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2008-04-30

いざ広島8月6日 (本出版に向けて・その82)

いざ広島8月6日 (本出版に向けて・その82)
「笑われて笑われて 強くなる。」
太宰治

おかげさまで携帯復活です。

昨日はなんと、我が家の前の海にトドが出現。定置網にかかった魚を捕りにくるそうです。トドですよ
。トド。

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大阪では英国領事館を訪ねた。ス−ツでビシッと決めた領事は、汗だくのシャツと半ズボン(ポ−ルは
ちゃんと長ズボンはいていた。)で現れたポ−ルと僕を温かく迎えてくれた。

8月6日、広島の平和記念公園で植樹をしたいので、その後押しをお願いしに行ったが、思わしい結果
は得られなかった。今思い起こせばかなり無理のあるお願いだったかもしれない。でもその時の僕達に
とってはトライする価値が十分にあることだった。

ジンバブエでもザンビアでも、そして日本でも英国大使館、領事のポールの活動に対する理解は何時で
も寛大で前向きだった。大阪の領事を訪ねて具体的な成果は無かったが、温かく迎え入れてくれたこと
だけでも僕達の、特にポールにとっての励みになった。

世界一周の船旅を企画、運営しているピースボートの大阪事務所でポールの講演会もやらせてもらった
。これから世界一周を控える元気な若者に出逢えて、またそれだけで元気を貰った。

旅の疲れを癒してくれるのは、やっぱりそんな嬉しい出逢いにある。

ポールと僕はそんな大阪の日々で、8月6日の広島に向けて歩く気力を充電させてもらった。

群馬の実家に里帰りしていたきんちゃんも戻って来てくれて、大阪からは3人の旅になった。須磨海岸
や武庫川で野宿をして、西宮では日本初、小学校での講演と植樹が出来た。西宮では小学校での環境学
習が積極的に行われていた。

岡山に入った辺りから、歩く仲間が段々と増え始めた。岡山市で一緒に木を植えた、たいちゃんは当時
18歳。次の年からカナダへの留学が決まっていた。やたらと思いリュックの中身を調べたら、実は参
考書持参で来ていたのが可笑しかった。

ザンビアで逢った鎌倉の鉄平くんが友達のマキコちゃんと、そして愛知から加藤くんも来てくれて総勢
7名で広島の平和祈念公園を目指した。

最後の数日は夜遅くまで歩く強行軍で、マキコちゃんの足の指はマメで膨れ上がっていた。
他の皆も小さなマメや筋肉痛に悩まされる。
それでも、神社で野宿したり、コンビニの前で宴会をしたり、北広島では木を植えることも出来て、7
人の旅を皆楽しんでいた。一歩一歩前進する毎に7人の一体感が増して来るのを感じた。

いよいよ広島まであと一息。峠越えのルートを選ぶ。都会に入る前に皆で川で泳いだ。8月の真っ只中
、冷たい水が気持ち良かった。眼下に広島の街並みが見える。

8月5日夜、お好み焼きの夕食を済ませて平和記念公園に到着。7人で公園に野宿。

翌朝、明るくなって気が付いた。僕達は平和式典の会場の直ぐ近くで野宿していた。早朝にポールが東
京FMの生放送インタビューに答える。

式典最中、会場には何とも言えない緊張感が漂っていた。小泉首相のスピーチ。声が小さくて何も聴こ
えない。野次も飛ぶ。式典に参加して、戦争の傷跡は何年も続くことを実感した。

午後の平和祈念公園は午前の式典と対照的にとても楽しげだった。川辺が音楽で溢れる。オーストラリ
アのウラン鉱山から北海道―広島と平和巡礼を続けてきた原発に反対する国籍様々な若者達にも出逢え
た。

夕方からの灯篭流しは幻想的だった。

川の近くの公園では夜遅くまで沢山の若者が集まって太鼓を叩いたり、踊ったり、年齢、人種も様々で
、驚く位に国際的な雰囲気だった。世界の誰もが知っている広島そして長崎。実はそこが世界中の若者
達の大事な交流の場になっていることを体感した。

写真:マキコちゃんの足

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2008-04-27

寝ながら歩く (本出版に向けて・その81)

寝ながら歩く (本出版に向けて・その81)
「価値ある人生は長し」
チャールズ・ヤング:アメリカの天文学者

ここ数日、携帯電話が使えなくなっています。
万が一連絡を下さった方、すいません!
原因究明中です。


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住宅街の中にある神社のちょっとした空きスペースなんかを使って野宿した。朝起きると、近所のおば
あさんがリポビタンDをくれた。そんな小さな触れ合いがとても有り難く、先を目指すパワーに変わる。


友人の紹介で何日かに1回は民泊もあった。屋根の下で布団に入って寝られるのがとんでもなく有り難
く感じる一時。

アースウォーカーの日本語サイトを見つけて京都新聞の記者さんが連絡をくれたので、取材を受けに京
都まで足を延ばすことにした。といっても、8月6日に広島に着く為には日数も限られているので、な
かなかの強行軍だった。

ポールも僕も初めての京都。日曜日の午前中、殆ど誰も居ない京都新聞7階の食堂で比叡山を眺めなが
らとてもリラックスした雰囲気でポールのインタビューが行われた。その後新聞社の前で写真を撮る。
記念すべき日本の初記事。はやり何でも初めてというのは嬉しいものだ。ポールも僕も、それだけで何
だか元気になった。

大阪までの最後の20km程は本当に辛かった。都会に近づき、寝る場所も見付からない。僕達は夜通
し歩き続けた。朝方、力尽きて道路わきの小さな芝生スペースで仮眠を取る。

どちらとも無く起き出して又歩き始める。道路の車線が増え、車の交通量が一気に増え、大都会が近づ
いてきたことが分かる。アスファルトの照り返しで、朝なのに既にムッとした熱気が下から上がってく
る。

僕は生まれて初めて歩きながら寝た。ほんの数mであったが、僕は寝ながら歩いていた。前から自転車
に乗った人が来た。ポールは僕が寝ながら歩いているのに気がついて起こしてくれた。間一髪で自転車
に突っ込む処だった。

大阪城を目指す。ラストスパート。人ごみの中でリュックを担いだ2人組み。大阪城への最短距離を探
しながらまた喧嘩になる。

お昼前にやっと到着。二人ともホッとする。ポールと宏一の日本を歩いて木を植える珍道中パートワン
がなんとか終了した。植樹の成果は名古屋をスタートする時に植えたレモンの木一本。たった一本、さ
れど一本。日本の旅は思った程楽では無かった。

写真:大阪城到着。実は2人ともヘトヘト。

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2008-04-26

時には喧嘩も (本出版に向けて・その80)

時には喧嘩も (本出版に向けて・その80)
日本を歩くのは、アフリカを歩くのと随分事情が違った。より文明の発達した日本を歩く方が便利で歩
き易いかと思いきや、そうでは無かった。何よりも車の多さに悩まされた。

名古屋から大阪までの道程。なるべく忙しく無い道を歩きたいがそんな道は滅多に無い。国道を歩くと
夜でもトラックがバンバン走っている。時にはそんな忙しい道で歩道が無い時もある。コンスタントに
続く車、トラックの騒音と車に轢かれないかという心配、そして追い討ちはとんでも無く蒸し暑い夏。


アフリカは暑かったが空気は乾燥しているので、木陰の下はとても涼しく、絶好の休憩場所。良く昼寝
をした。一方、日本を歩いていると気軽に昼寝出来る場所なんてなかなか無い。苦肉の策でパチンコ屋
に涼みに入ったが、店内は窓が無く、昼か夜かも分からない空間で、タバコの煙とこれまた騒音に近い
BGMに包まれると休まった気がしない。

そんな徒歩が数日続いた。正直、思い描いていた楽しい徒歩とは程遠いものだった。

寝る場所も決まっていない。ましてや木を植える場所も決まっていない。ポールと僕は黙々と、兎に角
次の大都市、大阪を目指して歩き続けた。

良く喧嘩もした。しかも結構な大喧嘩だ。殴り合いなんてことにはならないが、怒鳴り合いの喧嘩。今
思い起こすとポールに対して申し訳無い気持ちになる。

「日本の人達はきっとポールの活動を理解して応援してくれる。」その言葉を信じて日本に来てくれた
ポール。実際の処、道路標識も分からない、コンビニで地図を見ても日本語ばかりで自分が今何処を歩
いているのかすらなかなか理解出来ない。

僕がそれを全てサポート出来れば良かったのだが、正直歩く経験が足りなかった僕は、いい加減に地図
を見て道を間違えてしまったり、自分の勘で道を選んで間違えたりと、自分でも情けなくなる位にサポ
ートの役目が果たせていなかった。

暑さ、コンビニ食続きの食生活の乏しさ、「この先どうなるのだろう。」という心細さなどの感情も加
わり、道を間違えた時等に喧嘩になる。

「こんなことだったら日本に来なきゃ良かったよ。」
「誰も来てくれなんて頼んでないよ。」
思ってもいない様なひどい台詞が口から飛び出る。

仲直りしてまた先を目指す。珍道中が続いた。

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2008-04-25

2004年夏、日本初植樹(本出版に向けて・その79)

2004年夏、日本初植樹(本出版に向けて・その79)
「節倹は大いなる収入である。」
キケロ:ローマの政治家

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(当時の日記から。パチンコ屋の冷蔵機能付ロッカーにはかなり驚いた。加藤くんはその後もずっと僕
の活動をサポートしてくれている。)

2004年7月15日

「記念すべき日本初植樹」

いよいよ昨日、アースウォーカーと一緒に僕も歩き始めました。実に昨年のザンビアから半年振りです
。今までアースウォーカーのお供をしてくれたきんちゃんとバトンタッチです。

名古屋の熱田神宮からスタート、25キロ程歩いて桑名に住んでいる川島さんのお宅にお世話になりま
した。川島さんはリブランコーポレーションという会社を 経営なさっていて、コンスターチ主成分の有
機プラスチック製品を作っていたり、お米の糠を集めてパウダーにした健康食品を作っていたり、とて
も幅広く環境 に優しい活動をしていらっしゃる方です。

川島さんのお陰で、先日めでたく、日本で初めての植樹が行われました。場所は愛知県安城市にある安
祥中学校。本田校長先生を始め3人の先生と、3人の生徒 さんが植樹に参加して下さって、校内にレモ
ンの木が植えられました。記念すべき第一号の木です。素朴で素敵な植樹でした。川島さん、山田さん
、ありがとう ございます。

11日の山村レイコさんのお宅での講演会も大成功。この講演会に向けて用意したポール自作のハッピ
ーソングCDと、RE機構さんのリサイクル乾電池も講演会に参加して下さった皆様に渡す事が出来ました
。隆一さん、そして山村レイコさん、長崎まで歩き終えたら又お邪魔させて頂きます。ありがとうござ
いました。

その後は学生時代からの友達の加藤君がなんと専務(どうも一番偉い役職です)を勤める愛知県蒲郡の
西浦温泉の和のリゾート「はづ」でゆっくりさせて頂きました。僕は帰国後初めての温泉。海を見下ろ
す露天風呂を大満喫。立派に従業員60人近いホテルの長を務める加藤君の姿に感動しつつ、昨日名古
屋に向かいました。

いざ歩き始めるとやっぱり暑い。梅雨の筈なのに雨はどこへやら。で、見つけました。避難場所を。パ
チンコ屋です。一号線沿いはやたらとパチンコ屋が多いの で、今日はポールと一緒に2回も涼みに行き
ました。で、びっくりしたのが冷蔵機能付ロッカー。これは買物帰りの奥様の為なんでしょうか。いや
いや、すごい気配り。天晴れ日本のパチンコ屋さん。これからもたまに涼ませて頂きます。

今は一号線沿いの漫画喫茶です。これまた便利。こうやって漫画喫茶を探していけばこの地球日記もそ
こそこタイムリーに書けそうです。これから鈴鹿を越えて、亀山を目指します。ご近所の皆様、是非一
緒に歩きませんか?

それではそろそろ徒歩再開です。

(加藤くんのホテル、和のリゾート「はづ」はふくろうがキャラクターになっている。のでサイトから
フクロウの絵をみつけてきました。)

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2008-04-24

ザンビアのブライアン (本出版に向けて・その78)

0602s_190

「我々の信用は我々の一つの財産である。」
ジュベール:フランスの哲学者

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世界平和と祈りの日に参加している間に嬉しいニュースも入ってきた。ポールが、2005年の愛・地
球博で「地球を愛する100人」に選ばれて万博で講演をすることになり、メッセージビデオの収録も
行われた。

夏至の祈りを終えて、僕たちはザンビアで出逢った隆一さんが住んでいる朝霧のフェアリーテールに向
かった。

隆一さんはそこで大きなログハウスを造っていた。

パートナーの山村レイコさんは知る人ぞ知る、パリダカも完走したラリーライダーで、19歳の時に1年か
けて、バイクで日本を1周、3万キロを走った。その時の日記を見せてもらった。所々に詩が書いてあっ
てとても素敵なノートだった。「やはり大人物は若い頃から粋な事をするんだな。」と関心してしまっ
た。

僕達はこのフェアリーテールから日本の旅をスタートすることにした。

正に、富士山から広島、長崎まで歩く御伽話の始まりだった。

朝霧から先ずは東海自然歩道を歩いて名古屋まで。旅のスタート、僕はポール、ブライアン、きんちゃ
んの3人を見送る形になった。

横須賀の国立病院で腫れた歯茎の検査をする為。

検査には随分と時間がかかった。詳細は覚えていないが、レントゲンをとったり、血液をとったりと、
色々と手間を取った。

結局2週間程待たされて、やっと結果が出た。ガンじゃない。僕の歯茎は単に化膿して腫れているだけ
だと分かった。

正直、無茶苦茶ホッとした。

それにしても健康っていうのは、やっぱり失った時に有り難さを感じるものだ。

僕はその2週間、健康について真剣に考えた。3年9ヶ月振りに日本に帰って来て、いきなり洗礼を受
けたかの様な出来事。結局大事でなく良かった。それにして、歯茎が化膿してしまうってことは、やっ
ぱりアフリカの歯医者さんは衛生状態があまり良くない訳だ。

そんな一騒動のお陰で、僕は鎌倉の実家を拠点にあれこれと初めての日本でのウォークの準備に動くこ
とが出来た。

ポールときんちゃんとブライアンはヒルに悩まされながら東海自然歩道の険しい山道を越えていた。

ブライアンはいち早く戦線離脱。鎌倉に戻って来た。40代後半のブライアンには東海自然歩道の山道
はちょっと厳しかった様だ。「ポールはあんな険しい山道を平気で歩いている。クレイジーだ。」と言
っていた。

ブライアンはザンビアに住むアイリッシュ系の白人で、陽気な僕の兄貴分だった。アメリカにもう何年
も逢っていない息子が2人住んでいて、結局ブライアンは早々にアメリカに行ってしまった。また日本
に帰ってくるつもりで洋服を僕の実家に沢山置いていったが、そのまま帰ってくることは無かった。

僕はその後、ブライアンが置いていった皮の帽子を気にいってずっと使っていた。

昨年(2007年)12月3日の結婚式当日(か前日)にその帽子は行方を眩ました。

結婚するまでブライアンが僕を見守っていてくれたのだろう。(ブライアンはまだ健在なのでそんな書
き方は適当でないかもしれないが。)

ポールときんちゃんは無事、東海自然歩道を名古屋まで歩ききり、きんちゃんは群馬の実家に戻り、名
古屋からはポールと僕の2人で歩き始めた。

2週間以上山道を歩き続けたポールは一瞬見違える程に顔がほっそりしていて驚いた。

写真:きんちゃんとブライアン

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2008-04-23

祈りの輪 (本出版に向けて・その77)

祈りの輪 (本出版に向けて・その77)
「苦悩を突き抜けて歓喜にいたれ」
ベートーベン

凄いこと言うなー。


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その方に、僕達はこれから富士山を出発して、広島、長崎まで歩いて木を植える旅をする旨を伝えると

「それは富士山でコノハナサクヤヒメに出逢って、広島の大三島でコノハナサクヤヒメのお父さんのオ
オヤマズミの神様に逢いに行く旅なんだね。」と言った。ポールはその説明を聞き、えらく納得してい
た。

「富士山が怒っている。結界を解いて噴火させなければならない。」その方の話はずっと僕の頭の片隅
に残っている。その方は腕に水晶のブレスレットをしていた。ブレスレットが切れた時に結界を解きに
行くと言っていた。

あれから4年、富士山はまだ噴火していないが、ふとした時に、あの人はどうしているかな。と思う。


そして夏至の日、祈りの当日は「雷の母」という名前の台風6号のお陰で会場は朝から雨模様だった。
風も強い。朝8時前、会場では既に沢山の人が輪になっていた。ポール、ブライアン、きんちゃん、僕
の4人も輪に加わる。雨風はどんどん強くなる。

輪の中心ではセレモニーが行われているが、テントが張ってあるので中の様子は分からない。

何百人の人達が無言で輪を作り、セレモニーをしているテントを見守った。

雨具も持たないで来てしまったことを後悔した。とんでもなく寒い。

暫くして僕は寒さに耐えきれずに輪を離れた。結局祈りの輪は、朝の8時から3時過ぎまで続いた。

世界平和と祈りの日に参加した多くの人が、最後まで輪を離れずに祈りを捧げて大きな感動を得たと後
に聞いた。それを聞く度に、自分が輪を離れてしまったことを後悔したが、正直、僕はあの寒さには耐
えられなかった。

最後まで輪に加われなかったのは残念だが、一時でも輪に加わり、共に世界の平和を祈ることが出来て
良かった。

かくして世界平和と祈りの日が無事終わった。

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2008-04-22

WPPD 2004 (本出版に向けて・その76)

WPPD 2004 (本出版に向けて・その76)
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず」
鴨野長明

ハッピーアースデイ!

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朝霧の会場に到着したのが夏至の4日前の6月18日の夜だった。19日の朝、眼前に大きな富士山を
見ながら、準備に来ている人達で大きな輪を作っていた。広島の原爆の残り火、福岡県星野村の平和の
火がランタンに灯されて朝霧の会場に到着。それを輪の中心に置いて、朝のセレモニーが行われた。輪
になっているのは4−50人程。

そこには、旅に出る前に仲良くなった音楽家の吉田健吾さんも居た。そして、その後色んなイベントで
出逢うようになったキャンドルジュン君の姿もあった。大きな輪の正面にはまるで仙人の様に立派な白
い髭を蓄えた男性が居た。絵本作家のアキノイサムさんだ。

ほぼ4年振りに日本に戻ってきて、いきなりこんな輪に参加して、「やっぱり日本は凄い。」と感じた
。何だか、平和を祈る戦士達の輪に突然参加してしまった感じだった。インディアンの方がお祈りを捧
げてくれた。

夏至までの二日間、ポールの講演会が2回行われた。僕は通訳をやらせて貰った。

念願の、日本でアースウォーカーの活動を知ってもらう初イベント。緊張したが、楽しかった。最初は
インディアンティピの中で、こじんまりと行われた。テレビのサバイバル野人王選手権で優勝した火興
し達人の大西くんが昔ながらのやり方で火興しをしてくれて、その火をキャンドルに移して日本初の講
演が始まった。

アフリカで出逢った鎌倉の鉄平くんや俊介くんも来てくれていた。

ポールの後にティピィでお話した玉田(?)さんのお話がとても印象的だった。

その方は富士山の山頂を目指す登山ガイドを長年やっていて、富士山には数え切れない程登っている。
そんな彼がある日、富士山の神様である、コノハナサクヤヒメからお告げを貰ったそうだ。

「富士山は、1707年の宝永の大噴火以来静かになっているのは、宝永の大噴火の後に樹海のある場
所に仏像を置いて結界を張ったからだ。お陰で人々は富士山に対する畏敬の念を忘れて、山のあちこち
でゴミを捨て、休憩所では不当に高い値段で飲食を販売したりしている。貴方にその仏像を取り除いて
結界を解いて欲しい。」という内容だったそうだ。

記録に残っている富士山の噴火は西暦781年以降16回にのぼり、そうやって考えると、確かにこの3
00年も噴火していないのは不自然とも言える。

ポールに彼の話を翻訳して教えると、ポールは凄く納得していた。

「彼は富士山の山頂ガイドで、誰よりも富士山のことを良く知っている筈だから、富士山の神様が彼に
お告げを伝えるのは当たり前だよね。」

そう言われてみればその通りだ。

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2008-04-21

聖なる白いバッファロー (本出版に向けて・その75)

聖なる白いバッファロー (本出版に向けて・その75)
「世界平和と祈りの日」はアメリカのインディアンのラコタ族の酋長が始めたお祭りで、94年に「ミ
ラクル」という名の白いバッファローがウィスコンシン州で生まれたことがこのお祭りのきっかけとな
っている。

実はこのこととポールと僕が富士山麓の「世界平和と祈りの日」を目指したことには関係がある。

ポールは94年のアースデイにサンフランシスコを出発して、1年後のアースデイに当時内戦中のサラ
エボに1本の平和の木を植えに行く旅をする為にワシントンD.C.まで徒歩でアメリカを横断していた。


歩きながらポールは人類最初のインディアンチーフの御伽話を創っていた。人類最初のインディアンチ
ーフ、チーフ・グッドフレンドは肉体が老いてくると、活き返りの儀式で肉体を新しくして、もう何百
年も生きているチーフだった。

そしてその「活き返りの術」を弟子に伝授するシーン。チーフが地面に横たわり、落ち葉を自分が隠れ
る位に沢山被せる。祈りを捧げると、セージの精が現れる。そして空からは稲妻と共に聖なる白いバッ
ファローが現れて、稲妻で落ち葉を焼き尽くすと、中からは新しい、活き活きとした肉体を授かったチ
ーフ・グッドフレンドがすっくと立ち上がる。

ポールは自分の空想の世界で生まれた聖なる白いバッファローを登場させたが、アメリカを横断してい
る時にたまたまインディアンのサンダンスというお祭りに参加して、インディアンが実際に白いバッフ
ァローを「聖なるもの」として崇めていることを知った。

そしてある日、新聞記事に実に数十年振りに聖なる白いバッファローの「ミラクル」がウィスコンシン
州で生まれたことが載っていた。その時ポールはちょうどウィスコンシン州の近くを歩いていて、その
記事を見て驚いたそうだ。

という訳で、ザンビアでインターネットを使ってこのお祭りのことを知った時、ポールと僕は迷わずこ
のお祭りを目指して日本に行こうと決めた。

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2008-04-19

ガーーン! (本出版に向けて・その74)

ガーーン! (本出版に向けて・その74)
「誰でも機会に恵まれない者はいない。ただそれを捕らえられなかっただけなのだ。」
カーネギー:アメリカの実業家

厳しいなー。

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富士山で2004年の夏至に開催された世界平和と祈りの日。

この日に向かってポールと一緒にアフリカから日本を目指した。僕にとっては3年9ヶ月ぶりの日本。
そして、ポールにとっては、33年振りの日本。そう、ポールはなんと17歳の時に一度日本を訪れて
いる。

イギリスの商業船の乗組員として。

その時の話がまた漫画の様に面白い。

ポールは当時、コックさんとして英国商業船に乗り、世界を旅していた。その船が和歌山港に近づいて
きた時、ポールは船の最下階で床を掃除していたそうだ。すると、突然電話が鳴った。電話を取ると、
「船長命令だ。面舵一杯今すぐきれ!」と言われ、電話が切れた。

何かの間違いだろう。ポールは思った。すると、間も無くしてもう一度電話が鳴る。
「分かってるのか?面舵一杯、今すぐだ!」また船長だった。すると、次の瞬間、「ドーーン!!」と
凄い衝撃が船を襲った。

ポールが乗った船は、和歌山港の石油パイプラインに衝突した。そのお陰で、和歌山は一時停電になり
、新聞を賑わすニュースとなった。

船長はお酒を飲んでいたらしい。ポールは船長から口止めされたとかされないとか。

そんな訳で、その船は2週間、呉の港に修理の為に滞在することになり、ポールはその間に電車に乗っ
て広島まで足を延ばしたそうだ。

という訳で、ポールにとっては2度目の日本となった訳だ。

僕達は南アフリカのヨハネスブルグから、中東のドバイ経由で大阪に向かった。ポールは当時、シリア
を歩いていた時にプレゼントされたアラファト議長のトレードマークだった白黒の格子のヘッドスカー
フを頭にまいていた。

良く似合っていたのだが、ドバイから大阪に行く飛行機に乗った時、僕達は出発ギリギリに飛行機に乗
り込むと、既に席に着いていた日本人客の視線が一気に集まって来たのが分かった。長髪の明らかに放
浪歴長い風アジア人と、これまた髭モジャの国籍不明風のアラファト議長と同じヘッドスカーフをまく
謎の西洋人のコンビが入って来たのだから無理もない。僕達はそんな視線を楽しみつつ、席に着いた。


3年9ヶ月振りの日本。中国大陸を越え、先ずは五島列島が見える。そして、壱岐、対馬が見える。旅
の間に、海狼伝という、対馬の海賊の本を読んだことを思い出す。

丁度出雲の辺りの山を越えて、大阪に入る。長年育った場所ながら、緑の多さに驚いた。

大阪の空港では案の定(?)ポールと僕は別室に。何をしに日本に来たのか。戦没者の為に木を植える
旅をするんだと話すと、快く通してくれた。

羽田空港から鎌倉へ。大船駅を降りると、ラーメン屋に入る。ポールと、然程美味しくないラーメンを
すする。やがて父が車で迎えに来てくれた。

3年9ヶ月ぶりの近所の街並み。思ったほど変わった感じは無かった。いざ帰って来てみるとあっさり
したものだ。久々の帰郷はもっと感慨深いものかと思っていた。

最初の数日はポールを連れて鎌倉観光。鶴ヶ丘八幡宮や小町通り、由比ガ浜を歩いて、最後は大仏から
山道を歩いて葛原が丘へ。鎌倉がこんなに緑が多くて綺麗な町だっていうことを忘れていた。

数日後、ブライアンときんちゃんも鎌倉に到着して、メンバーが揃い、4人で富士山の麓、朝霧高原の
「世界平和と祈りの日」の会場を目指した。

僕はその数ヶ月前、ザンビアのルサカで虫歯の治療をしていたのだが、治療をした部分の顎が日本に帰
ってきたタイミングで腫れ上がって来た。近所の歯医者に行くと、なんとガンかも知れないと言う。横
須賀の大きな病院で検査をしてもらうことになった。

正直、目の前がちょっと暗くなった。「ガン?まさか。」

富士山に世界の平和を祈りに行く前にとんでも無いニュースだった。

3人を乗せて富士山に向かう車を運転しながら、僕の心中は暗かった。「どうしよう。」皆は「そんな
訳ないでしょ。」と励ましてくれる。大丈夫に違いないけど、やっぱりふとした瞬間に考え込んでしま
う。

そんな複雑な気持ちで朝霧の会場に到着した。

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2008-04-18

いよいよ日本へ。(本出版に向けて・その73)

いよいよ日本へ。(本出版に向けて・その73)
「成功の秘訣を問うな。なすべき一つ一つに全力をつくせ。」
ワナメーカー:アメリカの実業家

はーい。

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南アフリカでは、ポールの活動を全面的に支援してくれているロニー環境大臣からポールへの賞の授与
式があった。そして後日には大統領官邸内のボールルームでのロニー環境大臣の本の出版祝賀会に参加
させて貰う機会があった。大統領官邸に入れるなんて。ポールは南アフリカを歩いていた時にお世話に
なっていた環境省の人達と再会出来てとても嬉しそうだった。

パーティーが終わる頃、大統領官邸の中庭できんちゃんが綺麗な歌声で「さくらさくら」を唄ってくれ
たのがなんとも懐かしい。

結局その日から2ヵ月半、ポールと僕は南アフリカに滞在した。

ザンビアでポールがサイト創りの作業をしている時に、2004年の夏至に富士山の麓で「世界平和と
祈りの日」というイベントが開催されることを知り、僕たちはこのイベントを目指して日本に行こうと
決めた。その後、ポールの賞の授与式が南アフリカで行われることが決まり、僕達はザンビアからマラ
ウイへの徒歩をお休みして、南アフリカから日本に行くことにしたのだった。

当時書いていた日記の文章を載せてみる。

(当時の日記から)
いよいよ明日、日本に帰国します。3年9ヶ月振りの日本です。ポールと、ルサカでお世話になったブ
ライアンも一緒です。そしてクスコでレストラン「金太郎」を経営していたきんちゃんこと、松村清子
さんも加わって、総勢4名で富士山の「世界平和と祈りの日」に向かいます。その他友達数名も富士山
で 合流予定。そして、富士山から広島を目指して歩きながら植林をしていきます。

ポールがHeart of Humanity Awardを受賞して、その授賞式の為に4月にザンビアから再び南アフリカに
やって来ました。南アフリカの森林大臣からポールに、ハートを模った素晴らしいガラス細工が渡され
、その様子は翌日地元新聞にも掲載されました。このHeart of Humanity Award、なんと去年はダライラ
マが受賞しています。

その後、ラスラーズバレーのイースター祭りに行ってきました。僕は去年の2月にラスラーズでポール
に会いました。レソトの山脈を遠くに見渡す、太古の聖地ラスラーズ。ポールと一緒に又そのラスラー
ズに戻ることが出来たのも、授賞式のお陰です。
そしてヨハネスブルグでの2ヵ月半はあっという間に過ぎました。

ヨハネスブルグ郊外の小学校2校を訪問、ポールが講演会を開いた後、各校1本ずつ、木が植えられま
した。その他、三菱商事の方と打ち合わせをさせて頂いたりと、充実した日々でした。2010年ワー
ルドカップ開催も決まり、南アフリカは今、活気にあふれています。

その南アフリカを明日出発、1年半以上滞在したアフリカ大陸を離れて、日本列島へ。楽しみです。日
本ではより多くの方々にアースウォーカー(ポール)を紹介出来ればと思います。皆様なにとぞ宜しく
お願い致します。
(日記以上)

写真:ポールと当時の南アフリカの環境大臣のロニー

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2008-04-17

ザンビアから南アフリカへ(本出版に向けて・その72)

ザンビアから南アフリカへ(本出版に向けて・その72)
「少し飲み、そして早くから休むことだ。これは世界的な万能薬だ。」
ドラクロア:フランスの画家

これですねー。

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2004年はイギリスからグリンも来てくれて楽しい正月を過ごすことが出来た。年明け、お隣の国の
マラウイに向けて徒歩を再開する筈だったが、ビザの延長手続きが思いの他手間取った。

ザンビアに来て5ヶ月近くが経ち、政府の手続きは何かと時間がかかるのは分かっていたが、ビザ延長
には頭を悩まされた。ルサカに滞在する間、ポールと僕はボブ島で一緒に年越しをしたブライアンの家
に居候させて貰っていた。

ブライアンは彼女と一緒にウェブ会社を経営していて、ポールのアースウォーカーサイトを刷新しよう
という話になった。ブライアンがポールにウェブデザインのノウハウを伝授した。そこからはポールの
驚異的な集中力で、アースウォーカーサイトの生まれ変わり作業が始った。

ポールと僕はブライアンのオフィスに泊まり込み、ポールはほぼ連日、徹夜で作業を続けていた。

そしてなんと2ヶ月強、ポールはほぼ休み無しで作業を続けて新しいサイトを自力で完成させた。ポー
ルの集中力に心底驚いた。

僕はその間にビザ延長手続きを済ませたり、大統領との植樹を実現すべく、環境省に通ったりした。そ
してもう一つ、実現させたいことがあった。ポールを日本に招待することだ。

調べてみると、4月の終わりに宮崎で「全国植樹祭」なるものがあることが分かった。この植樹祭にポ
ールを参加させて貰えないだろうかと考え石大使にその旨、全国植樹祭に一筆書いて頂こうというとい
うアイディアが思い浮かんだ。

数日後、たった5分程だったが大使に面会させて頂いた。大使は気さくな笑顔で迎えてくれた。嬉しか
った。全国植樹祭の件は、植樹祭の主旨に同意しない大使としては協力出来ないとのコメントを頂き納
得した。植樹祭準備の為に元々あった木をわざわざ切り倒す等、大使としては納得の行かない現状があ
った様だった。それを聞き、僕も全国植樹祭に手紙を書くことを諦めた。

ナイロビ在住の早川千晶さんという女性にポールの活動を説明するメールをした処、早川さんがその旨
をソトコトという環境雑誌の載せて下さり、それが元で当時テレビ番組の「情熱大陸」の製作会社に居
た佐賀さんからわざわざ国際電話で連絡を頂くこともあった。

結局番組になることは無かったが、佐賀さんとの交流は今も続いている。(因みに佐賀さんは今は自分
のメディア製作会社を運営している。)

そしてお正月に引き続き、2週間リビングストーンに行くこともあった。

はるばるクスコから遊びに来てくれた「きんちゃん」と一緒だった。きんちゃんはクスコで「金太郎」
という日本食屋さんを経営していた。その金太郎を1月に閉めたきんちゃん、「地球を歩いて木を植え
る。」とは一体どんな事なのかと、はるばるクスコから足を運んでくれた。

ポールがサイト作成に忙しく、未だ歩き始める迄時間があった為に二人でリビングストーンに行く事に
した。リビングストーンでは「ゲッコーゲストハウス」に泊まった。「ゲッコー」にはルサカでお世話
になっているブライアンの弟のリチャードが住んでいる。彼は「ゲッコー」で管理人の仕事をしながら
絵を描いている芸術家で、首都のルサカで展示会もしていた。

そして、もう一つの仕事が「ウォーキングサファリガイド」だ。リビングストーンにはサファリパーク
があって、大きさは4km四方位。朝日の昇る6時過ぎ位から、4時間位かけてゆっくり公園内を歩く
。きんちゃんと僕はラッキーな事にこのサファリに5回も連れて行ってもらった。お客さんはいつもだ
いたい3−4人で、そこに混ぜてもらって総勢7−8人で一列になって歩く。僕はいつも一番後ろを歩
いていた。

猿(バブーンと呼ばれてた。)、シマ馬、イノシシ、キリン、サイ、鹿各種、バッファロー等が見られ
る。そして歩いている間中、色々な鳥の鳴き声が聞こえる。一番見応えがあるのはサイだ。或る日、リ
チャードは他のお客を相棒のチンガに任せて、きんちゃんと僕を連れてサイ探しに出掛けた。足跡を追
って茂みの中を歩く。

ここ連日の雨で地面はぬかるんでいる所が多く、泥んこになりながら、裸足でリチャードに付いていく
。きんちゃんは靴を履いていて、泥で靴が重そうだ。1時間近く足跡を追って歩き続けた。前日はもっ
と簡単に見つかったのに、一体何処に行ったのか。諦めかけた頃にリチャードが向こうの茂みにサイを
発見。流石。この執念があってこそ、ガイドが務まるんだなと実感。その日は一番冒険感覚が味わえた
サファリだった。

ビクトリアの滝は1月に来た時とは比べ物にならない程、水量が増していた。その年(2004年)は
何十年ぶりかで水量が多いらしかった。滝の下半分は真っ白で殆ど何も見えない。滝しぶきでビショ濡
れになる。それが何とも気持ち良い。きんちゃんと僕はまるで銭湯に行くかの様に足繁く滝に通った。
僕は何時も海水パンツ一丁で 滝の周りを歩いた。夕方には斜めから射す日の光でとても綺麗な丸い虹が
出ていた。

3月21日の春分の日(ここは南半球なので秋分の日)はリチャードときんちゃんと一緒にビクトリア
の滝に朝日を見に行った。滝に行く途中、サファリでも見れなかった象の群れに出遭った。滝からの帰
り、リチャードとチンガが企画しているアートセンター建設予定地に3本のアボガドの木を植えた。こ
の日はとても清々しい一日だった。

リビングストーンでの楽しい2週間はあっという間に過ぎた。ゲッコーゲストハウスは、僕等の他には
、わずかに2組が2−3日居たのみで、殆ど貸し切り状態だった。リチャード、チンガ、きんちゃんと
僕の楽しい共同生活。きんちゃんは何時も美味しい料理を作ってくれた。2匹の犬、タイガー(娘)と
ジャック(母)は何時も腹を空かしていて、食事の最中は顔を僕の膝の上に乗せてきた。

そしてリビングストーンから戻ると、素晴らしいニュースが届いた。ポールが2004年4月5日に国
連公認の人権団体から表彰される事になり、南アフリカに出発する事になった。マラウイに向けての徒
歩再開が遅れるが、こんなにめでたい事は無い。ポール、きんちゃん、ブライアンと僕の4人で、ザン
ビアから南アフリカを目指した。

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2008-04-16

大阪最高!

大阪から帰って来ました。

またまた、最高の旅でした。

「出逢いこそ全て」を実感しています。

「そらの木、こころの木」を主催するまーちゃんうーぽーさん、最高です。うぽー。

今回のイベントに参加して、僕の心にもしっかりと木を植えてもらいました。

土曜日のイベントに木曜日から大阪に入り、すこしずつボランティアスタッフの皆と交流しながら迎え
た本番。僕にとっては前代未聞の大ステージで大緊張でしたが、終ってみれば最高に楽しくて、魂を揺
さぶるイベントでした。

300人のお客さんを動員して、80人以上のボランティアスタッフが無駄なく自然に、楽しくお祭り
をこなす姿に感動。

まーちゃんうーぽーさんが言う

「唄って踊って平和をつかめ」の意味が、一緒に唄って踊って体で理解出来ました。

「祭りが世界を変える。」

これですね。

木を植える祭り、どんどん参加、創造して行きたいと心に決めた大阪の旅でした。

そして記念すべき今年初の植樹。大阪市立築港小学校の校庭に、6年生の皆と、まーちゃんうーぽーさ
んと、「そらの木、こころの木」実行委員長のさっちんと一緒に植えた2本のシラカシの木。元気に大
きくなります様に。

しっかり者で心優しい築港小学校の6年生にも出逢えて、益々大阪ファンです。

この植樹を企画して下さった山本先生を始め、書き上げたらきりが無い程、5日間の間に沢山の方に出
逢い、お世話になりました。ありがとうございます!

昨日から始った内モンゴルでの植樹祭の成功を祈っています。

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2008-04-10

「そらの木、こころの木」 4月12日大阪でイベントです。

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「御縁のありがたさ」

今日から4日間、大阪に行きます。大阪に行くのは一年3ヶ月振りです。

まーちゃんうーぽーさん主催の「そらの木、こころの木」というイベントに参加します。

「そらの木、こころの木」は「地球に森が生き還る大作戦」と称して、内モンゴルでの10万本の植樹
を目指す植林ツアーの苗木代の寄付を募るイベントです。

今、「グリーンオリンピックウォーク」と称して、香港から北京までの10ヶ月、3千キロの徒歩の旅
の最中のポールと木乃実さんがこの植林ツアーに参加します。

僕はポールと木乃実さんの友人代表としてこのイベントでお話をする機会を頂きました。

そして、この「そらの木、こころの木」のイベントに僕が参加することを知った大阪市内の小学校の先
生が、小学校での講演と植樹を企画して下さいました。この先生には、一年3ヶ月前に講演で大阪に行
った際に知り合いました。

こうやって書いてみると僕はつくづく、人の御縁で生かされていることを感じます。

まーちゃんを始め、今回の大阪でどんな出逢いが待っているのか。楽しみです。

「そらの木、こころの木」は4月12日です。

皆様是非参加して下さい。

====================================
http://ameblo.jp/soranoki-kokoronoki/
(そらの木、こころの木:ブログ)

○4月12日(土)○

大阪府豊中市・市民会館大ホール
(豊中市曽根東町3-7-1 TEL 06-6864-3901 )

○12時開場  13時〜18時30分 ○

○チケット○
チケット前売:1500円  学生以下:500円チケット  
当日:300円UP (幼児&介護者は無料)
  

このチケット代金には、
苗木募金10本分を(学生以下は3本)含んでいます

■目的■

『地球に緑と笑顔を増やすこと』を目的とします。
 
地球温暖化の今、私たちに「出来る事」や「植林」の大切さ考えます。
 
また、このイベントの収益金は「内モンゴル植林ツアー」の苗木募金へ寄付します。

■プログラム ■

●13時〜15時30分●   

第1部 『植林に行こう』
トークライブ

世界100カ国以上を旅し
こどもたちのために
チャリをこぎ世界中で
話まっくっている
男性

地球のどこにいても
生きれる人間になりたいと

世界を旅し
戦争で犠牲になった人の数だけ
地球に木を植えつづけている
新米お父さん

2人が
みて・感じた
<ちきゅう>

ちきゅうに
住む
あいするもののため

かれらは
なにを語るのか

    ○ゲスト○
松本英揮(環境活動家) 
中渓宏一(歩いて木を植えるお父さん)

●16時〜18時30分●    
第2部 『そらの木、こころの木』ライブ
子どもからお年寄りまで楽しめる音楽祭

○南ぬ風人まーちゃんバンド(風と大地の島唄バンド) 
○風人ブドゥリ太鼓(西表島エイサー)

ちきゅうをあいする
100人に
えらばれた

アーティスト
「風人」(かじぴとぅ)=「自然と共にいきる」

かれらが

表現する

音たちが

こころの

風をおこす

主催:「そらの木、こころの木」実行委員会

共催&お問い合わせ
NGO風人ネットワーク(風人の家)  
電話:06-6101-8818  FAX06-6889-7731   
大阪市淀川区西中島南方1-13-13-2F  
メールkajipito@painukaji.com   URL http://www.painukaji.com

http://ameblo.jp/soranoki-kokoronoki/
(そらの木、こころの木:ブログ)

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2008-04-08

新春初馬乗り (本出版に向けて・その71)

新春初馬乗り (本出版に向けて・その71)
グリンと一緒にリビングストーンの近く、ザンベジ川沿いの農場に馬に乗りに行った。その農場はコテ
ージもやっていて、とても感じの良いところだった。

僕は馬に乗るのが好きだ。が、その時は生まれて初めて馬から振り落とされた。僕達の他にもう一人カ
ナダのトロントから来た女性も一緒だった。ガイドをしてくれたのはジンバブエから来ているピーター
という19歳位の白人の青年。彼のアシスタントの様な感じでもう一人黒人男性がガイドしてくれた。
全員で5名。

出発前は「ギャロップしていいの?」なんていかにも上手そうに調子の良い質問をしていた。僕の馬の
名前はハッピーだった。黒っぽい大きなオス馬で、17才位だと言っていた。僕は思っていたより馬が
年をとっていたのでちょっとびっくりした。中年馬ハッピー。2004年新春初馬乗り。

出発。ゆっくりと一列になって歩き出す。僕は一番後ろだった。馬に乗っている時の背の高い視野は気
持ちが良い。特に林の様なところを、木々をすり抜けながら歩く景色を楽しんだ。なんだかアフリカに
居ることを忘れさせる情景だった。すると間もなくピーターが軽くギャロップし始めた。僕は彼の後ろ
についた。ピーターはスピードを上げる。僕も付いていった。ピーターと僕はほんの一時だったが、颯
爽とアフリカの林を駆け抜けた。そしてピーターは突然、左に急カーブで曲がった。緊張していて視界
が狭かったから、まさに左側に視界から消えていった感じだった。

ザンベジ川沿いを歩いている時は実に気持ちが良かった。何時の日か馬に乗って何日か かけての大自然
の中を旅してみたい。馬に乗っていると時空を越えて、何か違う時代にトリップした気分になる。鎌倉
時代の武士が日本列島各地を馬で走り回った頃を想像する。今よりうんと不便そうだが、よりロマンを
感じる。

次の瞬間僕の乗っているハッピーもピッタリ後ろに付いて左急カーブを切った。ピーターが落馬してい
るのが見えた。僕も、続くように振り落とされた。軽く横顔を地面にぶつける。やれやれ。今迄何度か
乗馬したが、こんな落馬らしい落馬は初めてだった。そして困ったことにピーターの馬とハッピーは2
匹仲良く林の奥に消えていった。黒人のガイドの彼が後を追っていった。 「どうしたの?」僕はピータ
ーに聞いた。「多分ヘビが居たのだと思う。」と彼は言った。あっという間の出来事だった。

皆で馬が帰ってくるのを待った。一体ちゃんと帰ってくるのだろうか。農場に帰ってし まったのでは無
いか。と考えた。馬を待っている間辺りを見回すと、やたらと大きな虫がブンブンと飛んでいる。カブ
トムシ位のサイズのフンコロガシだ。馬が糞を落とすと、数分後にはこのフンコロガシが糞に集まって
いた。4−5cmの体長のフンコロガシがあっという間に直径10−12cm位の糞の玉を作って、後ろ
足でころがしている。小さい頃よくテレビで見たそのままの光景だ。このフンコロガシ、あても無くブ
ンブン飛び回っているかと思うと、「ポテっ」と半ば 墜落する様に50cm位の高さから地面に着地す
る。時にはひっくり返って着地してモゾモゾしている。そんな姿が、馬が戻ってくるのを待っている間
の気持ちを和らげてくれた。

30分程して、黒人のガイドが無事2匹の馬を連れて帰ってきた。さあ再出発。僕はさっき馬から振り
落とされた時にサンダルを片方無くしたので、裸足で乗馬した。今思えばそもそもサンダルで乗馬はう
まくない。また一列になって歩き始める。僕は一番後ろを歩いた。さっきの落馬からくる無意識の恐怖
心で乗り方が少しぎこちなくなり、ゆっくり歩いていたが僕は腰を痛めた。

やっぱりスポーツは何が起こるか分からない。僕はさっきの落馬のことを考えながら、自分の判断力の
未熟さを思った。

ピーターの後を追って闇雲に馬を走らせた。自分で馬をコントロールしている感覚は無く、とにかくピ
ーターの馬にぴったり付いていくことだけ考えていた。ピーターが急カーブした時に、僕は減速して様
子を伺うべきだったが、その余裕が無かった。「うーーん。遊びをするにも真剣じゃないと怪我するな
。」と思った。

その日1日、乗馬を楽しんだ。ザンベジ川沿いを歩いたり、見晴らしの良い丘を歩いたり、馬に乗って
いるとなんだかタイムトリップして違う時代に居る気分になる。ビクトリアの滝の名付け親のリビング
ストン等、昔の冒険者達は皆馬に乗っていたことだろう。そして、場所は変わるが、日本の武士達も野
を越え山を越え、馬に乗って長旅をしたに違いない。そんな旅も魅力的だな。なんて思った。

(写真はサイトから引用しました。)

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2008-04-07

ビクトリアの滝、再び。(本出版に向けて・その70)

ビクトリアの滝、再び。(本出版に向けて・その70) マラリアの症状も大方治まり、晦日には世田谷ハウスでかつて共同生活をしていた友達のグリンが英国 から到着。大晦日には朝から豚の丸焼きが用意されていて年末気分を盛り上げてくれた。夜9時頃、1 日中じっくり焼き上げた豚を腹一杯食べる。 あっという間に夜は更けて行き、大晦日のカウントダウンが近づいて来た。ジンバブエから来たD.J.に 合わせて僕はカウントダウンの時に火を回す事になった。2004年迄後10分。僕は川辺に降りて火 回しの用意をする。流石に一寸緊張。カウントダウンが始まる。大きな花火が上がった。川の真ん中に ある中州に花火がセットされていた。なかなか手が凝っている。ポイに火が点けられた。沢山人が観て いて緊張したせいもあってか、2度からまったが、まあよしという感じ。僕が火を回す後ろでは花火が 沢山上がっていた様だったけど、残念乍らそれを見る余裕は無かった。火回しを終えてホッと一息。こ んな大役(?)を買ったカウントダウンは初めて。楽しかった。 朝方、明るくなって来た頃、マコロ(カヌー)で川に出た。空が色付き始めていた。未だ日の出には時 間があった。Bovu島から3−400m上流迄漕いで、そこから川の流れに任せてゆっくりとザンベジ川 を下る。朝の景色を楽しんだ。とても清々しい。ふっと空を見上げると、柱の様に虹が出ている。お正 月になんともめでたい。 日の出が近づいて来た。雲が金色に輝いていてとても綺麗。雲の切れ間から太陽が出て来た。マコロは ゆっくりとザンベジ川を流れる。久々に初日の出を見た。数日前までのマラリアが嘘の様に体調も良く 、気持ちの良い新年が迎えられた。 年明けにはビクトリアの滝を訪れた。2年半前にもやって来たビクトリアの滝。その時は滝でジュマと マチルダ兄妹に会って、その家族に2日程お世話になった。ジュマとマチルダはお姉さんのクリスタベ ルと、もう一人のお姉さんと4人で住んでいた。その地域はリビングストーンの中心地から3−4km 離れていた。そこはタウンシップと呼ばれる簡易住宅街だった。電気も水道も通っていない、コンクリ ート作りのとてもシンプルな住宅だ。彼らは今頃どうしているだろうか。リビングストン滞在中ずっと 気になっていたが、結局訪れることは無かった。 ビクトリアの滝の景色は素晴らしかった。見る角度によって所々虹が出来ている。豪快かつ神秘的な眺 め。未だ雨季の始めで水量が少ないため、なんと滝の縁で泳ぐことが出来た。地元の青年に案内しても らって、ザンベジ川を渡って滝の縁を目指す。あんな所で泳いだのは初めてだった。滝の縁は岩が壁の ようになっていて滝壷に落ちる直前のザンベジ川の水を塞き止めている。川に入ると水量で僕の体は滝 の縁にある壁に押し付けられる。その状態で、滝に落ちないようにしながら下の景色を眺める。ゴウゴ ウと音をたてて物凄い水量が100m程真下に落ちていく。僕も水に体を浮かしてその壁を超えればそ の水と一緒に滝壷に真っ逆さまだ。迫力があった。 満月の夜、もう一度ビクトリアの滝に行った。夜の虹を見るためだ。見事だった。白っぽい虹はよく見 ると夜でも薄っすらと七色に輝いている。幻想的だった。 (写真はサイトから引用してます。)

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2008-04-05

Planet Green Radio (Podcast) !

Planet Green Radio (Podcast) !
ロバート・ハリスさんがナビゲーターのPlanet Green。
先日収録した番組がPodcast開始です。

http://j-pod.jp/planet_green/

Podcastって便利な仕組みですね。

自分的には永久保存版です。

ロバート・ハリスさん、渋くって、楽しくって、引き出しありまくりの方でした。

(写真は、僕がデータを送り間違えて何故かダチョウも載ってしまいました。)

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2008-04-04

インスタントカルマ (本出版に向けて・その69)

インスタントカルマ (本出版に向けて・その69)
「人間を偉大にしたり卑小にしたりするのは、その人の志である。」
シラー:ドイツの詩人、劇作家

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クリスマスと年越しをザンベジ川に浮かぶボブ島で過ごすことになり、ポール、そしてCha Cha Chaバッ
クパッカーズの長期滞在仲間のキャシーとオディールと計4人でボブ島に向かった。

キャシーとオディールはオランダの医学部の学生で、4ヶ月の医療トレーニングでルサカにやって来た
のだが、トレーニング内容が想像以上にいい加減だった為に、プログラムを中止して、二人で南部アフ
リカを旅していた。

ボブ島はビクトリアの滝から 50km程ザンベジ川を上流に行ったあたりにある周囲2キロ程の小さな
島。シンプルなコテージが10軒程、眺めの良い川沿いに建てられている。僕は2年半前、この島に来
ている。2001年6月、僕は生まれて初めてアフリカの大地を踏む。皆既日食を見るためにザンビア
にやって来た。ルサカ近郊の農場で日食を見た後、ボブ島で1週間程ゆっくりした。まさかそのボブ島
に戻ってくるとは思ってもいなかった。

ビクトリアの滝のあるリビングストーンから車で50km程走り、ザンベジ川沿いに到着。そこから、
丸太を切り抜いたシンプルないかだ「マコロ」に乗って島に渡る。2年半前同じようにしてマコロに乗
ってボブ島に辿り着いた。その時マコロを漕いでいて、島に着くとテントを張る場所まで僕を案内して
くれたゴッドフリーは今も健在で、青年らしく、体も二周り程大きくなっていた。ルルやオデリーも女
性っぽくなっていた。

クリスマスから年明けまで、ポールと僕はこのボブ島に居た。クリスマスは賑やかだった。南アフリカ
の若者達や欧米の旅行者が30人位居た。

そして楽しかったクリスマスの晩から、ポールと僕は丸3日間寝込んだ。

マラリアだ。

これだけは避けたいと思っていたマラリア。

南アフリカ、ジンバブエ、ザンビアと南部アフリカは比較的標高が高いので、マラリアはそこまで注意
しなくても良かった。ジンバブエを歩いていた頃は予防薬も飲んでいなかった。ザンビアに入り、標高
もやや低くなり、最初は用心して予防薬を週一回、欠かさず飲んでいたのだが、ザンビアでの生活が長
くなると共に、予防薬の副作用が気になり、飲むのを止めてしまった。(予防薬は肝臓を傷めるとの噂
だった。)

最後の2週間の徒歩は結構な低地を歩いていたし、雨季に入っていたこともあり、蚊の数が断然増えて
いたのに、うっかり予防薬を飲み忘れていた。

2人で高熱にうなされながらも、僕は未だ、ただの風邪であることを祈った。

それにしても、2人が寝ている場所は、ザンベジ川に浮かぶ周囲2kmの小さな島の小さなコテージで
、電気も無ければ水道も無いという処だった。

熱はぐんぐん上がり、意識は朦朧としてくる。キャシーやオディール、島で仲良くなった友達等が様子
を見に来てくれるが、受け答え出来ない程2人は弱っていた。

流石に心細くなる。一体僕達は大丈夫なんだろうか。

リビングストーンから一緒の車にたまたま乗り合わせたブライアンが、マラリア予防薬を持って来てく
れた。おお、なんと有り難い。ブライアンは救世主だった。何錠かを一気に飲んだ。

マラリアを止める薬は強い。胸がムカムカする。何度かもどした。かくして、2003年のクリスマス
の夜は、とんでもなく辛い夜だった。

次の日、ある程度意識が定まってきた頃にポールが言った。「僕等どうしてマラリアになったと思う?

なんでって言われても、蚊に刺されたからじゃなくて?僕は言葉に詰まった。

「あのクモだよ。」

2週間程前にRefunsaという村で泊めさせてもらった部屋で遭遇した巨大グモ。泊めてくれた方が殺虫ス
プレーで部屋から追い出したことを当時、ポールは痛く後悔していた。
「インスタントカルマだね。で、僕等が助かったっていう事はあのクモも助かったんだ。」

僕は朦朧とする頭で暫くその事を考えていた。

納得出来た。

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2008-04-02

マンゴトラックに乗って(本出版に向けて・その68)

マンゴトラックに乗って(本出版に向けて・その68)
「人生の大目的は知識では無く行動である。」
T.H.ハックスリー:イギリスの生物学者

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話はザンビアに戻る。

12月、南半球のザンビアでは夏になる。そして雨季。2週間で約250kmをポールと2人で歩いた
。ルサカからお隣の国のマラウイに向けて真っ直ぐ延びているグレートイーストロード。首都ルサカを
離れると、5kmも歩けば、もう街頭すら無い田舎道になる。

3ヶ月近くも首都のルサカで都会生活をしていたので、最初はちょっと戸惑うが、慣れてしまうとやっ
ぱり空気が美味しい田舎を歩くのは気持ちよい。

ただ、先に進むに連れて標高が下がってきて、それと共に気温も上がってきた。夜はムシッと暑くなる
。政府のゲストハウスにお世話になった夜は、ガタガタ言う扇風機の風を求めて、二人のベットをくっ
つけて眠る。

道路脇の林で野宿をしていて朝方雨で起こされることもあった。

(当時の日記より)
前の晩は雨雲の隙間から星が覗き始め、「大丈夫かなー。」と思いながら眠る。朝型未だ暗いうちにポ
ツポツ来始めた。ビニールシートを体に被せて眠る。ウツラウツラしてまた、雨音で起きる。大分本格
的になって来た。止む事を期待して、ジッと我慢。雨の勢いは変わらない。ポールは見切りをつけて雨
の中で身支度をして一足先に出発。僕も間も無く身支度を始める。 寒い。しかも雨で濡れた洋服や寝袋
が重い。濡れた靴を履くのは気持ち悪いのでサンダルを履こうかと考えるが、荷物の重さを考えて靴を
履く事にした。ルサカで買った黄色いレインコートが役に立つ。

道路に出ると、さて自分がどっちから来たのかしばし考える。(僕は意外と方向音痴で、特に同じ景色
の一本道ではたまにどちらから歩いて来たか分からなくなった。)太陽が雲の向こうに薄っすら光って
いたので、東の方向を確認して、そちらに歩き始めると、間も無く道の脇の納屋の横に座っているポー
ルを発見。青いビニールシートを被っている。見失わない様に、外で待っていてくれたらしい。

二人で屋根をビニールシートで補強して中に入る。1畳程の狭いスペースで雨は未だポタポタと落ちてく
る。寒い。昨日の昼間の暑さを疑いたくなる寒さだ。「コリャたまらん。」といった感じ。やがて雨は
小降りになり、また歩き始めた。
(日記以上)

雨季に入り、昆虫の数が断然増えた。2週間の徒歩の間に色々な虫を見る。 Rufunsaという村では小学
校の教員住宅の空家に泊めさせてもらった。その家に入ると直ぐに、壁に20センチはある大グモを発
見。ポールも僕もびっくり。小学校の教頭先生を呼んで見てもらうと毒グモだと言われて更にびっくり
。本当だろうか。生まれて初めてあんなに大きな野生のクモを見た。教頭先生が殺虫スプレーでクモを
家の外に追い払う。ポールは後々まで殺虫剤を使った事を後悔していた。

Chinyunyuという村の温泉は最高だった。温泉といっても何も手は加えられてなくて、 見た目は普通の
池の様だ。温度は熱すぎる位だったので、肩までつかるには相当の気合が必要。僕はぬるい温泉よりは
熱すぎの方が好きだ。初めて温泉につかった朝は、シトシト雨の降る誰も居ない時で雰囲気があった。
15cm位の浅場に寝そべって浸かる。湯に浸かっていない部分が雨にあたってとても気持ちが良かっ
た。源泉の熱い湯で作ったコーヒーも美味しかった。お百姓さんがくれたトマトが抜群に美味しく、1
0個程の大きなトマトをポールと二人でペロリ。キャベツは源泉に一晩つけておいたら翌朝には丁度良
い柔らかさになっていた。

夕方、その温泉は地元の子供達で賑わっていた。僕はその中に混じって、木を枕にして湯に浸かりなが
ら寝そべっていた。振り向くと5ー6人の子供達が「ジーーッ」と興味深そうにこちらを見ている。声
を掛けると嬉しそうに返事をする。アフリカの子供達は無邪気で可愛らしい。彼等は緑色の洗濯石鹸で
頭を洗っている。たくましいものだ。普通の石鹸は倍以上の値段なのでしょうがないのだろう。

夜まで湯に浸かっていると、羽のついた10cm位の虫が頭の直ぐ上をブンブン飛び交っている。その
中にはホタルも混じっていて綺麗だった。

温泉から宿とさせてもらっているサイモンの家迄の1km程の上り坂では夕方から夜にかけて無数のホ
タルが光っていた。ススキの向こうを飛び交うホタルの光を、目を細めて見ていると飽きない。カエル
や鈴虫の鳴き声とホタルの光がマッチして、とても幻想的だった。しばらく腰を下ろしてその光景を眺
める。やっぱり田舎は良いなと実感。首都のルサカを離れて「ホッ。」とした瞬間。お陰で温泉でゆっ
くり出来、それまでの歩きの疲れが取れた。(毎日歩いてはバス、ヒッチハイクでこの温泉のある村に
戻り、結局3泊した。)

2週間目、アフリカの徒歩最終日はとても暑かった。

(以下当時の日記より)
バオバブの木の下で休憩する。そう、初めてバオバブの木に葉が茂っているのを見た。今迄バオバブを
乾季にしか見た事が無かったので、僕のバオバブのイメージは幹と枝のみ。葉が茂っているバオバブは
写真でも見た事が無かったので新鮮だった。立派である。ちょっと盆栽の様にも見えた。

休憩する度に7−800mlの水を飲んだ。汗が噴き出てくる。その日、裕に3リットル以上の水を飲
んだが、小便は殆ど出なかった。全て汗で出てしまった様だ。

夕方近くなり、涼しくなる事を期待したが、相変わらず暑い。2人とも流石にバテて来た。「もうこの
辺にしとこうか今日は。」一寸早めに切り上げる事にして、宿まで載せてくれる車を探す。待っている
間、小さなハエに悩まされる。水分を求めて目に入ってくる。厄介な生き物だ。すると、ゆっくりと走
って来たトラックが僕等を乗せてくれた。荷台に乗り込む。荷台にはマンゴが満載されている。マンゴ
の袋に腰を下ろしてホッと一息。

マンゴトラックは時速15−20km位でゆっくりと進んでいく。三菱の相当古いト ラックで、ブレー
キも相当疲れているらしい。おまけにマンゴを満載しているので、運転手はとても慎重だった。途中、
水をくれた家の人達や、挨拶を交わした人達の家の前を通る。手を振って挨拶。皆嬉しそうに手を振り
返してくれる。ザンビアの田舎の人達は皆、実に穏やかで親切。水を求めて断られた事が無い。

夕暮時、雲が色付いて綺麗だった。トラックの荷台でマンゴを食べながら、今日歩いて来た道の景色を
楽しむ。こういう一時が1日の疲れを消してくれる。マンゴはとても美味しく、街に帰ってくる迄に4
つ食べた。

ザンビアは12月、マンゴがシーズンで、いたる所で売っていた。ルサカでは1個500クワチャだったが
、郊外では200クワチャ。5円位だ。そしてとても美味しい。いつも歩き終わると、良くマンゴを食
べた。この2週間で何個食べただろう。それから「マスク」という果実も良く見かけた。ライチの様な
サイズで、種の回りの果肉を食べる。皮の近くは一寸苦いが、種の回りは美味しい。ザンビア大学の ピ
リ教授によれば、マスクのワインがあるそうだ。是非飲んでみたい。

宿のある村、Luangwaに戻って来た。ビールで乾杯。この村には電気が通って無いので、発電機を使って
冷蔵庫の電気を作っているのだろう。やや冷えのビールだが、美味しい。一つ前の村、Refunsaではビー
ルは何処にも売ってなかった。飲めるだけで満足。

ザンビアの田舎はジンバブエの田舎に比べて更に田舎だ。先ず電気が無い。そしてお店の品数の少なさ
にも驚く。ジャムの缶詰も無く、パンが無い日もあった。そんな田舎の中でも、ここLuangwaにはビール
がある。多分ジンバブエとモザンビークの国境が近く、人の行き来が多いからだろう。ここでカウボー
イハットみたいな形の麦藁帽子を買った。気に入っている。風通しも良いので歩くのに最適だ。

この数日、うだる様な暑さの為、食が進まず、歩き終えると2人でトマトを沢山食べた。あっさりして
いて丁度良い。玉ねぎも丸かじり。朝はポテトフライとソーセージを食べた。歩く前のエネルギー補給


歩き終えて、ビールを飲み終えると、日が暮れ始め、雷がゴロゴロと鳴り出した。宿の Bridge Camp迄
は3kmあるので帰る事に。雨は降っておらず、雷だけがピカッと辺りを照らす。たまに近くに落ちる
と、昼間の様に一瞬だけ辺りが明るくなる。なんだか映画のセットの中を歩いている様な不思議な気分
だった。電気の通っていない、真っ暗な道だけに明暗のコントラストがはっきりしている。途中、バオ
バブの木の前を通り過ぎる。雷の明かりでバオバブの木がシルエットの様に浮かび上がって、とても雰
囲気があった。

何度か、山の頂上に雷が落ちるのを見た。凄い迫力だ。宿に着く少し手前から、パラパラと雨が降り始
めた。

こうして無事、2003年の徒歩終了。今日、12月20日は又々晴れで、蒸し暑い為に、1日早く夏
休みを始める事にした。僕は6月22日から歩き始めたので言わば下期からスタートした様なもの。ポ
ールは上、下期を終えて、ホッとしている事だろう。

2人とも今ビールを飲みながら、Luangwa川の見下ろせるテラスでゆっくりしている。やはり水辺の近く
は心が落ち着く。2003年の徒歩の締め括りに良い宿に来れて良かった。

6月22日からおよそ870km歩いた。ポールの徒歩累計4万kmの凄さが分かる。中国迄はあと約
1万8千kmだ。
(日記以上)

(写真はイメージです。)

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2008-04-01

国際平和の日 (本出版に向けて・その67)

国際平和の日 (本出版に向けて・その67)
「明日為すべきことは今日これを為せ」
フランクリン:アメリカの政治家、科学者

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当時日本語のアースウォーカーサイトに書いていた文章をそのまま載せてみる。

2003年12月2日

2ヶ月半過ごしたルサカを離れて、いよいよ明日、マラウイに向けて、再び徒歩、植林 活動を再開しま
す。今この文章はチャチャチャバックパッカーズのオフィスで書いています。ここにはオーナーのウェ
イド(オーストラリア人)の好意で無料で泊めさせて頂いてました。とても居心地の良いこの宿を離れ
るのは残念ですが、ゆっくりさせて頂いたお陰で体力も充分充電されたので、また歩き始めるのが楽し
みです。

ちょっと心配なのは雨。今(夕方)もシトシト雨が降っていて、昼間はどしゃ降りの時もありました。
ルサカに到着するまでは乾季だったので、未だ雨の中を歩いた事が在りません。アフリカは乾燥してい
るので、雨が降ると途端に気温が下がります。今は夏なので、晴れた日は逆に相当暑いです。「帯びに
短しタスキに長し。」正しい表現か分かりませんが、晴れれば暑いし、雨が降れば寒い。といった感じ
です。でもこの恵みの雨のお陰で緑は一層緑が増して、景色はきっと今迄以上に綺麗になると思うので
、やっぱり楽しみです。

歩きながらの植林活動に関しては、おかげさまで、ザンビア国の環境庁より、300本の木が支給され
て、この木が既に僕等の訪れる予定の村々に送付されています。植樹場所は主に小学校、中学校で、村
の人達を集めてポールの講演会を行い、その後に植樹というのがおおまかな予定です。マラウイ国境に
到着迄に、6個所の村で植樹をする予定です。理想は、この植樹が火付け役になって、道中もっと沢山
の木が植えられることです。

ルサカに到着した時は、政府の反応も今一つで、困惑した事もありましたが、蓋をあけてみればルサカ
だけでも700本もの木が植えられる事となり、更にこれから300本もの木が政府から支給される事
となり、万々歳です。ルサカで植えられた木の多くは学校や、ゴルフ場の方々が支給してくれました。
(うち500本は高校生の国連会議でこれから植えられます。)

そしてルサカ滞在中の大きな進歩は、この「アースウォーカー日本語サイト」が出来た事。前田夫妻と
の出会いが無ければこのサイトは在りません。実際に文章を書いてみて、ウェブサイトの素晴らしさを
実感しています。アフリカに居ながら、日本の皆様にこうやって活動報告出来るなんて便利な世の中で
す。

その前田夫妻と、僕の3人で「アースウォーカー日本事務局」を結成しました。それはめでたくも国連
の定める「国際平和の日」9月21日でした。この事務局で是非とも実現させたいのが、アースウォー
カーを2004年度中に日本に招待することです。

なぜ日本に招待したいのか。僕はアースウォーカーの存在、活動内容を日本人の方々に知ってもらい、
且つサポートしてもらうのが、彼が中国迄の徒歩を成功させるのに不可欠であると感じてます。それは
経済面等の物理的な面もありますが、彼の活動を日本の方々が応援してくれることが彼の大きな心の支
えになるからです。中国2008年到着を目指して歩くポールを、隣の島国の日本人の方々が応援して
くれれば、そこには大きな引力が働く筈です。

(日記引用以上)

国連が定める「国際平和の日」。ポールに出逢うまではこういう日が存在することは全く知らなかった
。あれから4年後の2007年9月21日の「国際平和の日」に、ポールは奥さんの木乃実さんと一緒
に香港から北京オリンピックに向けての3000km、10ヶ月の徒歩、植樹の旅、「グリーンオリン
ピックウォーク」をスタートした。

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