシーズのチョコとマシュマロをはさみ、キャンプフ
ァイヤーで焼いて食べた。夕方にはよく、スタッフのお兄さん、お姉さんが簡単な劇をしてくれて、み
なで大笑いしていた。ぼくは話の内容はまったく理解できなかったが、ただただ、その雰囲気を楽しん
でいた。

淡い思い出もできた。同い年の女子班にはジュリアというショートカットの女の子がいた。ぼくと同じ
班の男の子(確か名前はマーク。)の親戚で、十一歳。ぼくのことを気に入ってくれたようだった。キ
ャンプファイヤーを囲み、みながマシュマロを焼いている間、ジュリアはぼくをテントに誘った。薄暗
いテントの中で何を話していたかは覚えていない。何しろ、ほとんどしゃべれないのだから。グミみた
いなキャンディーをくれて、ジュリアはしきりに「食べ終わった?」とぼくに聞いていた。ぼくは鈍感
でウブな十三歳だった。

それから、ぼくはジュリアとカップルみたいな感じでいっしょにいる時間が増えた。

キャンプは四週間だった。一週間目の、何かが吹っ切れた無人島旅行からはあっという間に時間が経ち
、とうとう最後の夜がきた。大きなキャンプファイヤーが焚かれ、サマーキャンプの子どもたち、スタ
ッフの全員が集まった。百人以上はいた。

キャンプファイヤーが終わり、みなそれぞれのテントに戻る。ジュリアはぼくの手を引っ張って、森に
入った。ぼくたちは茂みに座った。みながテントに戻る、ザワザワとした雰囲気が伝わってくる茂みの
なかで、ジュリアはぼくにキスをした。長いキスだった。

次の日、みな帰路に着く。キャンプ場に親が迎えに来る子も多かった。一人、二人とキャンプ場から消
えていく。ぼくはたしか、旅行用のトランクを持っていたが、みなが持っていたのは、海賊映画にでて
くる宝箱のようなでっかい箱だった。そこに着替えやら何やらが全部入っている。それをズルズルと引
いて、迎えの車に向かっているシーンを思い出す。ぼくはシアトルに向かうフェリー乗り場に行くバス
に乗った。キャンプ場を離れる。みな泣いている。ぼくも泣いていた。ポロポロ、なんて泣き方じゃな
い。みなオイオイ泣いている。ぼくもオイオイ泣いていた。

キャンプ場の入り口には、“Camp North Wester”と彫ってある木のゲートがあって、柱の上には木のコ
ンドルがいた。キャンプに来たばかりのころは、このゲートを越えて家族に逢いに行きたいと思ってい
た。でも帰るときは、そのゲートを抜けて、外に出るのがムショウに哀しかった。このゲートを越えて
しまったら、もうあの楽しかったキャンプ生活には戻れない。

家族はすでに一足先に日本に帰っていたので、ぼくは一人で日本に向かった。帰る前に、父の駐在時代
の友人の家に数泊した。その家族はアメリカ人だったが、ぼくはふつうに会話を交わしていた。驚いた
ことに、たった四週間のキャンプ生活で、ぼくの英語力はそこそこのコミュニケーションが取れるまで
に成長していた。

帰りの飛行機の中でも、ぼくはアメリカ人に話し掛けていた。いつしか気分は、アメリカ人になってい
た。そんなひと夏の大冒険を終えて、鎌倉の家にたどり着いた。玄関を開けると、両親が出迎えてくれ
た。そこでのぼくの第一声。これは今でも、我が家の伝説になっている。

「顔が違う!!」
「へ?!」

親はびっくりしたに違いない。でも、ぼくもびっくりしていた。長年見慣れたはずの親の顔が、やけに
横長に見える。というか、上から押し潰された感じ。よく、西洋人が東洋人の真似をするのに目を横に
引っ張って細目にするが、まさにそんな感じの顔に見えた。後にも先にもそんな経験はない。四週間、
ぼくは完全に西洋人の世界に浸かっていた。

サマーキャンプには、ぼくともう一人、板倉さんという日本人がいた。ただ彼は十五歳で、いちばん年
長の班に居て、交流はほとんどなかった。つまり、ぼくは四週間、西洋人ばかりを見ていたことになる
。面長の西洋人ばかり見ていると、東洋人はやっぱり潰れたように見えるものなのだ。でもそんな目を
東洋人が持つことはできない。ぼくは四週間、どっぷりと西洋世界に浸ることで、西洋人の目をもつこ
とができた。たかが四週間、されど四週間。十三歳のぼくにとってその四週間はとてつもなく大きな時
間だった。

「そっか〜。西洋人は東洋人のことがこんなふうに見えているんだ」

見慣れてしまうと、いつもの両親の顔に戻っていた……。

「かわいい子には旅をさせよ」は本当だと思う。子どもの感性は、若ければ若いほど鋭い。十三歳の夏
、ぼくの四週間の出来事は、今であれば何年経っても感じ得ないだろう感覚を体験させてくれた。

この旅を提案してくれた父に感謝したい。

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2009-02-03

皆さん、豆撒きましたか〜?

皆さん、豆撒きましたか〜?
あっという間に今日は節分。
この前年が明けたと思ったら、もう春になるんですね。

小樽は雪が少なくて、週末から始まる「雪あかり」の準備もなかなか大変そうです。

さて、1月後半は鎌倉の実家に戻っていました。

友達の結婚式に行ったり、親戚に新年の挨拶に行ったり。

そして、春からの日本縦断の旅の準備もちょっとづつ進んでます。

今度のウォークは相当楽しい旅になりそうです。

目が離せません。

ルートも大まか固まってきました。

そしてそして、

春の出版を目指して本を書いてます。

本出します宣言から、かれこれ一年半位経っています。

自分の人生を今日まで、ざっと書き上げてみました。

正直長いです。

編集の方と話して、7割削ることにしました。

でも、いざ削る作業をしようと思うと、折角書いた文章、なかなか削れないもんです。

自分的には、どの部分も面白くて。

でも、そんなことは言ってられません。エッセンスを抜き出して、含蓄のある一冊に。

気合入れます。

でも折角なんで、今迄書いた削る前の文章を少しずつこのブログに載せてみようかと思ってます。

そしたら万が一盛り上がってきて、「やっぱりこのまま全部本にしちゃおうよ。」なんてことになった
りして。と甘い期待も乗せながら。

そして、本のタイトルも未だ決まっていません。

「地球を歩く、木を植える」
「木を植えるお父さん」
「転職、木を植える男」
「地球木族」

いやー、どんなタイトルだと、思わず手にとってしまうもんなんでしょうか。

全然違ったバージョンは、

「自分大好き!」
(これ、奥さんには結構大受けでしたが。。)

でも、こんなタイトルの本、手に取るかなぁ。っていうか、そこが主旨の本じゃないからなー。

ってな感じで試行錯誤の日々ですが、とりあえず、ここに僕の幼少期からの出来事を順を追って少しず
つ載せてみたいと思います。

「何故ぼくは木を植えるのか?」

ってことを、これを読んだ人が、「なるほど」と思える本に出来たら嬉しいです。

ってことは、これが本のタイトルだったりして。

「何故ぼくは木を植えるのか?」

お、結構いいかも。

という訳で、ここからは僕の幼少時代の話です。

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ぼくの生まれ故郷はアメリカ合衆国ワシントン州シアトル。父は日本航空の技術者で、シアトルのボー
イング社に三年間出向していた。その三年の駐在生活の間にぼくは生まれた。家族がアメリカに渡った
のは一九七〇年のこと。当時はまだ一ドルが三百六十円する時代であったが、駐在生活は家族にとって
、それは夢のような生活だったそうだ。もちろん、ぼくは覚えていない。

思えば、ぼくの世代はアメリカって国にすごい憧れをもって育った世代だといえる。小学校六年のころ
にはビルボードヒットチャートを見るのが何よりもかっこいいことだったし、黒板くらいしかないスク
リーンの藤沢「みゆき座」に二本立ての映画を観にいくのは何よりも楽しいことだった。そこで観た映
画といえば、『フラッシュダンス』や『スターウォーズ』、『E.T.』といったハリウッド映画。と
くに『E.T.』のワンシーンで、子どもたちが夜にピザを食べているところは、いかにもアメリカっ
ぽくて、ぼくの憧れだった。

中学一年の夏休み。ぼくは一ヶ月間のサマーキャンプに参加するために、生まれ故郷のシアトルを訪れ
た。この一ヶ月の体験は、ぼくのその後の人生に大きな影響を与えた。シキャンプが行なわれたのはシ
アトルの近くにあるロペツ島の一画にある、「キャンプ・ノースウェスター」での一ヶ月のサマーキャ
ンプだった。
シアトルまで一緒に来てくれた家族に送ってもらいキャンプ場をめざした。車の中で父のにわか英語教
室。

My name is Koichi Nakatani, I am from Kamakura Japan.
 
ぼくはこのフレーズすら覚えられなかった。十三歳にもなって恥ずかしいことだが、この時点で半分ベ
ソをかいていた。父に「こんなキャンプがあるけど行くか?」と聞かれ、ぼくはそれまで貯めてきたお
年玉貯金を全額おろして(もちろん、それでは足りないので結局は父が補填してくれた)、意気揚々と
サマーキャンプへの参加を決めたはずだった。しかし、いざ家族と別れるとなると、えらく心細い。

初日の夜、家族がまだいるだろうシアトルの町の灯りを海の向こうに見ながら、ぼくは涙した。「これ
からどうしよう……」

翌朝、キャンプの実習が始まった。プールに集合。よし。泳ぎは得意だとは思ったものの、プールの水
はなんだか濁っている。そして深そうだ。次の瞬間、予期せぬことが。なんと、みな、服を着たままプ
ールに飛び込んでいく。「えーっ!?」と内心驚いたものの、飛び込まぬわけにもいかず、渋々とそれに
続く。

深い。足が届かない。しかも水は海水だった。
どうやら、海で服を着たまま溺れたときのための訓練だったらしい。服が重かった。立ち泳ぎをしなが
ら「早くあがりたい」と願った。

サマーキャンプの参加者は小学校三年くらいから中学三年くらいまでの子どもたちで、年齢、性別ごと
に班分けされている。ぼくは十三歳だったが、十二歳の男子グループに分けられた。グループ名は忘れ
たが、メンバーは十人ほどだ。そのうち、四人がいっしょの部屋になる。部屋とはいえ、小学校の運動
会で使うような長方形のキャンバス地のテントで、床は木の板張りだ。濡れた服を着たまま、みな泥ん
この靴でこのテントに戻る。床はすでにドロドロ、服は海水でビショ濡れ。当時、意外ときれい好きだ
ったぼくにとって、その状況はつらかった。

初めのころのキャンプのイメージは、こんなふうに最悪だった。でも、一週間が過ぎるころ、ある転機
が訪れた。

(続く)

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