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2008-02-29

アースウォーカーと歩くジンバブエ "シンプルな楽しみ"(本出版に向けて・その43) 

アースウォーカーと歩くジンバブエ "シンプルな楽しみ"(本出版に向けて・その43) 
「今日という一日は明日という日の二日分の値打ちを持っている。」
フランクリン:アメリカの政治家、科学者

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

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2003年8月17日

日曜日。また日の出前に散歩に出てみたが、日曜日はいつもより人通りが少なかった。水汲みにポリタ
ンクを頭に乗せて歩いている女の子達の数もいつもよりうんと少ない。
昨日、午前中はポ−ルとチェスに熱中。最近連敗中。

3時に遅めの昼飯。その後町に散歩に出てみると、大きなグランドに人だかりを発見。見に行ってみる
と、日本のテレビで見るコントの様に、2−3人の20歳位の男性がコメディ−をしていて、老若男女
、7−80人の観客が居る。ショーナ語なので内容は分からないが、身振りを見ているだけで面白い。
観客にはかなりうけていて、笑い声が絶えない。

コントを演じている若者の横には赤いポロシャツを着た男性が司会者の様に立っていて、携帯電話で時
間を計っている。「コメディアンのオ−ディションだろうか?」と考えたが、まさかこんな田舎町でそ
れは無さそうだ。でも観客の中には机に書類を置いて、何だか審査員っぽい人も見える。何とこんな田
舎なのに立派なビデオカメラでこのコントを撮っている人の姿も見える。このカメラを持っている男性
も司会者同様、赤いポロシャツを着ている。

観客の中に顔見知りを発見した。先日、チャカムカ氏に紹介してもらったカトリック教会の彼だ。教会
の敷地内で薬草ハ−ブを各種育てていて、その畑を案内してくれた彼が居た。やっぱり赤いポロシャツ
を着ている。挨拶をして、よくポロ シャツを見ると、カトリック教会グル−プのマ−クが見えた。「こ
れは何のイベントですか?」彼に聞いてみた。「若者達がドラマ、音楽、詩のコンテストをしているん
ですよ。」成る程、じゃ今僕が見たのはきっとそのドラマ部門なのだろう。そしてこのイベントはこの
カトリック教会の人達の企画なのだろう。

その後、あちこち散歩に行っては又、そのグランドに戻り様子を見ていたが、なんとも和やかな楽しい
イベントだった。高校時代の体育祭や文化祭を思い出す。他に娯楽が少ないからこそ、こういうイベン
トが成り立つのだろう。キュ−バでもよくこういうイベントを見付けた。先進国では失われつつある、
シンプルな楽しみ。夕日が沈んだ後、もう一度そのグランドに行ってみた。イベントは終わり、数人の
子供たちがサッカ−ボ−ルで遊んでいた。グランドの反対側にはポンプ式の井戸があって、水汲みに来
た人達が楽しく会話しているのが聞こえる。空はとても淡いピンク色。なんとも平和な土曜日の夕暮れ
。ザンビア国境に続くメインロ−ドから25km程離れたこの田舎町にこれて良かった。と改めて感じ
る。

そしてなんだか誘われる様に、又あの沢山の人達が野宿している、バオバブの木が生えている丘に行っ
てみた。日は沈み、大分暗くなっていたので、今なら目立たずに歩き回れるはず。実際訪れてみると、
彼等は野宿が長い為夜目が効くのか、アフリカの人の特性なのか、暗がりでも肌の色の違う僕を見分け
、子供達が遠くから「How are you?」と声をかけてくれる。

それは又、とても和やかな光景だった。夕食の支度をしている火があちこちに見え、皆、火を囲み楽し
そうに会話している。子供達は15−6人が集って一つの塊になってドラム、その他マラカスの様なパ
−カッションでリズムをとっている。なんとも楽しそうだ。バオバブの木にもたれながら、暫くその楽
しそうなリズムを聞いていた。空には星が見え始め、丁度真上にはバオバブの枝の間から蠍座が見える
。結局後で分かった事は、彼等は Salvation Armyの年一回の4日間集会の為にHurungwe Province (Pr
ovinceは日本の県の様なもの)中から集った人達だった。Salvation Armyの企画する難民キャンプと思
いきや、とんでもない勘違いだった。

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2008-02-27

おっとっと

おっとっと
今日の言葉をまた忘れてました。

「希望が人間をつくる。大いなる希望を持て」
テニソン:イギリスの詩人

我が家の日めくりカレンダーより。

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アースウォーカーと歩くジンバブエ "サザの美味しい食べ方" (本出版に向けて・その42)

アースウォーカーと歩くジンバブエ "サザの美味しい食べ方" (本出版に向けて・その42)
2003年8月16日

ゲストハウスに着いてかれこれ4日間が経つ。今日は土曜日。こんなにゆっくりするのはチブ以来だ。
今そのゲストハウスの中庭に座ってこれを書いている。中庭を囲む様に20部屋位あって、其々黄色い
ドアに部屋番号が書いてある。ポ−ルは15、僕は14。食堂があって3食面倒を見てくれる。 お役所
の人達4−5人が他の部屋に住んでいて、残りの部屋は短期でこの町を訪れる人達の部屋の様だ。なん
だか会社の寮を思い出す。今丁度10番の部屋からチャカムカ氏が出て来た。週末なので家に帰るらし
い。彼はこの町の寄り合いの副長で、又、'CAMP FIRE'という、地元の人達の商売を助け、自立を促進す
る政府企画のメンパ−。この地域は国立公園も近く、野生動物が数多く残っている為、サファリ経営が
地元を潤す大事なビジネスの様だ。他にも蜂蜜農場があるらしい。是非訪れてみたい。

因みにジンバブエの3大産業は1.煙草(たばこ) 2.鉱物(プラチナ、金他) 3.綿花 との事。
ヘラルド誌によると2002年、煙草の売り上げは約4.3億USドル、国家全産業売り上げ合計の35
%となっている。そして煙草製造の過程で木を燃やすらしく、煙草産業の発展に伴って森林の破壊が進
んでいるらしい。そして金の不法採掘者が川辺を荒らし、川辺の自然破壊が深刻な問題らしい。又、カ
ロイに到着する迄の数日間はよく綿花を一杯に積んだトラックを見た。道路脇には綿花が散らばってい
るのも良く見た。トラックからこぼれ落ちたのだろう。

このゲストハウスに来て分かった事は、ジンバブエの人達はかなり頻繁に寄り合いの様なものを行って
いるという事。今日、土曜日の午前中は村の長老の様な人達が2−3人、その他お役所の人達、中堅の
村人、全部で10人位の男性が、中庭で円形に椅子に座って活発に議論し合っていた。その後は女性陣
14−5人が集まり、お役所の若い男性が司会を務め何やら話し合っている。ポ−ルと僕はその横でチ
ェスをしていた。

昨日の夜は食堂で町長を始め、お役所の人達数人が議論し合っていた。日本のサラリ−マンに負けない
位、皆仕事熱心というか寄り合い熱心。そして 掃除担当の若い女の子は実に1日中掃除している様子。
今も僕の部屋の前をモップがけしてくれている。良く見れば部屋の前の床はコンクリ−ト色に輝いてい
る。

朝飯はパンと卵焼きに紅茶。運の良い日はパンと卵焼きがおかわり出来る。そして昼飯、晩飯はやっぱ
りサザ。おかずはだいたい牛肉少々。そして緑の野菜。サザが苦手のポ−ルは文句を言っているが、そ
んなポ−ルも残さず食べている所を見ると満更でも無さそう。僕は今や大分サザのファンになって来た
。ここに来て分かった事は、皆サザを手の中で握って団子の様にしてから食べている事だ。真似てみる
と確かにこの方が美味しい。ミニおにぎりの要領だ。「この方が美味しいよ。」とポ−ルに言ったが、
西洋の人には食べ物を手の中でこねまわす事にためらいがある様で、そのまま食べている。もうすぐ昼
飯だ。

昨日、8月15日、終戦記念日。ピ−スボ−トにポ−ルと僕の乗船依頼の手紙を書いた。小野寺さん宛
。ポ−ルも手紙を書いてくれた。二人の手紙と 南アフリカの農林水産大臣のポ−ルサポ−ト依頼の手紙
のコピ−、南アフリカ、ジンバブエ国境での同大臣のスピ−チ原稿コピ−、ポ−ルに関する新聞記事(
南 アフリカの新聞)を同封。郵便局の閉まる4時一寸前に出す事が出来た。とても清々しい気分。すっ
きりした。手紙のコピ−を後で何度も読み返す。我ながら良く書けた手紙。ポ−ルの手紙も素晴らしい
。返事に期待。切手代は8400ジンバブエドルで、実に残金の半分をこの切手代に投じた。やむなし

昨日、今日と、夜明け前に町を散歩してみた。既に沢山の人達が通りを歩いている。大きなポリタンク
を持った若い女の子が沢山歩いている。朝の水汲みの様だ。さりげなくついて行くと建物の裏にポンプ
式の井戸があって、女性達が行列を作っている。注目され、そそくさと道路に戻る。

丘の上に見えるバオバブの木の方に行ってみる。チャカムカ氏が、「あのバオバブの木の向こうに水源
地があって、日本企業が請負ったんだよ。この町に最近迄3人の日本人が住んでたんだよ。」と言って
いたのを思いだし(後日この水源地に行くと、請負業者は中国の会社だった。アフリカの人達には時に
中国人と日本人の区別は難しい様。)、バオバブの木のある丘を目指す。

水源地は見つからず、丘の上から数人降りて来る。丘の上に水場があるのかと思い、その丘に登ってみ
る。すると途中、草むらの中に2−3人の中年男性が寝ているのを発見。野宿している。一寸びっくり
した。「へ−、アフリカの人達も野宿するんだ。」なんて思いながら歩くと、間も無く、数多くの人達
が野宿している事に気付く。老若男女、少なくとも6−70人は居る。インドのヒンドゥ−教のお祭り
「クンバメラ」を思い出し、お祭りか何かの為に集った人達なのかと考える。少しして、この人達はこ
うやって野宿して生活しているのだと気付く。水汲みのポリタンクを持った若い女の子達はこのキャン
プから来ている人達だと分かる。そこはSalvation Armyのキャンプだった。丘の上の学校の敷地をキャ
ンプ地にしている様だ。野宿の大変さが分かるだけに、この光景は一寸びっくりした。雨季になったら
どうするのだろう。ジンバブエの知られざる一面を見た気がした。

半ば当たり前の様に政府のゲストハウスに泊めさせて頂いているが、水道、水洗トイレ付きの部屋に住
むという事は、この国の人達にとってはとても贅沢な事なのだろう。と身をもって感じる。

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2008-02-26

アースウォーカーと歩くジンバブエ "もう、てんやわんや” (本出版に向けて・その41)

アースウォーカーと歩くジンバブエ "もう、てんやわんや” (本出版に向けて・その41)
「引っ込めることの出来ない所まで腕を伸ばすな。」
スコット:イギリスの詩人、小説家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーから。

はい。

その見極めが難しいですよね。

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当時書いていた日記です。

2003年8月12日

本日カロイ到着。今日はDefence Force Dayで祝日。1日中レゲエ、アフリカンロックのライブが聞こえ
る。只今、メソジスト教会の建物の前。今晩は初、町中の野宿となりそうだ。今朝、町に着くと場末の
カフェに入った。テーブルには何もオーダーせずにただ「ボーッ」とテレビを眺める4−5人の黒人達
の姿があった。何処と無くミュージシャンっぽい。

その後、ポールと僕はバンケットでバプテストクリスチャンのブラッドが一泊宿を提供してくれた経験
を思い出して教会を目指してみた。カトリック教会に到着、残念ながら誰も居ない様子。教会敷地内の
木陰で一休み。えらく暑い。萎える様な暑さになってきた。すると、近くからレゲエのライブが聞こえ
て来る。見に行ってみると、やっぱり朝カフェで「ボーッ」と座っていた連中が演奏している。ドラマ
ーは50過ぎ位の白髭を生やしたラスタのおじさんで、残りは2−30代の、なかなか雰囲気のあるバ
ンドだ。うだる様な暑さの中、観客は殆ど男性、4−50人位、あまりパッとしない客層。

近くのスーパーで買い物がてら、News Weekを立ち読み。イラクの記事がやたらと目立つ。

夜になると教会の屋根の下で鳥の鳴き声が聞こえる。かなり大きい。そして大きな鳥の影が10m位先
の木と屋根の下を行ったり来たり。どうやらフクロウのお母さんが子供に餌を運んでいる様だ。何を運
んでいるかは分からなかった。夜が更ける前の薄明かりの中で、何とも神秘的な光景だった。

町のライブは相変わらず続いていたが、大事な明日に備えて寝る事にした。教会横の芝生、10m位の
木の下に、ポールと寝袋を並べた。満月が綺麗だ。「鳥がこっちを見ているよ。」ポールが言った。見
ると、僕等の寝ているすぐ近くの木の下に鳥が止まっているのが見える。はっきりとは見えないが、多
分フクロウだろう。

前日と比べて断然暖かい。「町は皆が火を使うから暖かいんだね。」とポール。寝る前、少し蚊が気に
なったが間も無く眠りに就いた。きっと8時過ぎ位だったろう。

何度か夜中目が覚めた。夜明け前、高い空に満月が輝くのを眺めては又眠った。

夜明けと同時に寝袋を出て、「そーっ。」と教会の屋根の下を覗く。昨日の鳥の姿を確かめたかった。
「あれ?」何も見えないと思ったその瞬間、「バサッ!!」 という音と共に白い大きな鳥が屋根の隙間
から出て来た。6−7m先の木の下に止まる。白くて立派なフクロウだ。あんな立派なフクロウは生ま
れて初めて見た。こっちを見て鳴いている。それは「なんだお前、コノヤロ。」といった感じの鳴き方
だった。何度か鳴いて、白くて大きなフクロウは去っていった。うーん、なんだか面白い1日のスター
ト。

ポールは未だ寝袋の中だったので、朝の散歩に行ってみる事にした。この教会の近くは比較的高級住宅
街らしく、庭付きの可愛い一軒家が多い。しばらく歩いて、緩やかな坂を下って行くと、赤オレンジ色
に光る朝日が見えた。近くの湖の水蒸気で朝日が赤く色づく様だ。(これも ポールが教えてくれた。)
そして振り返れば満月が白く、水色の空に浮かんでいる。久々に満月と朝日を同時に見た。何だかとて
もめでたい気分になった。朝日 をバックに御近所さん同士が朝の挨拶をしている。何とも平和な光景だ


そしてもう少し歩くと湖に辿り着いた。湖面に赤オレンジの朝日が映り、素晴らしい景色。そして湖面
からは水蒸気が薄っすらと昇り湖の反対側を町に向かう村人達が歩いているのが見える。とても清々し
い気分。町中から少し歩いて別世界に辿り着いた気分。湖畔を散歩した後、町に続くメインロードに戻
る。昨日町に入る時に見つけた、1.5m位ある大トカゲの死体が道路の脇に見えた。正式な名前は分
からないが立派なトカゲだった。背中に小さな穴があり、 そこから出血していた為、誰かが銃で撃った
のだろうとポールは悲しんでいた。お役所の人に聞けば、その大トカゲは水場に住んでいて、なんと牛
の足に長い尻尾を絡めて牛を固定して、チューチューと牛の乳を飲むそうだ。ちょっと信じ難い。

水曜日の朝一番でお役所を訪ねた。4連休明けのお役所訪問。チノイのマポサ氏は僕等の到着を前もっ
てカロイのお役所に連絡しておく と言ってくれていたが、行ってみるとお役所の人は何も聞いていない
と言う。やれやれ。ポールは根気良く訪問の理由を説明する。後に会ったWater Affairs(水道課)のダ
ニエルはポールの到着を前もって知っていて、彼に会ってからは話がうんとスムーズに進みカロイのDi
strict Administrater(カロイがある群のトップ)に会いに行く事になった。オフィスに着いてみると
、外で6−7人の人達がD.A.に会う為に待っている。その内 二人は白人だった。一人の白人はサファリ
シャツを着ている為、多分サファリロッジのオ−ナ−か何かだろう。国立公園が近くにある為、カロイ
のD.A. は忙しいらしい。サファリシャツの白人は見事なショーナ語で、「もう随分待ってるけど未だD
.A.に会えないよ。」というような事をダニエルに話してい た。そんな彼等よりも後に到着したポ−ル
と僕はダニエルのお陰で直ぐにD.A.のオフィスに入れた。

D.A.オフィスに入るとそこはまるで芝居のセットの様だった。そのシ−ンにタイトルを付けるとすると
、「もう、てんやわんや」

D.A.の部屋は大部屋で二十畳近くはあった。ドアを開けると奥にド−ンと大きなデスクがあって、立派
な肘付きの椅子にD.A.が座っている。 四十代前半位の大柄の人で、ス−ツを着ていかにも偉そうだ。一
寸ヤクザ風とも言える。机の上にはよくオフィスで見る 'IN / OUT' の書類入れがあるのだが、それは
立派な木で出来ていて、しかも机の長さ同様、2m位あって、仕切りが沢山付いている。つまり、'IN
/ OUT' の二つのスぺ−スどころじゃなく、六つか七つのスぺ−スがあって、其々の中に何やら色々書類
が入っている。ムムム、こりゃ日本のサラリ−マンもびっくりだ。そして入り口とD.A.の机の間の広い
スぺ−スには、一人用のソファ−が四つ、半円形にD.A.の机の前に置いてあって、其々距離は結構離れ
ている。 つまりD.A.を含める五人が直径5m位の円形になって座る事になる。

ポ−ル、ダニエル、僕が部屋に入った時、そこにはD.A.を含めて五人位の人が居て、全員がしゃべって
いる。ソファ−に座る太めの女性は半ば狂乱状態でD.A.に何か訴えている。その横にはホストの様に片
膝を付いてその女性をなだめる様な男性が居る。D.A.の机の横には用心棒の様な、小柄で体格の良い、
イスラムの人達が被ってそうな不思議な帽子を被った男が携帯電話で話しながら窓際をウロウロし、た
まにブラインド越しに外の様子を伺っている。大柄な、秘書であろう女性は部屋を出たり戻って来たり
。D.A.はその其々の人達に話をしているかと思えば携帯で話していたり、デスクの電話で話していたり
。僕等三人は空いている席に座り様子を見守ったが、その光景は僕等三人の存在を全く無視してその後
五分程続いた。「一体何が起こっているのだろう。」皆 ショーナ語だから話の内容は分からない。ただ
、切迫した空気だけはハッキリ伝わって来る。

その後D.A.以外の人達は部屋を出て、嵐が去った様に平和な空気が流れる。ダニエルが僕等をD.A.に紹
介。ポ−ルは新聞記事のスクラップブック、ハラレでの観光大臣との植林の写真をD.A.に見せ、簡単な
活動内容報告。その間携帯は鳴り、同時にデスクの電話も鳴り、若い女性が書類にサインを貰いに来て
、D.A.は電話で話しながらその書類にサイン。やっぱり相当に忙しそうだ。結局D.A.とポ−ルの会話は
正味五分位。間も無く先程部屋の外で待っていた白人男性が待ちかねて部屋に入って来て、時を同じく
して僕等はそそくさと部屋を出た。やっぱり芝居のセットに飛び込んで、そこから出て来た気分だ。頭
の中は?マ−クで一杯だ。「あの人達は何を話していたんだろう?」

後にダニエルが説明してくれた。Resettlement Firmの割り当て。つまり政府が元のオ−ナ−から取り上
げた農場を新しいオ−ナ−にどう配分するかを話していたらしい。なるほど。直ぐに納得がいった。こ
こジンバブエに来てからやたらとこの’Resettlement Firm’という言葉を耳にするが、その割り当てを
話し合う現場を一寸だけ拝見して人間の欲深さを考えさせられた。

(補足説明:ジンバブエではムガビ大統領の独裁政権下、白人の牧場を政府が勝手に取り上げてしまい
、自分達の部下にその土地を分配していた。)

その後、ダニエルの素晴らしい段取りで、ポ−ルと僕はカロイから25km程離れたマグンジェ(Magu
nje)という町の政府のゲストハウスに泊まれる事になった。この7−8日間程は野宿だった為、この取
り計らいはとても嬉しかった。ギュウギュウのバスに乗り、Magunjeに到着。ゲストハウスは町の真ん中
にあり直ぐ分かり、ホッと一息。久々のビ−ルで乾杯。丁度夕日が綺麗に出ていた。

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2008-02-25

アースウォーカーと歩くジンバブエ ”太鼓と月明かり” (本出版に向けて・その40)

アースウォーカーと歩くジンバブエ ”太鼓と月明かり” (本出版に向けて・その40)
「われわれは成功によってよりも失敗によってこそ多くの智恵を学ぶ」
スマイルズ:イギリスの著述家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

最近失敗して学ばせて頂きました。

っていうか、失敗は絶えません。

よね。

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〜当時書いていた日記から〜


2003年8月10日

只今夕方4時位。非常に暑い。ここ2ー3日で昼間の気温がグッと上がった。川沿いの茂みでキャンプ
中。川向こうでは村人が畑に水をあげている。茂みが深い ので彼等の姿は見えず、声だけが聞こえる。
さっき川に入った。ジンバブエに来て初めて川に入った。気持ち良い。思ったよりずっと冷たかった。
村の人が「ワニは居ないよ。」と言っていたので安心して入れた。が、やっぱり「何か出て来るんじゃ
ないか。」という思いがあって、長くは入って居られなかった。ポール 曰く、アフリカの川、湖にはと
ても小さなナメクジみたいなのが居て、肌を通して体内に入って来るそうだ。油断出来ない。ビルハジ
アと言うらしい。

そういう事を考え始めると、僕の育った日本は何と安全な国か、今僕の居るアフリカの自然が如何に危
険かが分かる。蚊に刺されればマラリアの危険があり、その 他エイズ、ライオン、ヘビ、ワニetc.考え
出すときりが無い。でも一方、素晴らしい大自然が残っている。今は夕日前だが、虫のさえずりがとて
も耳に心地良い。こんな一時が、日中の大部分のうだる様な暑さ、蚊のうっとうしさ等を打ち消してく
れる。

さっきはこちらのさつまいもの様なカサバと豆を一緒に煮たらとても美味しかった。今は御飯と豆を一
緒に炊いている。そろそろ出来上がったかな。

昨日は夕方、小さな村のお店に食料を買いに行った。メインロードから枝別れした脇道に、「○○小学
校○km、○○中学校○km」 というサインを見てポールが、「この脇道の先にお店があるに違いない
。」と村人に聞いてお店があるのを確認。この辺の勘の良さは尊敬する。

この小さな村の小さなお店で、米1キロ、緑菜を2束、トマト6個、玉ねぎ2個、カペンタ(煮干しの
様な物)300グラムを買った。これだけ買って約3200Z$、闇ドルレートで約US1.5ドル。そして、
大ビンビールを1本、二人で分けて飲んだ。予算がキツク、二人共我慢していたが、そういう時の ビー
ルは格別に美味い。村の人と楽しく会話を交わし、ほろ酔いでこの小さな村を後にした。夕日が綺麗に
色づく。二人とも良い気分。村の人たちは穏やかで、ハラレの様なトゲが無い。

今、月がとても綺麗に輝いている。日が沈み、夜になる前の薄明かりの中でくっきりと輝く月。2日後
には満月だろう。

昨日は夜飯のキャンプファイヤーを川辺で済まし、月明かりの中を歩いていると、何とも良いドラムの
リズムが聞こえてきた。それに合わせて女の子達の可愛い歌声が聞こえる。「子供達は冬休みに入った
し、月、火は祝日だからお祭りかしら?」「あるいは誰かのお葬式かもしれないね。」とポール。

その音が聞こえる村の入り口で二人で荷物を下ろし、しばらくその歌声を聞いていた。とても耳に心地
良い。そして丁度良い月明かり。村に入ってその様子を見てみたい思いを抑えて、二人で又歩き始めた
。そしてその村から2−300m離れた茂みの中で野宿した。ドラムのリズム、女の子の歌声を聞きな
がら、間も無く眠りについた。

次の朝、水を貰いに昨日音が聞こえていた村に行ってみると、お祭り明けの朝の様で、2−30人の村
人達が集まって朝飯(やっぱりサザ)の支度を していた。突然の日本人訪問に一寸びっくりした様な顔
もあったが、皆あたたかく対応してくれた。水を持って、道沿いで待っているポールの所に行くと村人
と話している。村人の誰かが1ヶ月前に亡くなって、その人を送り出すお祭りだったそうだ。またまた
ポールの勘が冴える。

8月10日は鎌倉花火大会だ。いつでもやっぱりこの日は気になる。特に今年は日曜日だからさぞ盛り
上った事だろう。この日は年に一度、地元の友達と浜でバッタリ出逢う事の出来る日。皆ひそかにこの
日を楽しみにしている。最後に行ったのは2000年の夏。やっぱり夏は日本が恋しくなる。花火見た
い。

8月11日

只今カロイ13km手前、'Buffalo Downs Mini Market' の前の芝生でゆっくりしている。マーケット
は祝日で生憎のお休み。さっき村人からサツマイモを2kg位買い込んで、蒸かしてもらった。日本の
サツマイモ そっくり。これをポールと二人でかじりながら芝生でゴロゴロしている。目指す次ぎの町カ
ロイのお役所が明日も祝日で閉まっている為ゆっくり行けば良い。昨日は川辺で米を炊き、食事を済ま
せ、日が沈んでから歩き始めた。月明かりで辺りは明るく、涼しくて歩くには丁度良い。この40km
程、緩やかではあるが、上り、下りが多い為、日中歩くと結構汗だくになる。前日同様、ドラムの音、
女の子の歌声が聞こえる。又、誰かが亡くなられた1ヶ月後のお祭りだろうか。又、その音の聞こえる
近くの原っぱで野宿。寝る前にBanketで買ったバオバブフルーツを食べる。種の周りに白く、乾燥した
フルーツが付いていて口の中で粉の様に溶けて、甘酸っぱくとても美味しい。喉の渇きを癒してくれる
。乾燥した土地に相応しいフルーツだ。ポールのアイディアで水のボトルに何個か、そのフルーツを入
れてみた。
夜はやっぱり冷え込み、何度か目が覚めた。

日の出直後に、二匹のKudu(鹿の様な動物、サイズは牛くらい。大きかった。)が原っぱから森(とい
うより林)の茂みに向かって走って行くのに出くわした。ジンバブエに来て、野生の動物はまだサルと
鳥位しか見ていなかったので興奮した。今後もっと出会う機会が増えると良い。

現在の二人の大きな関心事は「第44回ピースボート乗船」だ。チノイでピースボートのサイトを見て
、2004年1月24日に第44回 ピースボートがモンバサ寄港、4月1日東京帰港である事が分かっ
た。「これしか無い。」と思った。父からは「9月には帰国せよ。」とのメールが入っていたが、「こ
の44回クルーズに全力投球、駄目なら即帰国。」の旨、メールで返信した。何としても実現させて、
ポールを日本に招待したい。広島−長崎の植樹ピースウォーク。夢はでっかくいきましょう!。

次の町カロイからピースボート宛に手紙を出したい。Eメールがあればなお良し。ポールの意見を聞き
ながら、現在その手紙の下書き作成中。

ポールには南アフリカ、Free StateのRustler's Valleyで出会った。僕はこのRustler'sに3ヶ月程住ん
でいた。2002年12月4日の皆既日食を見る為に南米ブエノスアイレスからヨハネスブルグに飛行
機で移動、クルーガー国立公園近くで日食を見た後、このRustler's Valleyに辿り着いた。日食のパー
ティーで知り合ったてつ君(大阪出身、28歳)、洋平君(東京出身、20歳)と3人で2ヶ月間、景
色の素晴らしい Rustler'sの丘でキャンプ生活をしていた。その時ポールが3−4日間、Rustler'sを訪
れた訳だ。Rustler'sのオーナー、フリック の彼女ジャネスは'Food and Trees for Africa'というNPO
のCEOをしていて、南アフリカでのポールの植樹の手助けをしていた。そんな訳でジャネスの取り計らい
でポールがFree Stateを徒歩している時に3ー4日の休養又、Rustler's近くの小学校での植林も兼ねて
、ポールのRustler's訪問となった訳だ。人との出逢いはつくづく面白いものだと感じる。あれから半年
経って今、僕はポールと一緒にジンバブエを歩いている。

今日は久々にヨガをした。Rustler'sに居た頃はてつ君、洋平君と月曜−金曜の毎朝2時間、畑の雑草む
しりをした後、ほぼ毎日プールサイドでヨガをしていた。終わるととても気持ち良い。出来る限り時間
を見つけて続けたい。

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2008-02-24

アースウォーカーと歩くジンバブエ ”冒険家気分” (本出版に向けて・その39)

アースウォーカーと歩くジンバブエ ”冒険家気分” (本出版に向けて・その39)
「天才とは99%の発汗であり、残りの1%が霊感である。」
エジソン:アメリカの発明家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

もっと発汗しないと。。

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当時書いていた日記です。

2003年 8月8日

只今日が沈み、ポールと僕はチノイ(Chinhoy)から45キロ北上した所でキャンプ中。場所は水の干上
がった川底。近くの村人がたまにポリタンクやアルミの入れ物もって水を汲みに来る。水取り場は川の
干上がった所に直径50センチ位、深さ50センチ位の穴が掘ってあって、そこに溜まった水を汲みに
来ている。僕らもそれに習ってその小さな穴から水を汲み、茶を沸かし、米を炊いた。
月が明るく輝き始め(半月から2日目位)、キャンプファイヤーで茶を沸かしている所。夕食は近所の
村で買ってきたサザと豚肉シチュー。虫の鳴き声がそこら中で聞こえる。昼間、茶沸かし、米炊きに使
った火の灰の中に、サツマイモによく似たイモ(カサバ)を入れて調理中。出来上がりが楽しみだ。と
うとう蚊が出てきた。やれやれ。

2003年8月9日

夕方かなり冷え込んだ。昼夜の温度差が大きくなってきた。今は朝9時位。日差しはかなりキツイ。川
底から日の当たる川辺に上がってきて、茶を沸かし、昨日の残りのサザ(とうもろこしの粉で作った蒸
しパンの様なもの)と焼きいもを食べる。焼きいもは以前食べた時程甘くなかったが、日本の石焼きイ
モに似て美味しい。 さっき村の女の子3人(モーリー、クレメンチア、ジェーン)とモーリーの赤ちゃ
んアシュリーと焼きいもを食べながら話をした。「何か本持ってない?」と聞かれたので、チノイで森
林課からもらった~Dialy and Guide for sustainable livelihoods~ という緑色の本をあげた。この小
冊子は日記の様になっていて、「何月には何を植えて、こうやって育てる。」といった事が書いてある
本。その最後のページに 4人の名前を平仮名、片仮名で書いて、ドラエモンも書いて、ポールと僕でサ
インして渡した。楽しい一時。

次の町、カロイ(Karoi)迄はあと50キロ程。今日は土曜日で、来週月、火曜日はこちらの祝日(8/1
1Hero`s day, 8/12Defence forces day)なので、水曜日にカロイ到着を目指す。という事で、水曜日迄
の五日間で50キロを時間をかけて旅する事が出来る。いつもなら既に歩き始めている時間だが、今日
はポールも僕も日記を書いている。

今、7−8匹のサルが10メートル位先を歩き回っている。ジンバブエとザンビアを結ぶメインロード
から100メートル程しか離れていないが、サルが出てきて、キツツキが木を叩く音が聞こえ、鳥が鳴
き、蝶がヒラヒラ、テントウ虫(しかも見た事無い柄)が手にとまり、ナナフシが側を歩いていて、な
んだか冒険家の気分。

昨日は豪快に大きな火を楽しんだ。近所の村人達が暖を採る為に切り倒してある木を大分使い込んでし
まったが、たまの贅沢という事で許してもらおう。大きな火を眺めながら、「オフィスにこもりっきり
の社会人に必要なのは正にこういう屋外生活だよね。Lonly Planet (旅のガイド本)のサイトにこの旅
を紹介して参加希望者から1日12ドル位集めてツアーにしようか。」なんて話で盛り上がった。「最
低2人集まれば毎日美味しい物食べて旅出来るね。」「いや、社会人なら1日40ドルでも来るよ。」
「新婚旅行の雑誌に広告載せても面白いね。」実現するかどうかは別にして、いつもこんな話をしてい
る時は楽しい。焼きいもをかじりながら、茶を飲み、そんな話をしながら夜が更けていった。

6週間前、僕がポールと歩き始めた頃の歩き方と、今の歩き方のスタイルは違う。その頃は常に町のホ
テルに泊り、役所の車で送り迎えしてもらって歩いていた。なんとも至れり尽くせり。便利ではあった
が、何だか常にお役所の人に生活を管理されている様で精神的な圧迫感があった。それに加えてガソリ
ン不足という事で。役所の車の送り迎えを只々、ホテルの部屋で待ち続ける日が続き、しびれを切らし
て二人で自力で歩き始めたものだが、以来ほぼ落ち着いてきた今のスタイルは、町での滞在日数日間を
除き、後は野宿。役所の車の送り迎えは無く、2人でリュックを担いで歩き続けるというシンプルなス
タイルになった。野宿する場所は殆どの場合、道路脇のバラセン柵を超えて、木の茂みにビニールシー
トを敷いて、その上で寝袋で寝るというとてもシンプルな方法。

最初は戸惑ったが、今では大分慣れてきた。つまり、メインロード脇の農場の木の下を少しお借りして
、その日限りの宿とさせて頂いている。国連認定機関の平和大使で、数々の学校でスピーチ、植樹をし
ているポールの旅のスタイルが、こっそり農場に忍び込んで野宿とは、何とも可笑しく、又、考え様に
よっては「こんな素晴らしい仕事をしている人がすべき生活スタイルでは無い。」と思ってしまうのだ
が、続けてみるとこれが楽しい。

何しろ常に青空の下、星空の下。特に今は南部アフリカは乾季だから雨は気にならない。「チョウチョ
が飛んでいるのを見ればカレンダーを見なくても春が来たって分かるよね。室内に居るとこれが分から
ない。」ポールが嬉しそうに言う。確かにその通りだ。川があればそこで茶を沸かし、米を炊く。道沿
いに大きな木があれば木陰で一休み。正に「地球が我が家です。」といった生活。

ポールの今回の、英国〜中国の植樹徒歩の旅は2000年11月2日に始まった。この日は奇しくも僕
の誕生日だ。そしてその前の1年間、ポールは英国内6000キロを歩いている。道中出会ったトニー
という若者と一緒に、英国中何処でも野宿して歩いたそうだ。

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2008-02-23

アースウォーカーと共に歩くジンバブエ ”ポールの原動力”(本出版に向けて・その38)

577

「弁解は飾られた嘘にすぎない」
ポープ:イギリスの詩人、評論家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

弁解の要らない人生にしたいです。

それから、

富士山の日

「ふ(2)じ(2)さん(3)」(富士山)の語呂合せと、この時期、富士山がよく望めることから。

だそうです。

ほほぅ。

なるほど。

======================================
(当時書いていた日記の文章です。)

2003年7月30日

只今午後の休憩中。月曜日にハラレを出発して今日で三日目。ハラレから47km地点。ポールは隣でイビキをかいて昼寝中。この二日間野宿。朝方は結構冷え込むが、何とか大丈夫。肩の痛みもそのうち慣れそうだ。

こうやって又歩き始めると楽しいものだ。何せこの3日間、建物の中には殆ど一切入っていない。24時間アウトドア。虫の声、鳥の声、車の走る音、酒屋の音楽。外で生活すると色々な音が聞こえる。

月曜日にはEnvironment Africaに荷物の一部を置きに行った。アンドリューにデスクを借りて耕慈にメールを送った。返事が楽しみだ。アフリカに遊びに来れれば良い。お父さんにも短いメールを送った。
お昼過ぎ、2週間お世話になったハラレの宿、”It’s a small world”を後にする。とても居心地の良い宿だった。ダーリントンは元気の良い若者。滞在中は「何かあったら何でも言ってくれ。」と世話を焼いてくれた。特にポールに気を使ってくれた。

さぁ、久々に歩き始める。ポールは久方振りに背負うリュックが重そうだ。途中肩が痛いと訴えていた。何千回とリュックを上げ下げするうちに右肩、右腕を痛めたそうだ。無理もない。少し心配だったが、今日(3日目)は大分慣れてきた様子。

ハラレを出発した日、郊外のショッピングモール”West Gate”に5時前位に到着。ハラレの中で最もきれいな所だった。最低限の食料(パン、シロップ、水、電池、マッチ、キャンディー、スナック等)を買って一安心。「もう暫くはこんな近代的な建物を訪れることは無いね。」とポールと話す。

モール内の公園のベンチに座っていると、夕日も沈み暗くなると共にネズミがあちこちウロウロしている。「そろそろ行こうか。」店は殆ど閉まって人影はまばら。宝石店のショーウィンドーを、それぞれ赤ちゃんを抱えた二人の女性が覗いている。「きっとこの宝石を手に入れるのは夢の又夢なんだろうなー。」なんて思った。”West Gate”を出ると、照明も無くなり、一気に田舎道。3,4km歩いて20km地点に到着。

結構背の高い草の茂る農場で野宿。朝は久々に朝陽を観た。久々にヨガ、太陽礼拝のポーズをする。気持ち良い。10km程歩いて休憩。メインロードから1本入った田舎道でビニールシートを敷いてピクニック。近所の人達が通りがかり、皆不思議そうに眺めて行く。突然白人とアジア人が黄色いビニールシートを広げて二人とも大の字に横たわっている訳だから不思議に思うのも当然。のんびりした良い時間。寝そべって下から眺める木の景色がとても良い。やっぱりアウトドアは良い。

チェスは一勝一敗。ルサカから歩き始めての最初のゲームに勝てたのは嬉しい。夕方又、歩き始める。と、間も無く酒屋登場。大瓶を二人で分ける。僕は道端で売っているサザ&シチューを食べる。最近サザも美味しく感じる様になって来た。不思議なものだ。(サザはトウモロコシの粉を練って蒸したもの。呼び名は国々で違うけど、アフリカ大陸の主食と言っていいようだ。)

今迄見る限り酒屋は何処もシンプル。村の若者が話しかけてくる。大分酔っていて息が酒臭いが話している内容はまともだった。酒屋を出ると近く迄二人の若者が送ってくれた。夕日が沈んだ後で空が綺麗だった。33km地点のサインの近くで彼等は引き返して行った。モザンビークから来たという彼は金の精製工場で働いているらしく、近所に来たら是非寄ってくれと言っていた。

間も無く寝場所を見つけた。落ち葉、木の皮でスープと紅茶。体が良く温まった。夜中、又寒くて何度か起きたが、ゆっくり休めた。昨日から帰国時期について考えている。やっぱりポールと一緒にピースボートに乗って帰国。これが現実的では無いか。上手く行って来年の4−5月あたりだろうか。世界の為、公務としてポールにお供させて頂き、彼を無事日本に招待したい。その為には一時帰国は忘れ、ポールと共にモンバサからピースボートに乗船、帰国するのが現在のベストの様だ。(後書:「世界の為、公務として」なんて随分凄いこと書いているけど、当時はそんな風に本気で思っていた。)

2003年8月7日

ライオンズデン(Lionsden)に到着。ハラレから140km。今日ここの学校で植樹、ポールのスピーチが行われる。11時の予定で只今9時くらい。早く着いたので野原でゆっくりしている所。パンと蜂蜜、水の朝食を済ませる。ザンビア国境迄残り3週間と一寸。二人の手持ち予算は約5万ZIMドル(約25USドル)。贅沢は出来なくなってきた。今日は上手く行けば学校に泊めさせて貰えるだろう。

チノイ(Chinhoy)の二日間の滞在はとても良かった。森林課のマポサ(Maposa)が良く助けてくれた。
チノイ到着前日、相変わらず夜は冷える。チノイの5km程手前で野宿。日曜の夜ということもあり、若者が宴会を林の中で行っているらしく、笑い声が聞こえる。この一週間、唯一バンケット(Banket)のロシア人クリスチャンのブラッド(Vlad)の部屋に泊めさせて頂いたのを除いてはずっと野宿だったのでチノイでは是非ベッドでゆっくり休みたかった。「どうかチノイでは良い時間が過ごせます様に。」二人でそんなことを話しながら眠りに着く。

そう、バンケットでは地元バプテスト(キリスト教の一派)の日曜集会に飛び入り参加。ポールは簡単なスピーチを行い、牧師さんの説教の後は手作りケーキと紅茶、最後はキリスト教の本となんとお金(二人合わせて5USD分位。大助かり)迄頂いて意気揚々、バンケットを後にした。「毎週日曜日は教会に行けばいつもこんな待遇だったら良いね。」二人で笑いながら話した。

特にこのロシア人のクリスチャンに出逢う直前、バンケットの警察署に一泊の助けを求めに行った処1時間程殆ど尋問に近い質問攻撃を受け、挙句の果てに「申し訳無いが助けることは出来ない。」と言われ、二人とも心底ジンバブエ政府の頼り無さを嘆いていた為、このクリスチャンの人達の温かい御もてなしは僕達の心に響いた。

さて月曜日早朝、チノイに到着。街に入る直前、橋を渡る。川面からは朝靄が立ち込めて、そこに朝陽が当たってとても綺麗だった。何だか良い時を予感させる。街に入ると昨日バンケットの日曜教会で出逢った白人女性がちょうど息子を学校に送りに来ていた処で、車を停めて挨拶をしてくれた。こんな小さな出逢いが何とも嬉しい。

未だ役所を訪れるには時間があったので、チノイホテルでコーヒー、ガススタンドでデラックスバーガー、その後インド人の経営する小さなレストランでコーヒー、ドーナツを食べて新聞を読んでゆっくりした。そのインド人のおばさん曰く、「この街の役所で日本人3人が働いていて良くこのお店に来たわよ。もう帰ったみたいだけど。」ということだった。アフリカの田舎だとインド人のおばさんも同じアジア人の家族の様に思えてインドで逢うよりもずっと親近感が湧く。

さぁ、いざお役所へ。森林課のオフィスは街から少し離れた所だった。マネージャーのマポサに逢うと「新聞で貴方の記事と写真を見ましたよ。」と好対応だった。やった。新聞記事とは7月22日にハラレの小学校で行われた、環境観光大臣フランシス・ニマとの植林セレモニーのことだった。当日ヘラルド誌の記者が「2,3日中に記事になるよ。」と言っていたが僕等のハラレ滞在中の新聞には記事が見当たらず、「ま、しょうがないね。」と半分記事のことは忘れていただけに、この事実は嬉しかった。
僕等が野宿していたこの1週間の間に記事になったのだろう。

只今同日夕方。ハラレから145km、アングワ(Angwa)川のほとり。川の水で紅茶、御飯を作る。結局ライオンズデンの中学校での植樹、ポールのスピーチは行われなかった。鉄道の線路を歩いて学校に到着。生徒は皆、校庭に集まっている。今日は冬休み前の最後の登校日。チノイの教育課のアレンジでポールは午前11時にこの小学校で植樹、スピーチをする筈でここまで辿り着いたが、校長を始め、先生達はチノイの役所からは何も連絡を受けていないとのこと。やれやれ。肩を落とし校長室を出る。「またか。」という感じだが、こういう出来事の後は力が抜ける。

ライオンズデンを後にして木の下で休憩。久々に二人でチェスをした。僕の負け。接戦だった。トホホ
。今日はゆっくりしようということで、川の畔で初の昼間キャンプファイヤーをした。今、夕日前、虫が鳴き、鳥がさえずり、とてもゆったりした気分だ。ポールも日記を書いている。

さて、チノイの続き。月曜日に到着すると森林課のマネージャー、マポサは手際良く翌日の植樹セレモニーを企画、オレンジグローブモーテルの手配もしてくれた。ポールも僕もホッと一息。何しろチブ(ハラレの140km手前)のホテル以来、役所のお世話にならず、野宿か、ホテルに泊まる時は自前だったので、二人の予算は尽きて来て、チノイで無事役所の手配でホテルに泊まれるかどうか、二人共気になっていたからだ。久々にゆっくりと風呂に入ってベッドで寝られる。洋服も1週間の野宿生活で汚かった為、即洗った。

翌日朝、10時に学校到着。見晴らしの良い、丘の上にある新しい小学校。校長先生は40歳位で、なかなか立派なスーツ姿。チノイの市長m来ていて、森林課、教育課のお役人も含めて全員で6人程、そしてポール、僕が校庭に用意されたテーブルの席に着く。校長先生のスピーチの後、選ばれた15人程の子供達の国家斉唱。前にも小学校で国家を聞いたが、今回のは抜群に良かった。とても綺麗な歌声。
遠くには小さな丘が連なっていて、その景色を見ながら子供達の歌声を聞いていると「あー、ポールと一緒にここ迄歩いてきて良かった。」と心から思う。「ポールが13年間歩いてきた原動力はここにあるんだな。」と感じる。

続いて3年生くらいの女の子が僕等の座っているテーブルの直ぐ前まで来て、「Tree is life, Tree is Medicine, Tree is …(木は命、木は薬、木は。。。)ととても可愛い詩を、これまた可愛い振り付けに合わせて全く物怖じせずに唄ってくれた。とても微笑ましい、ほのぼのした一時。その後はアフリカンドラム2個を男の子二人が叩くリズムに合わせて、白黒の衣装を着た男の子、女の子8人づつ位が目にも留まらぬ早いリズムでステップを踏みながら踊り、その踊りに合わせて男の子が鍬を持って僕等の前で穴を掘り、次に女の子が苗木を持って来てその穴において、次に男の子がジョウロでその苗木に水をかける。そして最後は皆で又、早いステップで踊る。植樹セレモニーに相応しい、そして迫力のあるショーだった。

その後は市長のスピーチ。市長はこの街のお医者さんで体格の良い、とても落ち着いた、市長にしては無口過ぎる位の素朴な、温厚な人柄だった。そしてポールのスピーチ。その後、中庭に4本の木が植えられた。地元の新聞記者も来ていて、木を植える度に皆で写真をパチリ。お役所の若い連中は地元新聞に写真が載るということで嬉しそうに並んで立っている。というそんな僕も嬉しそうに並んで立っていた。前日に企画されたにしては出来すぎな位の植林セレモニーが無事終了。その後市長舎の前で2本の木が市長とポールで植えられ、オレンジグローブ・モーテルで役所の皆と昼食会。とても楽しい時間だった。

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2008-02-22

おっとっと

おっとっと
大事な今日の言葉を忘れていました。

「望みを持ちましょう。でも望みすぎてはいけません。」
モーツァルト:オーストリアの作曲家

我が家の日めくりカレンダーより。

今日は新しい「望み」が産まれました。

大事に温めていつか報告しまっす。

因みに今日、2月22日は二子玉川でCafe Peaceをやっている鎌田夫妻の結婚記念日で、旦那の耕慈の誕生
日でもある訳ですが、(因みに最近、Bar Peaceがオープンしたそうです。)

「猫の日」でもあるそうです。
「ニャーニャーニャー」ってことですね。ちょっと無理がありませんか。

そして、世界友情の日だそうです。

ボーイスカウト・ガールスカウトの創始者パウエル卿夫妻の誕生日に因んで。

だそうです。

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アースウォーカーと共に歩くジンバブエ "Tree man"と出逢う。(本出版に向けて・その37)

アースウォーカーと共に歩くジンバブエ "Tree man"と出逢う。(本出版に向けて・その37)
2003年7月15日

只今ジンバブエの首都、ハラレのスモールワールドロッジ。お昼。昨日二日間のビアトリス小旅行から
帰ってきたところ。やっと荷物も全て揃い、いざハラレ生活。今日は洗濯もあるので一日のんびりする
ことになった。明日、水曜日は環境観光庁に行く予定。ビアトリスでは役所の女性から「書面での指示
をハラレの環境観光庁から貰っていない。」というとても役所的なコメント。ポールの学校でのスピー
チ、植樹とも不可となった。

内部事情は今もって不明だが、兎に角もう役所の力は借りずにハラレを目指すことにした。ポールのリ
ュックに必要な荷物を詰めてビアトリスを出発。前回よりも重く、リュックは15kg弱はあったかと
思う。暫く歩くと肩にストラップがメリメリと当たり痛い、これは初体験。日が暮れてからビールを飲
んだ。黒人のおじさんが音楽に合わせてステップを踏む。なかなか絵になる光景。

このおじさん、お酒が入っていた様で、その後僕達に話しかけてくる。一体何をしゃべっているんだろ
う。恐らく「酒おごってくれ。」という事だったろうが、他にも色々訴ええていた様子。ビールを飲ん
だお店から間も無くして寝場所を見付けた。初めての野宿。小さな木に囲まれた心地良いスペース。夜
中寒くて何度も起きたが、なんとか眠れた。朝、人通りが出て来たので急ぎ出発。やはり人の農場に忍
び込んでの野宿はなかなか忙しない。(道路沿いは農場しかなく、野宿する為には柵を越えて私有地に
入らなければならなかった。)

途中、木陰でチェスをしてゆっくりした。その前にファンタを飲んだお店はなかなか大きいものの、物
資は殆ど無かった。已む無くキャンディーを25個購入。朝飯の代わりにした。寝不足、食料不足で二
人とも元気不足。ハラレに近づけばもっとお店が頻繁にあるかと思いきや、意外に何も無い。「バスで
ハラレに行って後日歩き直そう。」ポールが言った。荷物も重たかったし、僕としては全く異存無し。
その後バス停を発見、20分程待つがバスは素通り。なかなかつかまらない。

バス停の向かいに「サザンゴルフクラブ」というゴルフ場のクラブハウスがあった。「そこのレストラ
ンで食事をして、また今晩は野宿しようか。」とポール。正直僕の頭の中は「やっとハラレでゆっくり
出来る。」で一杯だったので、その意見には反対だったが、「ハラレまで野宿をしても自力で到着した
い。」というポールの意気込みが伝わって来たので賛成した。

クラブハウスに入ると、なんとそこに立っているのはアジア女性だった。彼女は韓国人だった。ケニア
のモンバサ在住で、ゴルフプロの息子を訪ねてジンバブエに来たそうだ。名前はなんと春子さんだった
。流石韓国人。とても美味しい焼肉バーガーを作ってくれた。結局2個づつポールと食べて先を目指す
元気が出て来た。やっぱり食べるのは大事。

クラブハウスのオーナーに春子さんが話してくれて、「幾らか払えばベッドは無いが部屋はあるよ。」
と提案してくれた。キャンプファイヤーをする予定だったので、嬉しい提案に御礼を言ってクラブハウ
スを後にした。春子さんの親切がとても気持ち良く、元気が出て来た。僕は野宿がまだ一寸不安だった
ので、正直クラブハウスに一泊することを望んでいた。

クラブハウスを出て500m位して直ぐに良い野宿スポットが見付かった。小枝も沢山転がっている。
日暮れ前の薄明かりを頼りに、ちょっと焦りながらポールと大木を運んだ。これでキャンプファイヤー
の木は確保した。ポールはソーラーマット(表が青、裏が銀色の太陽熱を吸収する2畳程の大きさのビ
ニールシート)を周りの木に括り付けて壁を作った。火を隠す為、そして焚き火の反射熱を得る為。

良い夜だった。大木はユーカリで、まだ良く乾いていなかった為なかなか燃えなかったが、前日に比べ
断然楽しい、キャンプらしい夜だった。月明かりが明るく、小枝を捜すのも楽チンだった。夜中、人の
足音が聞こえてヒヤッとしたが何も無くラッキーだった。やっぱり寒くて夜中に目が覚めた。小枝を燃
やして暖を採る。

朝、水を貰いに再びゴルフ場を訪ねる。なんだか60年代風の綺麗な女性が水とプラスチックカップを
くれた。オーナーの奥さんだろうか。壁に掛かっている写真は5,60年代のゴルフ場開設当時のもの
が多く、皆綺麗に着飾った白人の男女が20人位写っている。良い写真だった。歴史ある良いゴルフ場
のようだ。服も相当汚れていたので、そそくさとクラブハウスを出た。

焚き火で水を沸かして紅茶を飲み、いざ出発。今日こそハラレか。と、2km程歩くと右側にモーテル
が出て来た。スカイラインモーテル。ファンタを飲んだお店のオーナーが話していたモーテルだ。「こ
こで一泊しようか。」とポール。部屋が空くまで日向でチェスを楽しんだ。この二日間、結構ハードだ
った為、一層良い時間だった。

そしてその後分かったことは、この宿はハラレ郊外の言わばラブホテルのような処だった。部屋の作り
も日本のそれに似ている。(でもやっぱり日本よりシンプル)まぁお陰でとても良い風呂に入れた。極
楽。常に部屋の外は3〜4人の若者で騒がしい。それも慣れてきた。夕方、風呂上りにベッドで休んで
いると、なんとネズミがベッドに乗って来た。やれやれ。ベッドも黒人独特の臭いがする。ユニークな
体験だったが、ああいうホテルはもう御免だ。翌朝、朝風呂に浸かってからゆっくりめの出発。いよい
よハラレへ。「ようこそハラレへ。」の看板が出て来た。風景も街らしくなってきた。

ハラレまで後15km程だろうか。道沿いのインドを思い出すチャイ屋で余り美味しくない紅茶とクッ
キーを食べる。道路の向かいではお墓参り様に花飾りを売っている。なんだか江戸時代に日本を歩き周
っていて茶屋で一休みしている気分になった。お江戸まで後数キロだ。

車の量も断然増えて日差しもきつくなってきた。早くもバテて来た。そこにファースフードの「Steers
」が登場。コーヒーブレイク。なんとコーヒー一杯が1300ZIMドル。因みにチブでは焼きトウモロコシが
一本200ZIMドル。都会プライスに驚いた。

いざハラレへ。途中郵便局で目ぼしい宿の住所と電話番号を確認。都市に突入した。ハラレは思ってい
たよりも大きく、なかなか雰囲気のある街だ。僕ですら数週間振りの都会に軽いカルチャーショックだ
ったので、3ヶ月振りのポールにとっては大分不思議な気分の様子だった。

荷物が重くなってきた。早く宿で落ち着きたい。しかし宿探しは楽では無かった。僕達が目指す宿はお
巡りさんも余り良く知らない小さな通りにある様だった。ポールの勘で道を探していたが、僕がしびれ
を切らして小さな口論になった。そこへタイミング良く、ペンツに乗った中年男女三人組が声を掛けて
来てくれて、なんと宿まで送ってくれると言う。リュックを背負ってヘトヘトだったのでベンツでの移
動はとても助かった。結局探していた宿は休業。別の宿、スモールワールドというバックパッカーまで
送ってもらった。

スモールワールドは今迄とは別世界だった。とても綺麗な建物。5人のイギリス人学生が居た。ジンバブ
エ大学に交換留学で来て見たら講義が無く、半年間ボランティア活動をしていたそうだ。良い経験だっ
たに違い無い。久々に旅行者(正確には留学生だが)に出逢う。この2週間は別世界に居た。と、気分も
良くなり、スーパーで牛肉、キャベツ、チーズ、赤ワイン(ジンバブエ産、イマイチ)、チョコレート
、米、ビール4本、ガーリックピリピリソーズ、ケーキを購入。美味しい晩御飯だった。そして、そこか
らドラマが始った。

ワイン1本、ビール4本を二人で飲んだ。やっと到着した安堵感もあり酔った。宿で働くダーリントンと
一緒に近所を散歩に行き、その後はポールと二人で散歩していた。間も無く、ハッと気が付くと、ポー
ルがピックアップトラックの荷台に乗っていることに気付いた。「おや?」半分事情が掴めなかったが
、僕も一緒に乗り込んだ。「こりゃ面白い。」ポールが言った。

やっと理解し始めた。警察だ。ポールが缶ビール(しかも空)を持って歩いていたことを罰するつもり
らしい。ちょっと信じ難い。こんなことでわざわざ旅行者をしょっ引くこの国は大丈夫なのだろうか。
と今書きながら思うが、この時はビビっていた。

何しろようやくハラレに到着して気持ちよく晩飯を追え、気が付けば警察署だ。その光景は映画の様だ
った。相手は3−4人。4人掛けのテーブルの向こうに入れ替わり立ち替わり2−3人の警察官が座り色々質
問してくる。しかもネチッこい。かなり楽しんでいる様子だ。ジンバブエ政府の恐ろしい一面を見た気
がした。

ポールは余りにもナンセンスなこのしょっ引かれ事件に堪りかね口論寸前だったので、しつこい警察官
と3人で外の空気を吸いに行った。そこから何とか場を持ち直しポールもまだ半分怒り冷めないも、言い
たいことは確り、正直に伝えていた。僕はその間ヒヤヒヤしたり、ホッとしたり、ジェットコースター
の様だった。

そして会話は又、熱を帯び始め「裁判所で決着を付けようじゃないですか。」とポールは言った。「そ
れはマズイ。」と僕は思った。何しろ面倒臭そうだ。が、その一言が功を奏したのか、そこから罰金の
話になった。5000ZIMドル。約3ドルだ。「払って帰ろうよ。」ポールに言った。「宿まで送って下さい
。」ポールはボス警察官に言った。頼もしい限りだが、僕は兎に角早くそこを離れたかったから歩いて
帰っても良いと思った。

その後のやりとりで結局、2000ZIMドルを彼らのポケットマネーとして渡して決着が着いた。これまた何
ともジンバブエだ。最後はしびれを切らした警察官が「ね、じゃ僕等に幾ら払ってくれるの?」あっさ
りと力強く聞いてきた。ここで2000ZIMドルしか渡さないポールも天晴れ。なんと最後は一番偉そうな茶
色の制服の警察官が宿まで歩いてエスコートしてくれた。


何とも貴重な、そして2度としたくない体験だった。

月曜日は環境観光庁を訪問する。楽しみだ。

2003年7月19日

あっという間に金曜日。昨日は環境観光庁からの連絡待ちで一日ゆっくりした。7月16日、観光庁訪問の
日。朝、2階にある。朝日のあたる木のテーブルでシリアルの朝ご飯を食べた。唯一もう一人のお客、オ
ランダから来た女性と3人で朝食。彼女は南米のスリナム出身でオランダ在住、インド人の血も入ってい
る人だった。つい最近パレスチナのガザ地区に行っていたらしい。この2週間はジンバブエを精力的にあ
ちこち周って来た様子。

「シリアは予算の90%を軍備に使っているんだよ。」とポール。中東の話題になると彼女の興味はイ
スラエルとパレスチナの問題に強く向けられていた。そして彼女はイギリスがイスラエルの独立を大き
く助けていることを非難し、彼女のイギリス政府に対する不満が何時の間にかイギリス市民のポールに
向けられていた。彼女がエキサイトして来たのでポールは席を離れた。已むを得なかった。

意外な朝ご飯のディベートの後、近くのコーヒーショップでカフェラテを飲んで気分を取り直した。「
シリアでは何人ものシリア人とイスラエル・パレスチナ問題について議論した。意見はお互いに違って
も、その違いを尊重し、最後はいつも良い友達だった。彼女はそこが違ったんだ。」ポールは言った。
その通りだった。残念なのは彼女の様に正義感が強い女性がその正義感から生まれる怒りを不本意にも
たまたまイギリス人であったポールにぶつけてしまい、折角の出逢いを不意にしてしまったことだ。彼
女もポールもそんな結果は望んでいなかっただろう。カフェラテは美味しかった。ハラレ以外ではジン
バブエではなかなか見付からなそうだ。

その後イギリス大使館を訪問。ジムという僕より2〜3歳年上位のしっかりした紳士が対応、その後大
使も登場して、緑林の話はあっという間にまとまった。英国の連携プレーの素晴らしさを拝見した。彼
等はポールの話をとても興味深く聞いていた。「観光庁主催の植林セレモニーに参加させてもらうよ。
」控えめに「参加させてもらう」という大使の態度は、ポールとジンバブエ政府の関係を気遣う様を示
している。

ジムの奥さんはインターナショナルスクールの先生なので、そこでの講演会もアレンジされることにな
った。ポールはこの打ち合わせにとても満足していた。この手際良いやり取りは僕も観ていてとても気
持ち良かった。そして僕にとっては初イギリス大使館訪問、そして勿論初、イギリス大使御対面だった
ので興味深かった。

アフリカユニティー広場の近くでカレーを食べた。まぁまぁの味だ。「カレーは英国が本場で、インド
に伝わったんだよ。」とポール。意外だが納得がいく。この界隈は闇両替男が結構沢山いて、一目で旅
行者と分かる僕等にやたらと声を掛けてくる。今迄の闇レートの1.5倍近い好レート。でもなんか危険そ
うだ。様子を見ることにした。

そしていよいよ環境観光庁訪問。市内のホテルで調べてもらった住所を頼って行くと他のビルに移って
いることが分かった。立派のビルの14階だ。「環境観光庁官のフランシス・ニマさんに逢わせて下さい
。」受付でポールが言うと、15階の秘書室に通された。秘書の名前はヘレン。僕はジンバブエに到着し
た日、南アフリカとの国境沿いの街、ベイトブリッジから環境観光庁に連絡、ポールの居場所を聞いた
のだが、その時の電話の相手がこのヘレンだった。「貴方もしかしてヘレンさんですか?」なんだか嬉
しくて思わず僕の方から聞いてしまった。

「そうよ。貴方達はもうとっくにジンバブエを通り過ぎたと思っていたわ。」と彼女。ビアトリスの役
所で不本意な対応を受けて以来、一週間ほど役所とはコンタクトを取っていなかったので、もうポール
はジンバブエを離れたのかと思っていたらしい。「庁官は昼食に出ているけどもうすぐ帰ってくるわよ
。」その後、庁官の部屋に通された。これまた初体験。彼は40代前半位の健康的な紳士だった。フラン
シス・ニマ。彼の奥さんはムガビ大統領のかつてのNO.2、ンコモの娘らしい。

ンコモ(NCOMO)は革命成功後、ムガビの計らいで死んだと言われている(飛行機事故)。ということは
、ニマは反ムガビ派の庁官と言えるだろう。「ライオンに食べられない様にするには木の上で寝るのが
一番だよ。」ハラレからザンビア国境までの道はライオンが多いとのこと。対応策として教えてくれた
。庁官の斜め向かいには30代後半くらいの秘書が座って会話の内容を筆記している。眼鏡をかけていて
、アメリカの漫画に出てきそうなベテラン秘書のアフリカ版といった感じで何とも面白かった。

庁官との植樹の話はすんなりとまとまり、日程は後日秘書から連絡されることとなった。「貴方の国境
でのスピーチ、皆とても感心していましたよ。」とポールは庁官に言った。「あっそう。」という感じ
で軽く返事をして打ち合わせは終わった。その後ポールと二人でビアホールに直行した。地ビールで乾
杯。ポールはこれまた大満足。ここ数日、役所とは没交渉だっただけに喜びは大きかった様だ。イギリ
ス大使、環境観光庁官訪問の2大業務を終え、ポールがホッとする間も無く、ビアホールに体格の良い、
チェック柄のお洒落なスーツを着た黒人が現れた。

彼は「ビールをおごってくれ。」と冗談っぽく話していたのだが、ポールがイギリス人と分かるや態度
が半分喧嘩越しになって来た。ビアホールの入り口でこの黒人とポールの立話。
「俺は警察なんだぞ。」
「だとしたらロクな警察じゃ無いね。」とポール。
後にポールは「僕のセリフを聞いた時の彼の表情の変化が面白かった。」と言っていた。何事も無く、
ビアホールを後にした。やれやれ。色々出来事の多い日だ。夜、部屋でポールがポツリと言った。「サ
ンドイッチみたいだね。美味しい中身(英国大使、環境観光庁官訪問)がまずい外身(朝のオランダ女
性との口論とビアホールでの出来事)に挟まれてる。何れにせよ、とても良い一日だった。」

金曜日のお昼はロータリークラブの週一回の集会に参加した。英国大使館のジムの取り計らいだ。50
〜70代の立派な白人紳士が25人程、黒人紳士5人程、その他インド人が何人か。といった集まりだった
。司会席に座っていた女性が孤児院のサポートを訴え、それに対応して直ぐに2、3の解決策が他の人
から出て来た。とても効率的で内容のある集会だった。ポールは次週の金曜日にここでスピーチするこ
とになった。

日本大使との打ち合わせ、月曜日の11時で話しがまとまった。南アフリカの日本大使館では思わしい結
果が出なかったが、今回は何かしらの援助が受けられればと思う。環境観光庁官との植林セレモニーに
イギリス大使と共に日本大使も参加してくれれば話しがスムーズにまとまりそうだ。

(補足説明:ジンバブエはイギリスの植民地だった過去の憂さ晴らしをするが如くに、ムガビ大統領の
圧制の下、イギリス人のバッシングを行い、イギリス人の農場主を追い出し、自分の部下にその土地を
分配するなど、ムガビ大統領の傍若無人な政策が続いていた。新聞などでもイギリスを悪く言う風潮が
漂い、そのまま役人レベルにもその風潮が伝播していた。勿論、その他の一般人はとても好意的だった
。)


2003年7月27日

又々あっという間に時は過ぎ、かれこれハラレに着いてから2週間が経つ。明日にはザンビアとの国境、
チルンドゥ(Chirundu)に向けて出発予定。今朝、ヘラルド、デイリーの両誌を買ったがポールの記事
は見付からず。7月22日は環境観光大臣のフランシス・ニマとの植林セレモニーがあった。ポールのスピ
ーチは普段よりも迫力があり、言葉に重みが感じられる。と同時にその言葉は事前に用意されたもので
は無い。自然に彼の心から出て来る言葉だ。

フランシス・ニマのスピーチはショーナ語だった為、理解出来なかったが、子供達に色々質問しながら
の対話スタイルで、彼はとてもリラックスした様子で子供達との交流を楽しんでいる様で好感が持てた

この日は国会開会日で、セレモニー後すぐにニマはベージュのベンツで去って行った。流石環境観光庁
主催の植林セレモニー。今迄のジンバブエで僕が参加した中で一番立派なセレモニーだった。子供達は
木が植えられる度に掛け声の様な、景気の良い声をあげる。それを即す様に音頭を取る元気な白人女性
が目に留まる。

彼女はEnvironment Africaの代表のシャーリーンだ。南アフリカのFood & Trees for Africa同様、ジン
バブエにも環境保護のNPOが存在することをこの日知った。彼等は皆、“Tree Africa”と書かれたベ
ーージュのセンスの良いTシャツを着ていた。南アフリカのFood & Trees for Africaよりも皆、年齢層
が若く、フレッシュな印象が強い。

その後大臣との植林があった公立高校から小学校に場所を移し、2回目の植林セレモニー。小学生向けの
スピーチなので、午前中よりもリラックスした感じのポール。後半は質問コーナー。「どんな珍しい動
物に出逢ったの?」「へび怖くないの?」「何処で寝るの?」子供達の質問は尽きない。植林は校内の
フェンスで囲まれた果樹園のような所で行われた。

ヘラルド誌の若い記者が居た。人生初めて、新聞記者と出会った。イメージ通り、小さいメモ帳を片手
に色々質問してくる。「これ、記事の一部になるんだろうか。」なんて内心ワクワクしながら簡単な質
問に応える。ヘラルド誌からは後日改めてポールのインタビューが行われることとなった。

送り迎えは環境観光庁のランドクルーザーだった。でっかい車は乗り心地が良い。校舎を後にすると子
供達が沢山、手を振って送り出してくれる。小学校を訪れた時の楽しみの一つ。走りながら手を振って
いる子供達に手を振り返し、満面笑顔の彼等と目が合うと何とも嬉しいものだ。ポールのお陰で僕は何
回かこの貴重な体験をさせて貰っている。ポールは勿論、この瞬間が好きらしく、車の窓から頭を出し
、子供達との交流を楽しんでいる。ハラレでの一番大事な植樹が無事終了した。

その日、Environment Africaのシャーリーンが夕食に招待してくれた。大きな木が植えてある、とても
感じの良い家だった。3人の友達が英国から来ていて賑やかな感じが良かった。ポールも僕も(特にポー
ルは)南アフリカ以来この様なアットホームなディナーから程遠い生活スタイルだったので、この夜は
とても楽しかった。

彼女の手料理はとても美味しく、ワインも良し。デザートのアイスクリームで御腹はパンパン。シャー
リーンは1986年、友達と一緒に自転車で英国―ジンバブエ間2万2千キロを縦断している。当時絶滅の危
機にあった白サイ(因みに今も絶滅危惧種)を救う為に彼女が考え出した企画に友達が加わったそうだ

“Extinction is Forever”という卒業アルバムの様なサイズの立派な本が当時の彼女達の冒険を分かり
易く説明していた。二人の姿は何時も活き活きと元気に満ちていてとても良い写真が沢山あった。

彼女は巨大なアフリカ地図でポールの今後のアフリカ大陸の行き先を見ながら、彼女自身が自転車縦断
で通ったルートを基に色々アドバイスをくれた。マラウイには彼女がネルソン・マンデラ氏と最初に植
林した木があるそうだ。

その晩の皆の会話は水不足等、やはり環境に関する話題が圧倒的に多く、地球を救う環境戦士の小さな
会議の様で、とても興味深かった。

7月25日の金曜日にはEnvironment Africaで植樹セレモニーがあった。”Tree Man”と言われる40過ぎ
位の黒人の彼はポールに会うや、「君に逢えてとても嬉しい。」と熱いハグを交わした。ソウルメイト
に出逢うと言葉を越えた交流が存在するのを目撃した感じだった。彼はとても目の澄んだ愛らしい人だ
った。

植林前のポールのスピーチ。午前中の爽やかな日差しが気持ちよい庭で15人程に向けられたこのスピー
チは僕の中では今迄で一番印象深い。環境戦士リーダーがその戦友達に送る平和のメッセージ。良く緊
張した空気が伝わってくる。

約1ヶ月、生活を共にしてチェスを楽しんだり、馬鹿話を楽しんだりしているポールの姿がこの時は違っ
て見える。やはりこれは彼の天職だ。スピーチの後、”Tree Man”、とポールの二人で植樹。皆が見守
る。素晴らしい瞬間だった。と、隣に居たデイリーニュースの記者が僕の名前を聞いてきた。「Koichi
だよ。」「は?」何度かそんなやり取りをした。大事な時だったので一寸うるさく感じた。何だかこれ
も漫画に出て来る記者の振る舞いの様で、後から考えると可笑しかった。

(振り返って:「環境戦士」という表現が今思うと面白い。ジンバブエという結構軍事色の強い国に居
たから、書いていることも自然と「戦士」となったのだろうか。でも、「環境戦士」って結構格好良い
かも。)

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2008-02-21

アースウォーカーと共に歩くジンバブエ ”シンバ=ライオン” (本出版に向けて・その36) 

アースウォーカーと共に歩くジンバブエ ”シンバ=ライオン” (本出版に向けて・その36) 
「怒りの静まる時、後悔がやってくる。」
ソフォクレス:ギリシャの劇作家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

ですよねー。さすが、これまたギリシャの故人は良いこと言います。


======================================

ポールはグトゥという街の丘の上にある宿に宿泊していた。

南アフリカでは森林省がポールの活動を全面的にサポートしていて、宿、植樹場所、必要に応じて歩く
場所までの車での送迎をしてくれていた。南アフリカからジンバブエに入る時には南アフリカとジンバ
ブエの森林大臣が着てくれて、ジンバブエは赤絨毯を敷いてポールを出迎えてくれたそうだ。

そんな訳で、ジンバブエでも政府が提供してくれた宿にポールは宿泊していて、僕はそこにお邪魔する
ことになった。

早速ジンバブエの状況を尋ねてみると、前日歩き終わった地点まで送ってくれる筈の政府の車がガソリ
ン不足の為にもう何日も来なくて足止めを食っている状況だった。そのお陰で僕は簡単に合流すること
が出来た訳だが、ポールにとってはなかなか辛い状況だったようだ。

そんな状況下で少しづづ前進、チブという街まで来た。当時書いていた日記を以下に記してみる。

2003年6月26日

只今、チブ(Chivu)のホテルのラウンジ。ポールはヘラルド誌を読んでいる。僕はさっきガススタンド
の青年をつかまえて200ランド(ランドは南アフリカの通貨)をZIM(ジンバブエドルのこと)に換えて
来た。緊張した。何しろ観光客なんて居ない街だから、やたらと目立つ。加えて役所の払いでホテルに
泊めさせてもらっている身分だから行動には気を付けなきゃならない。ポールがその辺に気を使ってい
るのが分かるだけに一層緊張した。

今日の朝は国家警察が安全にジンバブエを旅出来る様にと訪問、パスポート番号やらを控えて、あれこ
れ質問して帰って行った。さっき二人でお茶している時にポールが、「きっとコーイチのパスポート番
号やなんか、今頃CIAに情報が伝わっているかもよ。」
「うっそー。。」内心ビックリしたが、半分冗談でも無さそう。

今日でジンバブエに到着して四日目。なんだか知れば知る程、軍事色の強い、社会主義的臭いのする処
の様だ。そしてやっぱり色々問題を抱えている国の様だ。インフレーション。初めての体験。国境でUS
20ドル札を換えてみた。3万5千ZIMドルになる。これが500ZIMドル札でくるから全部で70枚。もう
ポケットはパンパン。やたらと金持ちになった気分でSPA(コンビニ)に行ってみると、南アフリカ産のパ
スタが一箱2千ZIMドル。

ポールは新聞記事を読んで嘆いている。
アドバイザーと称する女性が、「インフレでお札が足りないことに対する解決策はクレジットカード、
そしてオンラインペイメント。」一体どうやって現実に実行出来るのか。

今居る街チブは、比較的大きな街。でもクレジットカードが使えそうな店は一軒も見当たらない。「イ
ンターネットカフェ」とでっかく書いてあるお店に入ると電話が8台並んでいた。「インターネットは
?」と聴くと「Not on Line(回線が繋がってません)」
「は?」と聞き返す。
「Not on line」って言われてもコンピューター自体が見当たらない。面白いこと言うね。

とにかく、これがこの国の現状で、どうやってオンライン決済?500ZIMドルを一枚発行するのに 800ZI
Mドルコストがかかるそうだ。こうなるともう、どうにもこうにもならない。正に悪循環の中にはまって
いる様子。

大統領はリビアから石油をもらう為にリビアに居るそうだ。実際こういう国に来て見ると、世の中のシ
ステムは上手く行っている様に見えて非常にもろい、微妙なバランスの上に成り立っているのを感じる
。もし日本で同じ様なことが起こったらどうなるんだろう。

2003年7月1日

朝、ポールとチェスをした後にチブを出発、24km歩いた。6月27日(金)、ポールは小学校、中
学校でスピーチをした。小学校はあいにくの雨で、話半ばで切り上げる様な形だったが、中学校の方は
晴れ間も見え、子供達の英語の理解度も増していることもあり、ポールの話振りにも熱がこもっていた
。子供達の顔はかなり真剣。

僕もポールの斜め後ろに立っていたが、あんなに沢山のアフリカの子供達に一辺に注目され、正直戸惑
った。アサラト(アフリカの民族楽器)をパチパチ演奏したら、かなりの反響。特に小学生は喜んでく
れた。

そして土曜、日曜。これが面白い。土曜日は朝8時出発で歩き始める筈が。。来ない。シンパ(ショー
ナ語で“ライオン”という意味)が来ない。(チブの役人のシンバが前回歩き終わった地点まで車で送
ってくれることになっていた。)結局ガソリンが無いということで、土曜日は部屋でゆっくりした。

「ガソリン不足」兎に角なんでもこの一言で約束をすっぽかされてしまう。ポールも嘆いている。
日曜日も結局部屋でゆっくり。木曜日の夕方にこの街に着いて彼此3日間。歩いてない。ポールが少し
苛立っているのが分かる。
「明日(月曜日)こそ何があっても歩こう。」日曜日の夜にポールは僕に言った。

日曜日の夜はシンバに連れられて地元の酒屋で大瓶ビールを飲んだ。帰って来て部屋でも飲んだから結
構酔った。ポールと、冷戦中にロシアがデンマークに原子爆弾を落とす計画があったことに対する理由
について議論していて、酒が入っていたこともあり、僕はちょっと夢中になり過ぎてポールに食ってか
かってしまった。反省。

そして日曜日。前日の酒もあり、ちょっと遅めの朝。グテゥとチブの州境まで車で戻り、歩き始める。
曇り空だが気持ちが良い。緩やかな登り、下り。大きな岩がゴロゴロしていて、時折その石が集まって
丘の様に盛り上がり、木も生えている。「ここは聖地っぽいな。」と思った。

「あの山はグレートジンバブエ(遺跡)みたいだね。」と言うと、
「同じことを考えてたよ。」とポール。
ラスラーズバレー程雄大では無いけど、とても居心地の良さそうな所。
「ここはBush land(低木地帯)だから耕して畑にするよりも動物を放って育てるのに最適だね。国立公
園にするのが良いと思うよ。」ポールのアイディアは奇抜、且つ的確な様だ。世界中を歩いて地形に明
るいだけに言葉に重みがある。この辺りを歩いている間中、「うーん、綺麗だ綺麗だ。」と何度もポー
ルは言った。

ポールが気を使ってくれたのだろう。休憩を多めに取ったので結構時間が経ち、あと6kmでチブとい
う所で、シンバがこちらに歩いて来るのが見える。心配して様子を見に来てくれた。何とも嬉しい。で
も余り多くは語らない。何となくそんな無口さが日本人ぽくて好感を持ってしまう。(そんな僕はやっ
ぱり相当日本人なのだろう。)

3人で道の真ん中を歩く。南アフリカまで繋がるメインロード。車はせいぜい10分に1回通り過ぎる
程度。気持ち良い。振り向くと大きな虹が出ていた。空の色が赤っぽく綺麗に色付く。雲がゆっくり流
れてとても神秘的な眺め。
そして夕日は赤金色っぽく輝いていた。

チェス、又々惨敗。まだ一度も勝っていない。ポールは小学校の時、校長先生がチェスの英国プロで、
彼から習ったそうだ。ムムム、手強い。明日は勝ちたい。16歳の時、校長先生と再戦、それも負けた
らしい。良い話。

今日は晴天の中、24km歩いた。日差しは結構強く、今顔は少し赤い。サンダルは快適だが、やっぱ
り長距離を歩くのには靴が良さそうだ。(ビーチサンダルで24km歩いて親指の骨が痛くなった。)


「今日はあの丘の上まで歩いて終わりにしよう。」とポールが言ったその丘に着く丁度その頃、シンバ
が車で現れた。出来すぎる程の良いタイミング。部屋に戻るとかなりヘトヘト。風呂が心地良い。僕よ
りも17年上のポールがこの生活をもう10年以上続けていることに改めて感心。これからもっと奥深
さを知るのだろう。明日は隣町に移動予定。ポールの読みは、出発、居残り50・50。(シンバが迎
えに来てくれる確立のこと)
さぁ、どうでしょう。

2003年7月2日

朝、役所の女の子が「あと1時間したら迎えに来るわ。」とメッセージを残してくれてからかれこれ1
時間半。まぁ何時ものペース。上手くとなり街に移動出来れば良いが。

と、ここまで書いて、只今7月3日朝。結局昨日は出発出来なかった。

役所の女の子に続きシンバが現れて、「早朝4時に役所の誰かが首都のハラレに行ってしまって車が無
い。至急代わりの車を探す。」とのこと。この時点でほぼ居残り確定だったが、ポールとレストランの
陽のあたるテラスでチェスをしながら次のニュースを待った。来ない。。
気がつけば、既にお昼をまわっている。パスで出発しようか、あれこれとポールと話したが結局待つこ
とに。この二日間歩いてやっとペースが出て来ただけに、こういう待ちぼうけは精神的に辛い。

「今後は何があっても毎日歩き続けよう。」ポールが言った。
午後3時過ぎにシンバ登場。「近所に散歩に行こう。」ということで、役所が管理する実験農場を訪ね
た。農場を任されていたのは僕より年下であろうしっかりした若者。軍の幹部だったお父さんが今年亡
くなられ、彼の後を継いで農場経営をするつもりだそうだ。ムビラ(ジンバブエの楽器)を弾いてくれ
た。

その日のうやむやを吹き飛ばしてくれる、とても優しい音色。小さなシンプルな小屋の中で弾いている
姿が音にマッチして良い雰囲気。スピーカーに繋いで5時間に渡るムビラコンサートを開く予定だそう
だ。是非行って見たい。

この実験農場は広さは小学校の校庭の半分位で、沢山の種類の野菜、木が植わっていた。パーマカルチ
ャーというのだろうか。でもシンバはアグロカルチャーと言っていた。

中でも驚いたのはレモンの木にオレンジの芽をくっつけて、普通6年かかるオレンジの成長を2年に早
めていたことと、トマトの木があったこと。トマトの木は成長する迄8年位かかるそう。楽しい訪問だ
った。夕方の風呂、気持ち良い。居残りに感謝。シンバ、ポールと夕食前にホテルのバーでビール。こ
れはチブに来てからの恒例パターン。

何でもシンバは2007年までに環境観光庁の庁官を目指しているらしい。頼もしい限り。
日本語でチブは恥部なんだよ、なんて下らない話で盛り上がった。歩いていたらチャンバラ川なんて名
前の川があった。そしてなんと、動物の象はここ、ショーナ語でも「ゾウ」というらしい。

食後にシンバにポイ(火廻し)を見せたかったが、パラフィンに水が混じっていたのか、上手く火が付
かず、諦めた。のんびりした一日が終わった。今日(7月3日)こそ出発出来れば良いけど。

2003年7月5日

ビアトリス(Beatlice)に昨日到着。この二日間はなかなかのドラマ。7月3日は、「朝8時に迎えに
来るよ。とシンバは言ったものの、また誰も来ない。11時過ぎにオフィスに行ってみたが、シンバも
秘書も留守。もう自力でこの街を脱出する他無い様だ。ポールも待ちくたびれて限界の様子。暫くして
から再度オフィスへ。シンバは中庭で新聞を読んでいた。
「次のディストリクト(県のようなもの)と上手く連絡が取れなくて。」
ムムム、もう言い訳なのか、本当なのか、どうにかしてくれ。という感じ。

隣に座っていたチンピラorヤクザの親分風の人は後から気付けばシンバのボスだった。何しろこのチブ
に来てから、やたらと色々ボス風な人に逢ったので、誰が彼の直ボスなのか分からない。その辺は何と
なく日本の大会社組織を思わせる。ポールとこのボスの会話は穏やかでは無かった。
「もう自力で出発します。」とポール。
「そうですか。申し訳ない。」とボスはあっさり。
ホテルに戻り、僕のリュックに必要なものを詰めて、残りの荷物は次の日に運んで貰うことになった。

バスを待つ間、シンバにせがまれて日本語をローマ字で書く。「君は素晴らしい。kimi wa subarashi」
、「君を愛してる。kimi wo aishiteru」何時の日か再会した時に覚えているのかしら。結局8日間滞在
したチブを後にする。短かった様な、はたまたとても長かった様な。

前回徒歩を終えた116km地点(首都ハラレまでの距離)でバスを降りて歩き始める。ポールは今回
のチブの人達の対応にかなりガッカリしている。この辺はなかなか察し辛くこちらも辛い。空は晴天。
午後3時過ぎ。なにはともあれ歩き始めると気持ちが良い。やはり体を動かすのが精神衛生上一番。初
めて荷物を背負っての徒歩。

夕方、103キロ地点のフェザーストーン警察署(Feather stone police station)到着。街自体は更
に10km西に行った所に在り、警察署の周りはお店が2−3軒あるだけ。事情を話すと、オフィス一
室を僕達の寝床として提供してくれた。南アフリカのクルーガー国立公園を訪ねた時を含めて、警察署
で寝るのはこれで2度目。こちらの警察は結構快く旅人を泊めてくれる様だ。

しかし寝床は固い椅子の上。昨日までのチブのベットが恋しい。いやいや、兎に角泊まる所が見付かり
一安心。近くの店にビールを飲みに行く。メイン道路沿い、大きな木の下でチップスつまみに夕焼けを
見ながらビールを飲んだ。ポールは今回の出来事に心底ガッカリしている。涙さえ浮かんでいる様に見
えた。

南アフリカからポールの地道な努力で積み上がって来たサポートがここに来て崩れようとしている。面
と向かって話し合いたくても、なんとなく話をごまかしてしまう為、口論するのが難しかったチブのお
役所の人々。ポールには相当のストレスだった様だ。

隣の肉屋で牛肉1kgを購入、建物裏の焚き火スペースでバーベキューした。トラックの運転手、近所
の人達や警察等5〜6人が座っている中に混ぜさせて貰った。ビールを飲みながら、星を眺め、焚き火
を眺め。ポールも僕も口数は少なかった。牛肉は美味しかった。ほろ酔いになった頃に警察署に戻った
。寝る前のチェスはなかなかの激戦だった。僕は椅子の上、ポールは床の上にマットを敷いて寝た。夜
中、何度も目が覚めた。ポールも同様だった模様。

翌、7月4日。アメリカ独立記念日。そこはフェザーストーン警察署。チョコクッキーの朝飯を済ませ
、いざ隣町との境を目指して出発。朝は空気が清々しく気持ち良い。寝不足の為、日が昇り気温が上が
ると疲れ、眠気が出て来た。2回程小休止した後、目的地の川に到着。予定では12時にチブの役人か
ら次の街の役人へ、ポールのサポートの引継ぎセレモニーが行われる。未だ12時前だったので木陰で
横になった。ポールは新聞のクロスワードをしている。

間も無くチブのお役人が僕達の荷物を持って登場。次の街のお役人は来ない為、一旦バスでビアトリス
を目指した。南アフリカからずっと続いて来た街から街への政府のサポートがここで途絶えた。この事
実に対するポールの悲しみは僕の気持ちの及ぶ処では無い。

ビアトリスのお役所を訪問。新聞記事のスクラップブック、南アフリカの森林大臣の推薦状をもとにポ
ールがお役所の女性に事情を説明。彼女の対応は非常にクール。なんと鼻くそをほじりながら話してる
。なんだかこの情景は僕まで腹が立った。

ハラレの環境観光庁に連絡。彼女もやっとポールの活動を理解し始めた様子。帰り際、役所を訪ねてい
る若者から何故かお札にサインをせがまれるポール。後に役所の若者が「なんでサイン頼まれたの?」
と聞くと、「僕が有名だからじゃない?」と答えるポール。そんな処が頼もしい。

役所近くに朝食付きのモーテルを見つけた。これで一安心。夜は豚肉のバーベキュー。御飯とトマトに
ビール。なかなかの夕食だった。

食後は「もう役人には頼らないで自力で旅を楽しみ、反政府の人達にも出逢って行こう。」というアイ
ディアがポールから出る。チェスで言えばピンチをチャンスに変える反撃の一手。そう、その夜はポー
ルにチェスで初めて勝った。よっしゃ。

「ムガビ(現大統領)と反対派のリーダーとポールの3人で植樹をしよう。」というポールのアイディ
アで盛り上がったが、派手さは求めず、純粋に植林セレモニーのことだけ考えようということで話はま
とまった。色々良い話が出来た。

(ジンバブエの日記、まだまだ続きます。)

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2008-02-20

世界放浪の旅 いざジンバブエ! (本出版に向けて・その35)

世界放浪の旅 いざジンバブエ! (本出版に向けて・その35)
「利を共にするは小なりといえども還って大なり」
角倉素庵:江戸前期京都嵯峨の豪商

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより

流石江戸時代の商人。良いこといいますね。

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日食パーティーの時に訪れたクルーガー国立公園で動物を見て、その日はひょんなことから国立公園の
従業員宿舎に泊めさせてもらった。いよいよ明日、ジンバブエに入る。靴とリュックはヨハネスブルグ
で買い求めた。何しろ長い間サンダル生活で、靴なんて持ってなかった。リュックも45ℓ入るそ
れなりの物を買った。寝袋はというと、ネパールで中古で買ったコンパクトになる結構良い寝袋を以前
ヒッチハイクで乗せてもらった車の中に忘れてしまい、友人のデビーがくれた子供用のペラペラの寝袋
しか無かった。まぁなんとかなるだろう。そしてそれよりも何よりも、アースウォーカーがジンバブエ
のどの辺を歩いているのか、情報は何も無かった。でもそれも何とかなるだろう。

翌日、いよいよ国境に到着。入国管理局長を訪ねて、アースウォーカーのことを訪ねる。「彼なら1ヶ
月程前にジンバブエに入ったよ。」と教えてくれて、首都ハラレの環境省に連絡を取り、彼の居場所を
突き止めてくれた。グトゥという街にいるらしい。局長はさらに親切にもグトゥの役場にまで電話して
くれた。すると、アースウォーカーがたまたま役場に来ていたタイミングで、電話口にアースウォーカ
ー(以後ポール)が出てきてくれた。

ポールの声を聞き、ホッとした。想像以上にスムーズに連絡が取れたことで、ジンバブエまで歩きに来
たことが間違いでは無かった様に思えて来た。目指す宿の名前を聞き、晴々した気分でジンバブエに入
った。
先ずは両替だ。入国管理局を出ると、闇両替商が居た。取り合えず50ドルを変えると、ポケットに入
りきらない位の分厚い札束を渡された。インフレでどんどん通貨価値が落ちているからだった。これで
ひと段落。国境沿いの安宿に落ち着く。

次の日はヒッチハイク。最初は白人が乗るベンツに乗せて貰い、その後はトラックの運転手と値段交渉
して先ずはグレートジンバブエまで。これまた不思議とスムーズにヒッチハイク出来た。その日は世界
遺産のグレートジンバブエ遺跡近くのホテルに泊まった。

ジンバブエに入って3日目、やっとグテゥにてポールと合流を果たした。

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2008-02-19

世界放浪の旅、南アフリカ ”太古の聖地” (本出版に向けて・その34)

世界放浪の旅、南アフリカ ”太古の聖地” (本出版に向けて・その34)
「あらゆる人を褒める人は誰をも褒めてないのである。」
ポズウェル:イギリスの伝記作家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

因みに僕は褒められて延びるタイプです。

関係無いか。

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僕は映画「エンドレスサマー」にも出てくるサーフィンのメッカ、ジェフリーズベイを目指した。

ジェフリーズベイの波はこれ以上無い位に綺麗な波だった。一本の波の横幅が2−300ある。巨大な
湾にゆっくりとインド洋の波が入ってくる。「スーパーチューブ」と言われるジェフリーズベイの波は
文字通り、波がチューブの様にうねっている。

ブラジルのイタカレで波乗りをしていた頃の感覚を思い出しつつ波を掴まえる。波に力がある。小さな
波でも十分楽しめる。ビーチを見下ろすバックパッカー(安宿)に数日間滞在した。そこには主にヨー
ロッパの波乗りフリークが集まっていた。

これから世界一周のサーフトリップに行くなんていう、文字通りエンドレスサマーの様な旅をしている
人も居た。僕も何時かそんな旅をしてみたいものだ。

宿で仲良くなった仲間と海に入る。上手い人は何時の間にかデカ波が来るタイミングで「スッ」と前に
出て、颯爽と波に乗って来る。イタカレでもそうだったが、どうやって波を読むのか感心してしまう。


僕はそれなりの波を掴まえる。なんと波の中にイルカが泳いでいるのが見えた。宿の仲間に連れて行っ
てもらい岩場のポイントに行ったり、近くの沢で崖から沢に飛び込む度胸試しをしたり、楽しい時間が
過ぎた。何時かどっぷり波乗りに浸る旅をしようと心に決めてジェフリーズベイを後にした。

ジェフリーズベイからイースターのお祭りのタイミングでラスラーズに戻った。第二の故郷と言っても
言い過ぎで無い位に、ラスラーズに戻るとホッとした。僕は何時しかレストランのバーカウンターに立
つ様になった。イースターにはヨハネスブルグからのお客さんが沢山来る。カウンターに立ち、そんな
お客さんとあれこれ話すのが楽しかった。

そして、イースターの後、ずっと気になっていたサンゴマバレーに行く機会があった。
サンゴマとは英語では“Witch Docter”、日本語では「呪術医」となる。自然の薬草を使ったり、呪術
を使って病気を治す人達のことで、ラスラーズの山向こうのサンゴマバレーはその名の通りサンゴマの
居住区なのだが許可無く入ることは出来ない場所だった。

ラスラーズの植物博士のデールはサンゴマバレーの管理人の様な存在で、彼の許可無くそこを訪れるこ
とは出来なかった。在る日、デールが誘ってくれて、レストランチーフのマーテルと3人でサンゴマバ
レーに行くことになった。行く前にデールが言った。「サンゴマバレーに行ったことはやたらと人に話
してはいけないよ。」
「分かったよ。」と僕は答えた。

ラスラーズの向かいの山の向こう側。というと近い感じがするが、車で20分程かかった。向かいの山
を迂回する様な感じでサンゴマバレー(サンゴマ谷)に入る。

目の前に信じられない光景があった。

山の岩肌が一部、鶏の卵を横に置いた様に隆起している。それは本当に巨大な卵の様に見える。そして
その岩肌に水が流れていた。僕達が行ったのは夕方3時頃で、西日がちょうど卵を照らしていた為、水
で滴る卵(の様な岩)が輝いて見える。

僕は車の後部座席の窓から声も出せずにその風景を眺めていた。その時感じたこと。正直に書いてみる
。地球のクリトリスを見てしまった感じがした。サンゴマバレーは地球の子宮にあたる場所で、ひっそ
りとその姿を山の間に隠しているんだと感じた。

そして、卵が光る岩肌の隣の山はスターウォーズに出てくる三角形の巨大な宇宙船の様な形をしていて
、コックピットに当たる部分が見事にピラミッドの形をしていた。そしてその奥には山というよりは、
カーテンが波打っているような形の巨大な赤岩がそびえていた。哲君と洋平君と3人でラスラーズにテ
ントを張っていた時、僕達は何時もそのカーテンの様な山の上の一部だけを山向こうに眺めることが出
来て、どんな形なのか不思議に思っていたが、まさかそんなカーテンの様な姿は想像出来なかった。

文字通り僕は「言葉にならない」状況だった。そして車を降りてゲートを抜けていよいよサンゴマバレ
ーの居住区に入る。ゲートに入って最初に目に入ったのは顔をスダレの様なもので隠している人達だっ
た。スダレを通してこちらをじっと見ている。後で説明を聞いて分かったのは、サンゴマバレーはサン
ゴマを養成する学校の役割を果たしていて、その学校に入ったばかりの若いサンゴマ達は顔をスダレで
隠すそうだ。

緩い坂を登り谷の奥地を目指す。今度は巨大な崖の真ん中が大きくひび割れていて、その中が家になっ
ている場所があった。中から人がこちらを見ている気配があるが、こちらからは中は真っ暗で何も見え
ない。また暫く行くと今度は巨石同士がこれまた有り得ないような角度でバランスを取って重なり合っ
ていて、その中に人が住んでいる場所があった。

やっぱり中は見えない。サンゴマバレーはそんな自然が創り出す家がそこかしこにあった。始め人間ギ
ャートルズ、或いはフリンストーンの世界だ。

谷を上がって行くに連れて洞窟の数が増えて、人の姿が見え始める。

そして一番奥にはサンゴマのビックママ、モニカの家があった。家の中には岩が隆起した祭壇があった
。というか、岩が隆起した部分を囲う様にモニカの家が作ってあった。ちょっとインドを思い出す雰囲
気だった。

モニカとデールが短い会話を交わして、僕達はサンゴマバレーを後にした。

ラスラーズに来てから5ヶ月が経ち、初めて訪れたサンゴマバレー。衝撃だった。「僕は百聞は一見に
如かず」という言葉を思い浮かべていた。サンゴマバレーは言葉では伝えきれない場所だった。

イースターの後はドラケンスバーグ山脈(龍の山脈)の麓で行われた野外音楽フェスティバルのティピ
(北米インディアンのテントの様な家)設営を手伝いに行き、そこで知り合った仲間と1ヶ月程共同生
活をした。僕は仲間の一人が借りている家の庭でテントを張って生活した。他の仲間はキャンピングカ
ーで生活していたり、空き部屋を使ったりして食事は皆でする。

彼らは皆ヨーロッパ系のアフリカ人、つまり白人で、アフリカーナーと言うらしい。でも実際そんな言
葉は聞いたこと無かった。ラスラーズの仲間、ラスラーズに来るお客も皆白人だった。その辺は凄くは
っきりしていて、白人と黒人の生活スタイル、居住区は違う。アパルトヘイトの名残かと言えばそうな
のかもしれないが、僕は正直そこにそんなに違和感を感じなかった。ラスラーズの黒人スタッフとも仲
良くなったが、彼らは夜仕事が終わると近くの村に帰る。生活の場が違う。それはいい意味で上手く住
み分けがされている様に感じた。

共同生活している仲間の一人、ペルー人のカルロスは石のアクセサリーを道売りしながらもう長いこと
南アフリカに住んでいた。彼が面白い話を教えてくれた。彼のお父さんは敬虔なクリスチャンで、カル
ロスはお父さんと一緒にイギリスに行き、12世紀の書物を教授から見せてもらったそうだ。その書物
によると、キリストには実は、12使徒の男性達に加えて、13人の女性使徒が居たそうだ。

その昔、男性が女性に対して社会的に優位な地位を築く為に、その13人の女性使徒の事実は抹消され
、それに関係する文献は全て焼かれたという話だった。一年は13ヶ月だったそうだが、12ヶ月とな
り、「13日の金曜日」にもある通り、数字の13を忌み嫌う風習が出来上がったという話だった。

ヨーロッパが太陰暦から太陽暦に変わった史実とカルロスの話がどう結びつくかは分からないが、有り
得る話だ。僕はその話を聞いて以来、13という数字が好きになった。

僕は毎朝近くの山道を裸足で散歩した。これからアースウォーカーとジンバブエを歩く為のウォーミン
グアップのつもりだった。

これまた気の合う仲間との共同生活が楽しく、うっかりそのまま長居してしまいそうだった。アースウ
ォーカーはもうジンバブエに入っている頃だ。出発時期を考えていた。その頃、丁度テレビではジンバ
ブエの首都ハラレでの暴動の様子がニュースで流れていた。

ジンバブエはムガビ大統領の独裁政権下にある為に欧米諸国がジンバブエに経済制裁を与えることによ
り石油や食料不足が起こり、それが暴動に繋がっていた様だった。

南アフリカの人には「俺なら今ジンバブエには行かないよ。」と別々の二人から言われた。正直ちょっ
と尻込みした。そうか、ジンバブエはそんなに危ない状態なのか。

どのタイミングでジンバブエに入るか、僕は何か節目を探した。そうだ。冬至の日だ。6月21日(南
半球なので)。この日にジンバブエに入ろう。決心がついた。
楽しかった共同生活の場を離れて、僕はラスラーズに一旦戻った。もう暫くラスラーズに来ることも無
いだろうと思ったからだ。

ラスラーズに着くと、僕は最後にもう一度サンゴマバレーに行った。今度は一人で、歩いて山を越えて
サンゴマバレーに入った。早朝にラスラーズを出て、サンゴマバレーに着いたのは夕方だった。洞窟の
部屋で泊めさせて貰い、次の日の朝、モニカの側近の様な女性二人にお清めをしてもらってラスラーズ
に戻った。

僕はその頃、ファイヤーポイを持っていた。チェーンの先に不燃布の塊が付いていて、それに火を付け
て回す。レストランの外でやっていたら食事をしていたお客に、ヨハネスブルグの家で誕生日バーティ
ーをやるからそこで火廻しをしてくれないかと頼まれて、そのタイミングでラスラーズを出発すること
にした。

地元鎌倉に次ぐ、第二の故郷ラスラーズバレー。ずっと視界から消えるまで車の後ろの窓からその姿を
眺めていた。ラスラーズバレーは大きな船のような形をした岩山の麓にある。遠くから眺めていると、
その岩山が地面から「ゴゴゴゴゴーッ」と宇宙船になって空に向かって飛んで行く姿が思い
浮かんだ。「太古の聖地」何時からか僕はラスラーズバレーを勝手にそう呼んでいる。

誕生日に火廻しをした家は、映画に出てきそうな豪邸だった。お店と変わらないバー、サウナ、シガー
ルーム、映画ルーム、勿論庭にはプール。新築で、全て買ったばかりの家具。正直、家具や絵に統一性
が無くて、いかにも大金を積んで即席で作った豪邸だった。流石、鉱石の宝庫南アフリカ。お金持ちの
スケールが違った。

誕生日の主は未だ30代後半位の男性で、真っ赤なポルシェに乗っていた。僕が助手席に乗ると、自慢
したかったのだろう。住宅街の真っ直ぐに延びる坂道を頂上に向かって爆走した。シートに体が押し付
けられる。やれやれ。子供の様に嬉しそうに笑っていた。

そしていよいよ夏至まで数日となり、僕はジンバブエを目指して北上した。

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2008-02-18

世界放浪の旅、南アフリカ ”歩き出す前に” (本出版に向けて・その33) 

世界放浪の旅、南アフリカ ”歩き出す前に” (本出版に向けて・その33) 

「志を立てるのに遅すぎるということはない。」
ボールドウィン:イギリスの政治家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

何時の日か、波乗りでチューブをくぐってみたい36歳、波乗り初心者です。

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乗り合いバスに揺られること5時間程でヨハネスブルグに到着。ソウェトを目指す。ソウェトはヨハネス
ブルグの黒人居住区で、アパウトヘイトの廃止はここでの暴動が発端だと言われている。映画「サラフ
ィナ」の舞台にもなっている。因みにサラフィナはいい映画だ。

アースウォーカーがソウェトにあるアフリカ最大のバラグアナ病院から10kmウォークを実施する前
夜に僕はその病院に到着した。その夜は病院の待合室のソファーで寝た。ほんの数ヶ月前、ヨハネスブ
ルグに到着した頃はそんなこと、恐ろしくて出来なかった。今思えば随分とアフリカに馴染んで来てい
た。

次の日の朝、メディアを含めた大勢が見守る中、アースウォーカーが病院で木を植えて10kmウォークが
スタートした。その日のイベントはNGOのFood & Trees for Africaが主催していた。ソウェトを白人が
歩く。そのことは、アパルトヘイトが廃止される前は考えられないことだったろう。10kmウォーク
は盛大に行われた。ブラスバンド、ジャンベ(アフリカの太鼓)グループ、地元の小、中学生、そして
消防車まで。消防車は「皆さん、世界を歩いて木を植えるアースウォーカーです!」とスピーカーで演
説。警察のエスコート付きでポール(アースウォーカー)を先頭に100人程が車道を歩く大パレードだっ
た。
目指した先はソウェトの人達の自由のシンボルとなっているSEMOHO(Soweto Mountain of Hope)の丘。

その日、僕はそのままFood & Trees for Africaのジャネスの家に連れて行って貰った。それから2週間
、僕はジャネスの家に居候させてもらった。彼女の家はソウェトとは対照的な、サントンという高級住
宅街にあった。豪邸の離れの一室を提供して貰い、僕はラスラーズのキャンプ生活とのギャップにちょ
っと戸惑った。

これは余談だが、ジャネスのお父さん、レグ・パークさんはボディービルの世界大会、ミスターユニバ
ースの歴代チャンピオンで後に映画俳優になった方。僕が逢った時は74歳なのに、背筋がピンと延びて
いて、とても70代と思えない驚異の体格をしていた。なんとアーノルド・シュワルツネガーの師匠で、
2007年11月22日に79歳で他界された。伝説のボディービルダーだった様だ。
(レグさんのサイト:http://www.regpark.net/)

次の日、彼の友人イーゴン宅に居るポールを訪ねた。ラスラーズ以来、二人で落ち着いて話すことが出
来た。話の内容は覚えていないが、僕はポールの一切の迷い無く地球の為に生きる姿に感銘を受け、目
頭が熱くなった。

ジャネスの家に居候している2週間の間にヨハネスブルグ郊外を一緒に歩いたり、プレトリアの森林庁を
訪問したり、ジンバブエ国境迄の日程づくりの為に図書館に行ったり、一緒に日本大使館を訪問したり
、夜一緒に飲みにいったりするうちに、だんだんとポールの活動内容を理解し始めた。それでも未だ感
覚としては「氷山の一角を見たのみ。」といった感じだった。

その間、大ニュースがあった。2003年3月20日、アメリカがイラクに攻撃を開始した。僕はそのニュース
をジャネスの家で、ポールとジャネスと3人で見ていた。ショッキングなニュースだった。夢と希望一
杯に始まった21世紀。911以降、そのムードに陰りが見えていたのは旅をしながら感じていたが、そ
のニュースはそれを決定付けるものだった。

ポールがジンバブエに向けての旅をスタートする頃、僕はポールに言った。
「ジンバブエに入る頃に合流して、僕も一緒に歩きたい。」と。
「勿論。」ポールが言った。

何故僕は直ぐには旅に合流しなかったのか。それは「最後の一人旅を満喫しよう。」と思ったからだ。
やっぱり覚悟が必要だった。重たいリュックを背負ってアフリカを歩く前に僕にはやりたいことがあっ
た。波乗りだ。

僕は映画「エンドレスサマー」にも出てくるサーフィンのメッカ、ジェフリーズベイを目指した。

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2008-02-17

世界放浪の旅、南アフリカ ”アースウォーカーとの出逢い” (本出版に向けて・その32)

世界放浪の旅、南アフリカ ”アースウォーカーとの出逢い” (本出版に向けて・その32)
「いかなるときでも、おじぎはし足りないよりも、し過ぎたほうがよい。」
トルストイ:ロシアの小説家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

トルストイ、意外に日本人っぽいこと言いますね。

今日から八戸えんぶり祭り。昨年の今頃は丁度八戸を歩いていました。


=====================================

洋平くんは僕と同じ亥年で僕の12歳下、哲くんは寅年だった。僕たちはその内、お互いを「イノドン
」とか「イノゾウ」とか「寅吉」と呼び合う様になり、兄弟の様な親しい仲になった。

ラスラーズでの日々はシンプルでとても充実していた。2年半旅を続けてきて、無駄なものが自分から
削げ落ちて行き、健康な体と、楽しい仲間と、ちょっとした美味しい食事と、太鼓と、そしてそこに大
自然があれば後は何も要らないんだってことを体で感じることが出来た。常に裸足だった。たまに素っ
裸だった。野生のサイや猪を見た。真っ赤に沈む夕日を3人で何度も眺めた。

ラスラーズにはユニークな仲間が多かった。デールは植物博士で、ブッシュマンやサンゴマ(アフリカ
の漢方を扱うシャーマン)が薬として使う植物に特に詳しくて、彼の部屋には珍しい植物が沢山置いて
あった。ニアンは家族で「マリンバハウス」という楽器で溢れる可愛い家に住んでいて、僕達は良く楽
器を演奏しに遊びに行った。スウェットロッジ(インディアンが儀式で使うサウナ)もあり、何度か僕
達もスウェットロッジに参加した。

ボスのフリックの息子カイルは中学になったばかりでなかなかの悪ガキだった。その他にもユニークな
メンバーが谷の一角で共同生活をしている。僕達は家を持たないテント組だが、だんだんとラスラーズ
の一員として皆が温かく迎え入れてくれた。

ボスのフリックの彼女ジャネスはヨナネスブルグに住んでいて、”Food & Trees for Africa”(食料と
森をアフリカに)というNGOを運営していて、ラスラーズの畑ではパーマカルチャーのやり方を教えるワ
ークショップが時々行われていた。僕達もそのワークショップにお手伝いとして参加した。畑には自分
の背丈位ある花が元気に沢山咲いていた。その花を全部切り倒し、畑に肥料として埋める。葉野菜の横
には葱を植えて虫が来るのを防ぐ。等、なるほど、ユニークで理に適った農法だった。

ラスラーズに来て僕は期せずしてパーマカルチャーのこと、そして「NGO」「というものの存在を知るこ
とが出来た。

在る日、日課の雑草取りをしているとフリックがやって来た。
「アースウォーカーって人がもう直ぐここに来るらしいよ。」
「アースウォーカーって誰ですか?」
「分からない。」
いつも通り、最低限のことだけ伝えるとフリックは去っていった。彼は僕達が最初の1カ月分のキャン
プ代を払おうすると「そんなものは忘れた。」と言ってくれたり、ラスラーズの仲間がレストランで食
事を共にする時は僕達も呼んでくれたりと、僕達に気をかけてくれていた。

「アースウォーカー」と聞いて、僕が最初にイメージしたのはスターウォーズの「ルーク・スカイウォ
ーカー」だった。一体何をやっている、どんな人なんだろう。

それから数日後、僕達は朝の雑草取りを終えて、ロッジのキッチンに何時も通りパスタを作りに行った
。すると、キッチン横の中庭、何時も僕達が朝ご飯を食べるテーブルに髭の叔父さんが座っていた。緑
色で胸に白抜きで木の絵が入っている”Food & Trees for Africa”のTシャツを着ていた。

僕は何の気無しに話しかけた。
「旅してるんですか?」
「そうだよ。」
「どちらまで?」
「中国まで」
「えっ、中国まで?」
「歩いて。」
「歩いてーーっ?!」
「もしかして貴方は“アースウォーカー”ですか?」
「そうだよ。」

かくして、こんな感じの会話をして、僕は初めて「アースウォーカー」に出会った。

「これから村の小学校で木を植えるんだ。一緒に来ない?」とアースウォーカーに誘われた。僕達は彼
について行き村の小学校に向かった。

小学校には全校生徒15人程が集まっていた。アースウォーカーは頭にパレスチナのアラファト議長の
ようなスカーフを撒いていて、良く似合っていた。小さな学校の中庭には穴が掘ってあって、りんごの
木が用意されていた。

「僕は14年間、地球を歩いて木を植えています。34カ国、4万キロを歩きました。僕は小さい時か
らアマゾンが大好きで、大人になり、アマゾンがどんどん破壊されていることを知り、歩いて木を植え
る旅を始めました。すると、戦争も森を破壊していることを知りました。僕はいま、イギリスから中国
まで歩きながら1億本の木を植える旅をしています。20世紀に戦争で亡くなった全ての犠牲者1億人
の為に一人一本で一億本です。戦争を止めようよ。その代わりに木を植えようよ。命を奪い合うよりも
、命を与え合おうよ。というメッセージを伝える為に木を植えて歩いています。」

ラスラーズのスタッフ、タバセンが英語から現地の言葉に訳していた。子供達は真剣に聞いている。

皆でりんごの木を植えた。たった一本の植樹だったけど、僕にとっては忘れられない植樹だ。僕は興奮
していた。「この人は地球の為に人生を捧げている。」

植樹が終わった後、小学校の近くの木の下で植樹に参加した大人から質問を受けるアースウォーカー。
僕達もそこに加わって話しを聞いていた。

その頃、2003年2月はアメリカがイラクに攻撃を仕掛けようとしていた頃で、話題はそのことにな
った。
「国連はアメリカを抑えることが出来ていないよね。アメリカの西海岸では、国連に代わって世界市民
の人権を守る“真の国際組織”を作る運動があって、僕もアメリカでその運動に係わっていたんだよ。
」という彼の話に僕は更に興奮した。

世界放浪を始めて2年半。旅を続ける毎に僕の中で疑問が湧いていた。何故アメリカはこんなにも優遇
されているのだろうか。ドルが通用しない国は無い。南米、インド、アフリカ、そしてキューバでさえ
もドルが重宝されていた。そして僕はアメリカのパスポートも持って旅していたので、アメリカと日本
のビザ内容をいつも見比べていた。アメリカは何処の国でも好条件でビザが取れる。

そして世界の反対を押し切って戦争に突入せんとするアメリカ。一体誰が制御するのか。それは何処か
の国なのか、或いは国連なのか。旅をしながら、僕はそのことが気になっていた。

アースウォーカーに出逢い、そんな世の中に対する疑問、それが頭にかかったモヤだとすると。そのモ
ヤが「サッ」と消えうせた気がした。

「そうか。世の中を変えて行くのは国でも企業でも無い。個人なんだ。」
アースウォーカーは一歩一歩、自分の足で前進して、一本一本木を植えて、世界を変えていた。現に、
僕の世界観が変わった。世の中は誰かが変えて行くのを眺めているだけじゃない。自分が変えて行ける
んだ。アースウォーカーはそのことを体で表現してくれていた。

僕はアースウォーカーがどうやって1億本の木を植えて行くのか興味深々だった。
「これからどうするんですか?」僕は尋ねた。
「ヨハネスブルグに行ったらネルソン・マンデラと木を植えたいんだ。そして、NASAに協力を要請して
自分が歩いている地域の衛生写真を手に入れたいんだよ。」と嬉しそうに話してくれた。聞いているだ
けでワクワクした。

その夜は、たまたま小学校のある村で年に一度のお祭りがあった。僕はポール(アースウォーカー)と
あれこれと話をしたが、何を話したかは覚えていない。ただ、祭りの帰り道、ポールをラスラーズまで
エスコートしたのが嬉しかったのを覚えている。4万キロ地球を歩いてきた人の前を歩く。それだけで
光栄なことに思えた。裸足で大地の感触を確かめながら歩いた。

次の日の朝、ポールは出発していった。僕はポールに言った。
「貴方がヨハネスブルグに着く頃、僕も歩きに行きたいです。」
「勿論。楽しみに待ってるよ。」

ポールが出発した日の早朝、マリンバハウスで子供が生まれた。レストランのスタッフのアネルは助産
婦の経験があって、彼女が取り上げた。ニアンの奥さんは赤ちゃんが産まれる直前に流れ星を見たそう
だ。男の子の名前はアダムになった。

それから1ヶ月が過ぎ、僕はヨハネスブルグを目指して北に、洋平くんと哲くんはケープタウンを目指し
て南に向かうことにした。最後に一緒にラスラーズバレーの近く、レソト王国の滝を見に行った。滝に
向かうバスの中で僕に話し掛けてきたおじさんは僕達が向かっている村の警察署長だった。僕達は署長
室に泊まらせてもらった。

署長は自身の不思議な体験談を僕達に沢山教えてくれた。「廊下で犯人から撃たれた。怪我は無かった
。後日現場検証をすると、壁に残る弾丸跡の位置からして、体に弾が当たっていない筈は無いという話
になり、レントゲンを撮ると、実際体に穴が開いていた。」なんて話。嘘じゃ無かったと思う。僕たち
は何故か朝礼に参加して、滝まで送ってもらった。

深い谷に落ちる滝を3人で暫く眺めた。ラスラーズでの3人の生活がずっと続きそうな感じだった。あ
っという間の3ヶ月。僕達はそれぞれの目的地に向かって行った。

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2008-02-16

世界放浪の旅、南アフリカ ”初仕事” (本出版に向けて・その31)

世界放浪の旅、南アフリカ ”初仕事” (本出版に向けて・その31)
「才能とは自分自身を、自分の力を信じることである。」
ゴーリキー:ロシアの小説家、劇作家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。


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気が付けば南アフリカに来てもう2週間が経っていて、空港に着いた時の緊張感が嘘の様に馴染み始め
ていた。

今度は日食アフターパーティー(言わば後夜祭)の会場、ラスラーズバレーに向かった。

南アフリカは面白い国で、実は国土の中に、もう二つの国、「スワジランド王国」と、「レソト王国」
が存在する。日本の国土の中にもう二つの王国が存在するなんて、ちょっと想像出来ない。

そんな王国の一つ、レソト王国は、南アフリカの国土のほぼ中心に位置していて、そこはドラケンスバ
ーグ山脈(南アフリカ共和国の言語、アフリカーンス語で「竜の山」という意味。世界遺産にも登録さ
れていて、「ロード・オブ・ザ・リング」の作者トールキンが育ったのも、この山脈の麓だそう。)中
にあり、平地が一切無く、全国土の標高が1400mを越えていて、レソト王国は南部アフリカの山岳
民族と言える。

会場のラスラーズバレーは、そのレソト王国の北側と国境を接する位置にあり、このドラケンスバーグ
山脈の北端に位置していた。

そんな、竜の様な山脈が続く一見西部劇に出てくるアメリカのモニュメントバレー辺りをちょっと髣髴
させる広大な景色を見渡す山の谷間にラスラーズバレーはあった。

因みにラスラーズ(Rustlers)とは、西部開拓時代の「家畜泥棒」のことらしい。山賊みたいな存在だ
ろうか。又、「活動家」という意味もあるらしい。

僕はラスラーズバレーに到着すると、皆と離れた場所にテントを張った。そこは遠く、向かいの山が見
渡せる絶景の場所で、直ぐ近くには寝そべれる大きな岩があった。その場所に哲君と洋平君という、二
人でエジプトから一緒に南下して来た二人組みも加わり、3人生活が始まった。

アフターパーティーでは、ザンビアの日食で出逢った南アフリカ人のマックスに再会した。こじんまり
と楽しいパーティーだった。僕は段々と本祭よりは後祭、大きな集まりよりは小さな集まりが好きにな
っていた。

3日間程続いたパーティーが終わり、賑わっていたキャンプ場も数貼りのテントを残して静かになった

僕達3人はというと、見晴らし抜群の、余りにも居心地の良い場所から動く気がせず、3人だけのひっ
そりと長―い後夜祭を楽しんでいた。焚き火の木はその辺にいくらでも落ちている。街にちょっとした
食料を買いに行けば焚き火を囲んで作る料理は何でも美味しかった。

3人でのんびりしている間に、今度はクリスマスパーティー、そして年越しパーティーが始まり、あっ
という間に1ヶ月が過ぎた。ラスラーズパレーは6家族程が共同生活をしながらロッジ、キャンプ場、
レストランを経営していて、レストランでは畑で作った新鮮野菜で美味しい料理を出していた。

僕達はアフターパーティーの入場料以降、キャンプ代も支払わずに勝手に居座っていた。在る日、ラス
ラーズのボスのフリックに声を掛けられた。
「あれ、君達未だ居たの?随分とここが気に入ったんだね。」
それだけ言って去っていった。

それ以外は全く話したことは無かったが、僕達はフリックに好感を持っていた。

その数日後、レストランを任されているマーテルからいよいよキャンプ代を請求された。1ヶ月分だ。


僕はフリックに相談に行った。
「僕達はここがとても気に入りました。ここに住みたいので3人に仕事を下さい。レストランの受付と
か、何でも良いです。」
するとフリックは、
「月曜日から金曜日まで、毎日2時間、畑の雑草取りをしてくれ。そしたら、その週のキャンプ代は要
らないよ。」
「ありがとうございます!」

交渉が成立した。旅の間に仕事をするのは初めてだった。
かくして僕達3人は晴れてラスラーズの仲間入り?を果たした。

南半球の1月は夏だ。日中は日差しもきつい。僕達はなるべく早起きして朝一番に草取りをした。日本
の畑と違い、畝は殆ど無く、色んな野菜が交じり合って植えてあり、花も植えてある。フリックはたま
に僕等の様子を見に来て教えてくれた。
「ここの畑はパーマカルチャーっていう農法を使っているんだよ。色んな野菜、果物を隣合わせで育て
ることで、土の栄養が偏らないから、ずっと美味しい野菜が採れるんだよ。」
「へー、パーマカルチャー?」初めて聞く言葉だった。

僕はそれまで畑仕事の経験は皆無と言って良かった。雑草取りはやってみるとなかなか楽しい。僕達は
裸足で手足を土だらけにして雑草取りをした。終わるとプールに飛び込んで汗を流す。3人で素っ裸で
飛び込む。プールから上がると何時も腹ペコだった。

畑の野菜をちょっと拝借して作るパスタは最高に美味しかった。本当に毎日食べても飽きなかった。

そんな朝御飯を終えると後は自由だ。ラスラーズの近くの山には水晶が落ちていた。水晶を拾いに行っ
たり、もっと足をのばすと小さな滝があったり、テントを張っている裏の山を登るとプレーリードック
の様な生き物が居たり。ラスラーズの大自然は遊び場の宝庫だった。夜は星空を眺めながら焚き火を囲
んでジャンベを叩いたり、ディジュリデゥー、アサラト(アフリカの民族楽器)なんかを3人で演奏す
る。毎日がただただ、楽しく過ぎていった。

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ポール・コールマン氏動画メッセージ

ポールが昨年韓国のテレビに出演した映像が3分にまとまっています。

http://jp.youtube.com/watch?v=4QgAoUKjWh4

そしてこちらはおまけ。
昨年4月の神奈川ニュース。僕の活動報告です。
you tubeで見つけたので載せときます。

http://jp.youtube.com/watch?v=oIyLBcbqY7g&feature=related

便利ですね。you tube。

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2008-02-15

世界放浪の旅、南米からアフリカへ。(本出版に向けて・30)

世界放浪の旅、南米からアフリカへ。(本出版に向けて・30)
「脱皮できない蛇は滅びる」
ニーチェ:ドイツの哲学者


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グレイシャー国立公園にある巨大な氷河、高さ60m、幅5kmのペリト・モレノは圧巻だった。「ド
ーーン!」と大砲が響くような音と共に淡い水色をした綺麗な氷河が湖に崩れ落ちて行く。宿で出逢っ
たアメリカ人とフランス人の旅行者とで、その夜は氷河の近くでテントを張った。アメリカ人の彼はギ
ターを持って旅していて、焚き火を見ながら唄を唄ってくれた。僕とフランス人の彼は食器やらコップ
やらを太鼓にして3人で演奏を楽しんだ。アメリカ人の彼は「9匹の龍」みたいなタイトルの小説を書
いている最中だった。「これからタイの“パイ”って村に行くんだ。」と言っていた。

そのアメリカ人の彼とフランス人の彼の共通項は囲碁好きだということで、日本人の僕が囲碁のやり方
すらも知らないというのが恥ずかしかった。未だに囲碁のやり方は知らない。「囲碁はチェスよりもう
んと面白い。」と二人とも絶賛していた。

その後フランス人の彼とフィッツロイ山の周りを3日程一緒にトレッキングした。彼は山道をスキーす
るみたいに駆け下りて行く。僕も真似してみると、意外にもゆっくり降りるよりも楽だった。今でも山
道を降りる時はその時のことを思い出し、時々駆け下りてみる。

フィッツロイの景色は絶景だった。雲に覆われていることが多く、たまにしか全貌は見えない。霊峰と
いう雰囲気が漂っていた。
パタゴニアを満喫して、ブエノスアイレスに戻った。

ブエノスアイレスでは日本人宿に泊まった。宿に到着して驚いた。一年半前にザンビアの日食パーティ
ーで一緒だったキヨシさんが居た。キヨシさんはザンビアの後、コロンビアに結構長く滞在して、僕同
様、南アフリカの日食パーティーを目指してアルゼンチンまで南下して来ていた。これまた嬉しい再会
だ。キヨシさんは一足先に南アフリカに出発した。

僕はその宿でクスコで出逢ったキンちゃんと待ち合わせて居た。キンちゃんはクスコで「金太郎」とい
う日本料理屋を営む女性で、僕が「日食を見に南アフリカに行くんだよ。」と言ったら、「是非日食を
見てみたい。」という話になり、ブエノスアイレスで待ち合わせて一緒に行くことになった。

日本人宿の近くには韓国料理やがあって、食べ放題で5ドルなんていう有り得ない価格で焼肉が食べれ
た。ドルが強く物価が安い為、もう半年もその宿に住んでいるという旅行者も居た。そんなアルゼンチ
ンにちょっと後ろ髪を惹かれつつ、きんちゃんと一緒に南アフリカを目指した。

アフリカを目指す飛行機の中でふと気が付いた。ザンビアの日食を見に行く時はインドからキンジさん
という男性と一緒にアフリカを目指した。それから1年半が建って、今度はアルゼンチンからキンちゃ
んと一緒にアフリカを目指している。面白い御縁だと思った。

インドを旅していた時に、「猿岩石旅行者」という小さなお店を営む日本にも住んでいたというチベッ
ト人に、「ケニアのナイロビ、南アフリカのヨハネスブルグ、コロンビアのボゴタは世界三大危険都市
って言われているんだよ。」と教えて貰ったことがある。

そんなヨハネスブルグに到着して、空港に着くなり周りをキョロキョロ。僕は偉く緊張していた。

ヨハネスブルグの「ブラウンシュガー」という宿には日食のパーティーに向かう若者達で賑わっていた
。キヨシさん始め、日本人旅行者も沢山居る。皆でレンタカーに相乗りして南アフリカの北部にあるク
ルーガー国立公園近くの会場を目指した。

当日は残念ながら曇り空で、日食を見ることは出来なかった。前回同様、欧州、アメリカ、南アフリカ
、イスラエル、そして日本の若者が多かった。ザンビアの日食パーティーで活躍していたファイヤーダ
ンサーのダイ君も居た。

日食パーティーの後はクルーガー国立公園で動物を見てヨハネスブルグに戻ったのは夜中の3時頃で、
ダウンタウンの真っ只中でレンタカーのゴルフのエンジンが突然止まった。皆、唖然とした。よりによ
ってこんな処で。しかもキンちゃんのアルゼンチン行きの飛行機が出るまであと数時間。意を決してタ
クシーを捜しに行く。運良く空が白む頃にタクシーが見付かりブラウンシュガーに戻ると、その足でキ
ンちゃんは空港に向かった。

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インターネットラジオ @TENTION

インターネットラジオ @TENTION
年末に東京でインタビューして下さいました。

皆様是非、聞いてみて下さい。

DRAGONさんの一見怖そうな外見と裏腹に、優しい語りかけに、思わず気楽に話しちゃいました。

間に入っている曲、ミスチルの「終わり無き旅」は大好きな曲です。

DRAGONさん、ありがとうございます!

http://www.peace2001.org/attention/radio/radio080208.html

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世界放浪の旅、アルゼンチン:パタゴニア(本出版に向けて・その29)

世界放浪の旅、アルゼンチン:パタゴニア(本出版に向けて・その29)
「人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ」
パイロン:イギリスの詩人

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

沖縄の宿「ハンモック。」のつよし君が姓名判断もバッチリしてくれて、めでたく息子の名前が決まり
ました。

「一心(いっしん)」

皆様、これからも家族共々宜しくお願い致します。


=====================================

クスコから先ずはナスカを目指した。あの「ナスカの地上絵」を見る為だ。先ずは歩いて現場に向かう
。物見やぐらが建っていてその上から見てみるが、絵が大き過ぎて余り良く分からない。次はセスナに
乗って空から地上絵を眺めた。これだ。ハチドリや猿、宇宙人なんていうのもあった。あんなに巨大な
絵を正確に書くなんて、一体誰の仕業なんだろうか。その絵を見る為には空を飛ぶしか無い。一体誰の
為に書いていたのか。

ナスカの地上絵の研究に一生を費やしたマリア・ライヒェというドイツ人の女性が居たそうだ。彼女の
家が博物館になっていた。ナスカの地上絵がある辺りは、周りには何も無い、砂漠の様な処だった。そ
んな場所で一生を過ごす彼女の決意は並大抵のものでは無い。ボリビアのソラタ近く、標高4000m
の湖で出逢ったオランダ人のマリアのことを思い出した。

砂丘の中にオアシスがある町イカ、ペルーの首都リマで数日を過ごして、そこからバスに乗って一気に
ブエノスアイレスに向かった。

アルゼンチンは1ペソ=1ドルの兌換制度が崩壊して、1ドルが3.6ペソになっていた。ということ
は、ドルを持っている旅人にとっては物価が4分の一ということになる。皮製の豪華なリクライニング
シートバスでパタゴニアに向かった。

先ずはプンタトンボというマゼラン・ペンギンの生息地を訪ねた。丁度産卵時期で、卵を温めるペンギ
ンの姿が可愛いかった。今度はクジラを見に、バルデス半島に向かった。そのバスの中で後ろから日本
語が聞こえた。こんな処までクジラを見に行く物好き日本人旅行者が他にも居るのか。とちょっと会話
に耳を傾けて、「ムムム?」と思った。

もしや、会話の主は一年以上前にアフリカのジンバブエ、ビクトリアの滝で出逢った中西大輔さんでは
無かろうか。目的地に着き話しかけるとやっぱりそうだった。

初めて出逢った時、ジンバブエのスーパーの外で自転車に乗った大輔さんの周りにはアフリカ人の人だ
かりが出来ていた。自転車には大きなサイドバッグが前後左右に四つ付いていて、いろんな国のワッペ
ンが付いていた。人目で、自転車で世界を旅している人だと分かる。皆、興味深々だ。

僕達は同じ宿だったので、僕も興味深々、その晩は旅の話を聞いた。5年間で100カ国を回ることを
目標に旅していて、その時点で確か3年間、50カ国近くを旅していた。「アフリカでは警察署が結構
泊めさせてくれるんだよ。」と言っていたのが印象的で、その生命力に圧倒されたし、そんなスケール
で旅をする人に初めて出逢い、衝撃を受けた。

まさかその大輔さんにこんな処で再会するなんて。大輔さんは最初僕のことを思いだせず、「あ、そう
言えば。」と段々とジンバブエの宿が一晩だけ一緒だったことを思い出してくれた。

それから2日間、僕達3人はクジラの見える半島で一緒に過ごした。3人で遠く海を眺めたことは覚え
ているが、果たしてクジラを見たかが思い出せない。遠く尻尾が出ているのを見たような見ない様な。
それよりも覚えているのは、大輔さんが小麦粉でパンケーキをお昼のお弁当として作ってくれたことだ
。長旅が続くと、そんな風にして自分でお弁当も手際良く作ってしまうものなんだと感心した。

大輔さんの旅は、5年間で100カ国から、7年間で120カ国の旅にスケールアップされていた。そ
して、逢いたい人リストを持っていて、アルゼンチンではマラドーナが書かれていた。大輔さんの日本
の旗にサインさせて貰った。「いつまでも冒険家であり続けて下さい。」とちょっと控えめに小さく書
かせて頂いた。

こういう思わぬ再会があると、益々旅が楽しくなる。そして、大輔さんの様な壮大なスケールで旅をす
る男に出逢うと勇気が湧いてくる。大輔さんと別れて、僕は更に南下して氷河を目指した。

(因みに中西大輔さんは今も旅を続けています。今日、サイトを見てビックリしました。現在はエチオ
ピアに居る様です。)
http://www.daisukebike.be/jp/index.html

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2008-02-13

世界放浪の旅、クスコ(本出版に向けて・その28)

世界放浪の旅、クスコ(本出版に向けて・その28)
「人にされたいと思うようなことを人にすべきだ。」
新約聖書

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

いやー、これ、出来てるかなー。
日々、こうありたいものです。

この日めくりカレンダーのメッセージ、いつもタイミングが絶妙です。
さっ、明日は何でしょうか。

====================================

クスコには暫く滞在した。日本人宿に遊びに行って、手塚治虫の「ブッタ」を読みふけったり、マーケ
ットには良くセビーチェ(ラテン風の刺身。マリネ風でチリの代表的料理らしい。)を食べに行った。


クスコ近郊にはインカの遺跡がいたる所にあったので、時には遺跡に足を運んだ。ラパスで出逢ったフ
ェルナンドさんに勧められたオリャンタイタンボにも行った。インカ最後の皇帝が最後に立て籠もった
ところなのだそうだ。

インカの遺跡はどれも、巨石が精巧なパズルの様に組んである。石の隙間には紙も入らないほどの精巧
さだ。そんな石垣がクスコの街中にもあったが、オリャンタイタンボの遺跡はそのどれをも上回るサイ
ズで、なんだか宇宙のデータを保存する巨大ハードディスクの様にも見えた。50トンを越す巨石6個
を300メートル以上ある高台にどうやって運んで、どうやってあんなに精巧に巨石同士を組み合わせ
ることが出来たのか。人類の最先端技術を駆使しても難しい筈の遺跡を目の前にすると、人間は一体地
球の歴史のどれだけを理解しているのだろうと感じてしまう。

そして、マチュピチュ同様にオリャンタイタンボにも男の顔があった。崖の中腹に見える男の顔は、イ
ンカ神話によるクスコ王国の初代王様と言われるマンコ・カパックだと言われていた。

インカ文明では自然の中に神が宿っていて、それが時に人の姿になったり、動物になって現れると信じ
ていることが、ボリビアの湖でみたコスミックガーディアンに始まり、マチュピチュ、オリャンタイタ
ンボを訪れて、その姿を見ることで納得出来た。そしてそれは森羅万象に八百万の神が宿ると考える日
本古来の風習と似ている。そして太陽神を崇めることも共通している。インカ文明に対する興味は尽き
なかった。

因みにインカ帝国はクスコをプーマの形で都市計画していて、マチュピチュ遺跡をコンドルの形に都市
計画していたらしい。

一通りインカの遺跡を訪ね終えて、これからどうしようか考えていた。夏至にフェルナンドさんの処に
戻るにしても未だ時間があった。北上してアマゾンを目指してみようか。そんなことを考えていた時、
クスコのバーで日本人男性と南アフリカ人女性のカップルに出逢った。彼らはニューヨークで知り合っ
て、南アフリカに住んでいるカップルで、12月4日の南アフリカでの皆既日食に合わせて行われるレ
イブに参加するんだと言っていた。

「そうだ。アフリカでもう一度皆既日食があるんだった。」
そのことは知っていたが、南米の魅力にはまりアフリカのことを忘れていた。そして、彼等に逢った途
端に急にアフリカが懐かしくなり、
「僕ももう一度日食を見に南アフリカ行こう。」
と彼等に言っていた。今思えば、これからどうしようか迷っていた所に、そのカップルが道案内として
登場してくれた感じがする。

ペルー北部のアマゾン、エクアドル、コロンビアにも行ってみたかった。ボリビアに戻ってフェルナン
ドさんにもう一度逢いたかった。でもそれ以上に、このタイミングでもう一度アフリカに行きたい思い
が強かった。

アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスから南アフリカまでのチケットが安いことを聞きつけ、僕はア
ルゼンチンを目指すことにした。アフリカに行くまであと一ヶ月あった。

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2008-02-12

世界放浪の旅、念願のマチュピチュ(本出版に向けて・その27)

世界放浪の旅、念願のマチュピチュ(本出版に向けて・その27)
「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う。」
サミュエル・ウルマン アメリカの実業家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

「一生青春」。そんな人生にしたいですねー。

「青春、それは、触れ合いの心、幸せの、青い春。」

これ、懐かしくないですか?


====================================

マチュピチュは僕にとって、旅の大事な目的地の一つだった。何時マチュピチュのことを知ったのか、
どうしてそんなに行きたかったのかは分からない。いや、違った。チェコに仕事で住んでいた時に逢っ
た道売りのチェコ人に貰った名刺だ。彼はカメラマンで、満月の夜にマチュピチュに登って最高だった
という話を聞いて名刺を貰うと、正に満月の夜のマチュピチュに彼がたたずむ写真が載っていた。

僕は当時サラリーマンで、ドレッドヘアーの彼の自由な生き方が羨ましく思えた。そして思った。「旅
に出たい。旅に出て、彼みたいに満月の夜にマチュピチュに登ってみたい。」と。

当ての無い放浪の旅を始めて2年が過ぎる頃、僕は念願のマチュピチュを目指した。

マチュピチュは標高2300m弱の山の頂上にあり、僕達はその麓の町、アグアカリエンテスに宿をと
った。“アグア・カリエンテス”とはスペイン語で「熱い水」。つまり温泉と言う名前の街だ。

そこから1000m程、切り立った山を登ってマチュピチュに向かう。先ず僕達はプテゥクシという小
判が盛り上がって出来たような形の山を一緒に暫く眺めた。その山はマチュピチュがある山の真正面に
あって、“Putucusi”とはケチュア語で「幸せの山」という意味だそうだ。プテゥクシは日本語の「美
しい」にも似ている。そんな不思議な山を見つめながら僕は一緒に登った彼にそんな話をした。

プテゥクシを暫く眺めた後、僕達はいよいよマチュピチュ遺跡を歩き始めた。今まで幾つもの山を彼と
一緒に登ってきたが、何故かその時は別々にマチュピチュ遺跡の中を歩き回った。彼は脇目も振らずに
マチュピチュ遺跡奥の一番高い場所、ワイナピチュ(日本語では“若い山”)の山頂を目指して行った
。僕は念願のマチュピチュ遺跡を素通りすることが出来ずに、ゲートから近い順にゆっくりと遺跡の各
部屋を見ながら回った。何しろ、マチュピチュ遺跡は巨大で、見る処がやたらとある。

暫く歩き回った後、僕もワイナピチュの山頂を目指した。相当に急な階段を上がって行く。アメリカ人
の彼が丁度上から降りて来た。「上はどうだった?」「とんでもなく幻想的だったよ。崖の下を眺めて
たら、グルッと虹が円を描いてるんだよ。」「本当に?」僕はその後、プテゥクシの頂上から崖の下を
眺める。大きく蛇行した川が遥か崖の下に見える。残念ながら虹は見えなかった。僕も彼と一緒に直ぐ
に頂上を目指さなかったことを後悔した。「見たかったなー。虹。」念願のマチュピチュに来て、嬉し
かったが、そんな幻想的な虹を仲間と見る機会を逃した自分がちょっと腹立たしかった。

彼は次の日マチュピチュを出発して、アメリカへの帰路に就いた。確かお姉さんの結婚式だった気がす
る。彼と一緒に旅が続いたら、そのまま北上して一緒にアマゾンにでも行っていたかもしれない。直感
が鋭く、冒険心溢れる気持ち良い旅仲間だった。それにしても、やっぱり彼の名前は思い出せない。

次の日僕は一人部屋を求めて宿を変えた。その宿に入ると、不思議なポスターが目に留まった。それは
人の横顔だった。でも良く見るとそれはマチュピチュの写真を横にしたものだった。が、鮮明に人の横
顔が見える。僕は宿の女性に、「これはCGで作ったの?」と
聞くと、「いや、本物のマチュピチュに朝日が当たった写真を横にしただけよ。」と言われて驚いた。


今、インターネットでその写真を探してみた。正直、CGで修正してある様な気がするが、確かにマチュ
ピチュはある角度からみると人の横顔に見える。

僕はその朝日に浮かぶ横顔を見る為にもう一度マチュピチュに登った。マチュピチュは世界遺産で、入
場料は20ドルだった。日本人の感覚では大したこと無い金額だが、南米を暫く放浪した旅人にとって
は高い入場料だった。僕はマチュピチュはもう一度見たいけど、入場料はもう一度払いたく無かった。
そして、マチュピチュに向かう山道をちょっとそれると、かなり険しい獣道を歩いて、遺跡に忍び込め
ることを発見してしまった。それは明らかに誰かが常に使っている秘密の道の様だった。僕は服を泥だ
らけにして遺跡に侵入した。

世界遺産に侵入するなんて、もうこれは大変なことで、でも僕はなんと結局3回もその道を使ってマチ
ュピチュに侵入した訳で、そんなことを今書くのも恥ずかしいけど、この場を借りてペルー政府にお詫
び申し上げる次第だ。

でも結局、あのポスターで見たようなはっきりとした横顔を見ることは出来なかった。

僕はマチュピチュの麓の町、アグアカリエンテスに結局1週間滞在して、毎日朝風呂に行った。そこに
は地元のおじいさん達も毎朝来ていて、日本と一緒でやっぱり皆朝風呂が好きなんだと分かり、なんだ
か微笑ましくなり、そんな朝風呂の後に秘密の獣道からマチュピチュに潜入した。

僕は結局計4回マチュピチュを訪れ、くまなく遺跡内を歩いた。そして常にワイナピチュの頂上に行っ
ては、眼下に虹を探した。アメリカ人の友達が見た虹を。でもやっぱり虹を見ることは無かった。そし
て4回目にワイナピチュの頂上に登った日は良く晴れた朝だった。初めて、遠くまで山を見渡すことが
出来た。すると、三方向に雪を頂いた6000m級の山がそびえているのが見えた。三つの雄大な山が創
る三角形の中心にマチュピチュがあることが分かった。正にマチュピチュは自然の要塞だった。

アグアカリエンテスからマチュピチュ遺跡までの山道も好きだった。結構急な石段を登って行く。気持
ちの良い山道だった。当時はマチュピチュ名物の観光バスのお客にグッパイしてチップを貰う「グッパ
イボーイ」が居て、インカの民族衣装を来た子供が山道を駆け下りて行くのに何度も出逢った。しかも
、蛇行した階段を使わずに、山の斜面を直滑降で駈け降りて行く。驚いた。膝を痛めないかと心配にな
る程のスピードだった。

月夜のマチュピチュには行く機会は無かったが、僕は満足してクスコに向かった。

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2008-02-11

お七夜

お七夜
「想像力は知識よりも重要である。」
アインシュタイン:アメリカの物理学者

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーより。

今日はお七夜と言って、赤ちゃんが産まれた7日目の夜(今晩)名前を決めるのが通例だそうです。

今晩、考えてみようと思います。

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2008-02-10

中国を歩くポールと木乃実さんのメッセージビデオ

中国を歩くポールと木乃実さんのメッセージビデオ
「4万5000キロ 地球のために」
http://jp.youtube.com/watch?v=hikdHGLQxyE 

是非観てみて下さい。

それにしても、二人の編集能力はプロ並みになってきてますね。
歩きながらこれを創るって凄いです。

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世界放浪の旅、ボリビアからペルーへ。(本出版に向けて・その26)=?ISO-2022-JP?B??=

世界放浪の旅、ボリビアからペルーへ。(本出版に向けて・その26)=?ISO-2022-JP?B??=
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る。」
高村光太郎:彫刻家、詩人

今日の言葉。

我が家の日めくりカレンダーから。

そんなこと言ってみたいっす。

=====================================


その後首都ラバスに行き、いよいよフェルナンドさんを訪ねることになった。

フェルナンドさんは英語は出来ず、スペイン語で会話した。今思い出すと、あの頃は片言だがなんとか
話が出来る程度になっていた訳で、電話で彼と待ち合わせの約束をした。

彼は週一回、ラバス市内の小学校の中庭で子供達に少林寺拳法を教えていた。僕はその小学校に逢いに
行った。フェルナンドさんに挨拶をした。思ったよりも若い人で、30代後半程。物腰柔らかな人だっ
た。フェルナンドさんは中国の少林寺で修行を積んだ数少ない外国人の一人だそうで、年に一度は少林
寺に足を運ぶと言っていた。暫く稽古を見学する。小学校低学年位から、高校生位までのボリビアの子
供達が棒なんかを使いながら少林寺をしている姿は意外だった。子供達の表情は真剣だ。女の子も居る

稽古が終わり、フェルナンドさんと体育館のベンチに座って話しをした。片言のスペイン語と筆談だっ
た。僕は失われた言語、「プッキーニ」について知りたいと伝えた。

フェルナンドさんはこう教えてくれた。

「僕達人間は、僕達が思っている以上、うんと長い間この地球上に住んでいる。そして僕達は第9世代
の人間なんだ。この地域の先住民、ケチュア族やアイマラ族は4−5万年前からこの地域に住んでいる
。それでも彼らも第9世代の人間なんだ。

そして第一世代の人間が使っていた言葉が“プッキーニ”なんだ。プッキーニは草木や宇宙ともコミュ
ニケーション可能な言語で、そのプッキーニは現代では「一糸相伝」で一人の人間だけに口伝で伝わっ
ている。それを僕はお父さんから受け継いだんだ。僕はそれを自分の子供、或いは然るべき人に伝えて
行くんだ。」

フェルナドさんが筆談を交えて教えてくれている間に雨が激しく降ってきた。

「僕は本当は次の用事に行かなきゃならないのだけど、宇宙は貴方ともっと会話しなさいって言ってい
る様だね。」と笑いながら言った。

僕はもっとプッキーニのことを聞きたかったが、僕のスペイン語ではそれ以上は難しかったし、その日
はそれでもう十分な気がした。

フェルナンドさんはテレビ番組で歴史を教えているそうで、チャンネルと放映時間を教えて貰ったが、
残念ながらその番組を見る機会は無かった。

そして、ここは行った方が良いと教えてくれた処は、ペルーにある、オリャンタイタンボという遺跡だ
った。

雨が小降りになると、フェルナンドさんは足早に去っていった。

僕はその後、又少林寺拳法の稽古の日に2度程、小学校に足を運んだ。するとフェルナンドさんが、今
度の春分の日(南半球なので、2002年9月23日)に2泊3日の春分の祈りツアーをするけど、良
かったら参加しないかと誘ってくれた。僕は一つ返事で参加を決めた。

春分の日の前日、夕方に集合場所に行くと合計30人程が集まっていた。これは後から分かったことだ
が、ラパスの人も居たがコチャバンバ等、結構離れた処からも集まっていた。メキシコから来たインデ
ィアンみたいな背の高いおじさんも居た。アジア人は僕一人。どんな内容なのか、そこに集まっている
人達は何のメンバーなのか、良く分からずに参加していた。女性が大半を占めていた。

その夜はティワナク遺跡の近くの小学校で泊まった。僕は星空を眺めながら、中庭に寝袋を敷いて寝た
。ティワナク遺跡はチチカカ湖の近くにある、インカ文明の前にあったとされるティワナク文明の遺跡
だ。

春分の日の朝、夜明け前に小学校を出発。ティワナク遺跡に行った。そこにはインディオの御爺さんが
待っていて、朝日が昇るのと共に、コカの葉を燃やして春分の日の祈りの儀式が始まった。御爺さんと
フェルナンドさんがお祈りをする。

お祈りが終わり、僕達は春分の朝日に向かって手の平をかざした。ソラタのマリアがやっていたのと同
じだった。

意外にあっさりと儀式は終わった。内心、「なんだ、これで終わっちゃうの?」という感じだった。

その後、チチカカ湖畔に移動して、その日はそこでキャンプをした。焚き火を囲んで話をする。フェル
ナンドさんはいつも、歴史的な解説そしてそれ以外にも大事なことを沢山教えてくれている様なのだが
、僕には正直、ほぼ何も理解出来なかった。「あれ下さい。今日、宿空いていますか?」程度のスペイ
ン語で僕は結構満足していたが、やっぱりちょっと複雑な話は思った以上に理解出来ず無念だったが、
そのメンバーと居ると不思議と気持ちは穏やかで、「今はこんな感じの話なのかな。」と雰囲気が分か
るだけで満足だった。

次の日の朝、チチカカ湖で洗礼の儀式を皆で行った。一人一人、順番にチチカカ湖の水で頭を清める。
終わった人が次の人の頭に湖の水をかけてあげる。そして、自分の気に入った石を拾ってその人にあげ
る。その後、フェルナンドさんからも小さな石を貰う。それだけの儀式だったけど、気持ちが良かった

その後、古い教会を訪ねた。その教会の奥には古い木の十字架があった。その部屋は普段入れない部屋
でその十字架は2600年程前に、南米にイエス・キリストの様な人物がいて(名前を忘れてしまった
。)その人が背負っていた十字架だそうだった。その時はメンバーの一人が僕に英語で説明してくれた
。縦が1m位ある十字架で、装飾の跡が見えた。

2泊3日のツアーはあっという間に終わった。本当に不思議だったのは、初めて出逢ったのに、帰る頃
にはそのメンバーと居るのがとても心地良くなっていたことだった。

フェルナンドさんが率いるそのグループは「コスミコ・ビジョン・アンディーノ」という名前だった。
日本語で言えば「アンデスの宇宙洞察力(グループ)」となるのだろうか。僕は旅が終わってから、あ
のグループが、マリアが言っていたアンデスの霊的な人達の集まりだったんじゃないかと気付き始めた
。今思うと勘が鈍いが、その人達は余りにも「普通」の人達で、僕の想像するシャーマンや超能力者の
イメージとは違っていたので春分の祈りをする歴史ツアー位に思っていた。

チチカカ湖で貰った二つの石は大事にリュックにしまって、その後の旅を共にした。

春分の祈りの旅に参加した後、僕はチチカカ湖の太陽の島に行った。“Isla del sol”:太陽の島は1
日あれば十分に歩き回れる大きさだったが、僕は2泊してゆっくりと島を歩いた。島からは湖の向こう
にアンデス山脈が見えた。ついこの間山頂に登ったポトシ山も見える。晴れわたった昼下がり、チチカ
カ湖の色はこれ以上無い位に綺麗な青だった。

水は相当に冷たかったが、チチカカ湖で泳いだ。インドのガンジス川で沐浴をして以来、川や湖では泳
ぐことが多くなった。しびれる位に冷たい水だったけど、良く晴れていたので湖から上がると体がポカ
ポカと気持ち良かった。

僕は島を歩き回りながら考えていた。これからどうしよう。ソラタでマリアに逢って以来、今までに無
い不思議な出逢いが続いた。フェルナンドさんに弟子入りしてプッキーニのことをもっと教えてもらお
うか。真剣にそのことを考えていた。でも、首都ラバスにそんなに長いこと滞在して、時間を持て余さ
ないだろうか。フェルナンドさんはボリビアのあちこちに行って少林寺や太極拳の指導をしていて、週
の何日かしかラバスには居ない。

あれこれと思い悩み、僕は結論を出した。チチカカ湖から国境を越えてペルーに入り、念願のマチュピ
チュ遺跡に行き、夏至の日(南半球だから12月22日)の祈りに参加する為にまたボリビアに戻って
来ようと。

コパカバーナという街でペルーに行く前に市場の食堂で魚を食べていると、旅人に話しかけられた。彼
はユダヤ系のアメリカ人だった。今こうして当時を思い出して書いているが、直ぐに名前を思い出す人
と、思いだせない人がいる。彼とはペルーでその後再三、トレッキングを共にしたのに、名前が思い出
せない。

彼と意気投合して、先ずはコルカ渓谷を一緒に歩いた。コルカ渓谷は世界最深の渓谷と言われていて、
谷底までは2000m以上ある。確かに圧巻だった。コンドルを初めて見た。渓谷の上昇気流に乗って
優雅に円を描いて飛んでいた。

そしてその渓谷の向こう側に滝を見に行く2泊3日のトレッキングに彼と二人で、ガイド無しで出掛け
た。彼はNBA(アメリカのプロバスケットリーグ)の選手になりかけたことがあるそうで、体力があった
。僕もボリビアで体を大分慣らして来たつもりだったが、彼のペースに着いて行くのに必死だった。2
000mの大渓谷はなかなかハードだった。

そして「地球のへそ」と言われるクスコに到着。僕達は又、一緒にトレッキングに出掛けた。今度はア
ウサンガテという霊峰の麓を歩く5日間のコースで、馬とガイド付きだった。クスコで頼むと高かった
ので、僕達はアウサンガテの麓の村まで自力で行き、村人にガイドをお願いした。

最初の3日間は霧が出ていて、殆ど景色を楽しむことが無く、山がどんな姿をしているのか分からなか
った。そして4日目、標高5000m近くでキャンプをした。午後2時頃にはキャンプ地に到着した。
すると見る見る内に青空が広がり始めた。雲が切れて突然、壮大な風景が眼前に現れた。アウサンガテ
の山頂も見えたが、アウサンガテの直ぐ隣の6000m級の山が「ドーーン!」と手の届きそうな位置に
聳え立っている。まさかこんなに近くにもう一つの山があるとは知らなかったので、大層驚いた。丸3
日間、景色を楽しんでいなかっただけに興奮も倍増した。

アメリカ人の彼は高校の頃レスリング部に居て、自分よりうんとデカイ相手を打ちのめした話を興奮し
て話してくれた。雄大なアンデスの山をバックに、派手なジェスチャー付きで話してくれた彼の姿を思
い出す。いやー、名前は未だ出てこない。

5日間の半分以上は霧が出ていたが、最高のトレッキングだった。あそこまで雄大な景色は無い。その
時ばかりは、アウサンガテの麓の村に住んでトレッキングガイドをやろうかと半ば真剣に考えた程、素
晴らしい景色だった。そして、トレッキングの最後に大自然の中に温泉が湧いているのがまた、旅の疲
れを癒してくれて最高だった。

僕達は今度はいよいよ、マチュピチュに向かった。

写真:チチカカ湖、太陽の島(インターネットより抜粋)

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世界放浪の旅、ボリビア・6088m登山 (本出版に向けて・その25)

世界放浪の旅、ボリビア・6088m登山 (本出版に向けて・その25)
「平和は人類最高の理想である。」
ゲーテ:ドイツの詩人

我が家の日めくりカレンダーから。

赤ちゃんのウンチが黄土色になりました。未だ無臭です。
そんな話ですいません。

ドームハウスは平和です。

====================================

「アンデスは大事な場所で霊的な人達が集まって来ているの。チベット僧も来ているのよ。その人達は
普段はそれぞれ普通の仕事をしているんだけど、地震とか、飛行機が落ちるとか、大惨事が起きるのを
止める為に集まることがあるの。私もね、チチカカ湖で洗礼を受けてその仲間に加わっているのよ。

そして、その仲間に貴方の使命を自分で探しなさいって言われたの。私はお気に入りの湖に使命を探し
に行って、あの湖面に映るコスミックガーディアンのオキラヤムを発見したのよ。
そしたらね、今度はその湖の近くの遺跡に失われた言語“プッキーニ”の文字が書かれた石版があるは
ずだ。それを探して欲しい。って言われたの。プッキーニは宇宙や自然と会話することが出来る言語な
の。私に石版を探して欲しいって言った人はそのプッキーニを使うことが出来るのよ。」

「えーーっ?!」信じ難い話だけど、アンデスが大事な場所だと言うのは理解出来るし、世の中の大難
を小難に抑えるべく動いている人達が居るっていうのも感覚的に納得出来た。それにしても、その“プ
ッキーニ”って言語は何なんだろう。そして、それを実際に喋る人が居るなんて。

「そのプッキーニを話す人は何処に住んでいるんですか?」
「ラパスよ。」
「逢うことは出来ますか?」
「連絡先はこれよ。」
僕はフェルナンドさんの電話番号を頂いた。

トレッキング先の湖でのマリアとのひょんな出逢いから、僕はまるでSF小説か、レイダースの映画の世
界の中に飛び込んでしまった様な気がした。

その後、ソラタには10日間程滞在、その間に1週間のトレッキングに参加した。今度は標高3000
mから標高1000m迄の”Cloud Forest” 日本語で言うと雲の森、つまり、湿気の多い緑の深い森を
歩く7日間のツアー(Mapiri Trail)だった。オランダの男性とベルギーの女性と僕、そして親子のガ
イドの計5人。森の中、時には木の下を潜ったりするのでロバは無し。5人で7日分の食料を手分けし
て背負った。鰯の缶詰をごっそり持って行ったので、リュックはかなり重かった。

前回の氷河ツアーとは全く景色も難易度も違った。苔生した森の中を時には這いつくばって進む。靴は
泥道でグショグショになる。4日目には鰯の缶詰に辟易して、何でも良いから野菜が食べたくなった。
過酷だったけど景色は素晴らしく、旅仲間とも気が合い、楽しい旅だった。

ソラタに来て、僕はトレッキングの楽しさを知った。

ベルギーの女の子と、今度は標高6088mのワイナポトシという山の頂上を目指すことになった。ソ
ラタを離れる日が来た。もう一度マリアに逢いに行った。ワイナポトシの頂上を目指すんだよ。と報告
したら、「あそこは良くUFOが出る場所なのよ。」と教えてくれた。僕はひょっとしたらUFOが見られる
んじゃないかと、期待に胸を膨らませた。

標高4200mからガイドと3人でスタート。その日は標高5000mでテントを張った。夜7時頃か
ら仮眠を取って、深夜1時に登り始めて、朝日の時間には山頂に着く予定だった。星空が出ている。天
気は良かった。標高が高すぎたのか、僕は結局一睡も出来なかった。

深夜1時、山頂を目指してスタート。振り返ると、遠くに首都ラバスの街の光が見える。満天の星空。
UFOが見えるかもしれないと絶えず空を眺めながら歩いた。暫く登ると、新雪が積もっていた。ガイドの
歩くペースが落ちる。ガイドは40代後半辺りだったろうか。疲れている様に見えた。新雪を登るのは
体力を取られるらしい。また暫く歩き、ガイドが言った。「新雪で危ないから引き返そう。」僕達はガ
イドが疲れて帰りたいのだととっさに感じた。「いや、大丈夫、もう少し行って見よう。」そこからは
、またちょっと登っては、「帰ろう。」「いや、もうちょっと登ろう。」のやりとりを何度も繰り返し
た。

とうとうベルギーの女の子が泣き出した。「私はこの山を登り終えて家(ベルギー)に帰りたいの!」
ちょうどそのタイミングで下から別のグループが登ってきた。若いガイドに男性2名の計3名。結局彼
らと計6名で山頂を目指すことになった。

山頂までは長かった。新雪でなかなか進まないので、朝日はとっくに昇ってきたが、山頂まではまだま
だだった。朝日が綺麗だった。最後の100m程はほぼ垂直に思える氷の壁をピッケルとアイゼンで刺
しながら登って行く。標高が高く、息が苦しい。ピッケルを刺すだけでゼーゼーしてしまう。「1,2
,1,2!」と皆で声を上げて登る。きつかった。あんなにきつい思いをしたことは無かった。高校の
マラソン大会よりも断然きつかった。

そして山頂。お昼の12時になっていた。爽快。360度アンデスの山々を見渡す景色。登山家の気持
ちが分かる気がした。が、もう一度出来るかと言うと自身が無い位疲れた。特に新雪を降りる時は膝が
ガクガクになった。UFOは見れなかったが、最高の体験が出来た。

その後首都ラバスに行き、いよいよフェルナンドさんを訪ねることになった。

写真:ポトシ山 (Huayna Potosi, 6088m)

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2008-02-07

世界放浪の旅、ボリビア (本出版に向けて・その24)

世界放浪の旅、ボリビア (本出版に向けて・その24)
「金で信用を作ろうと思うな。信用で金を作ろうと考えよ。」
テミストクレス:ギリシアの政治家

今日の言葉

我が家の日めくりカレンダーから。

あれ、今日は中国の旧正月だったんですね。

ポールと木乃実さんは中国の旅を小休憩して香港に戻っているそうです。
どんななんだろ。香港の正月。

関係無いですが、我が家の赤ちゃんのマヤ歴は「黄色い磁気の星」でした。

======================================

マリアのお店ではアンデスに伝わる薬草を扱っていた。カナダの薬品会社がアンデスの薬草の特許を勝
手に申請してしまって、特許なんてものの存在すら知らないインディオがカナダの製薬会社の許可無し
には薬草を採ることが出来なくなっているという話を聞いた。

その後、マリアの家に連れて行ってもらった。お店の近くの小さな一軒屋だった。マリアは庭先で片手
の平を太陽にあてて、もう片方の手の平を耳、頭の天辺、おでこにゆっくりとあてながら、「こうやる
と太陽のエネルギーを体内に取り込むことが出来るのよ。」と教えてくれた。僕は今でも時々ふと思い
出し、それを実践している。

彼女の家の壁には、あの湖の写真が沢山張ってあった。

それは湖面に崖の壁面が映し出された上下対称の模様を湖グルッと一周分集めたものだった。トーテム
ポールの様な模様の連続で、動物の様にも、幾何学模様の様にも見える。彼女はその模様の意味を説き
証し、それを本にしている最中で、僕にその原稿を見せてくれた。

「湖面に映る模様には地球からのメッセージが込められているのよ。日本の湖に写る模様を写真で送っ
て欲しいわ。」と彼女が言った。その約束は果たせていないが、それ以来、僕は湖面に木や石が映る様
子を見付けると良く写真に収める。

マリアは今どうしているだろうか。
興味深い彼女の話は続いた。

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2008-02-06

あまりにも面白いので

あまりにも面白いので
あまりにも面白いので載せちゃいます。

アースデイ北海道の仲間、トシさんと直美ちゃんカップルが出産祝いに送ってくれたCGです。

トシさんはアースデイ北海道のキャラクターの「ババンバアース君」の産みの親です。

今日の我が家の日めくりカレンダーの言葉は

「逆境も考え方によっては素晴らしいもの」
シェイクスピア:イギリスの劇作家、詩人

でした。

赤ちゃんの最初のウンチは黒いんですね。びっくりしました。しかも無臭。
中村屋のあんまんのアンコみたいでした。

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世界放浪の旅、ボリビア (本出版に向けて・その23)

世界放浪の旅、ボリビア (本出版に向けて・その23)
ソラタは6千m級のアンデス山脈が連なる麓にある、標高2千m程の町で、トレッキングのメッカだった

僕は旅をしている間にガイドブックは持っていなかった。行き当たりばったりを楽しむというか、現地
の情報は現地で探すというか、そんな感じで旅をしていた。

ソラタの情報はボリビアの首都、ラバスの宿で見つけた。日本人が良く集まる宿、エル・ソラリオにあ
る情報ノートには、そこに泊まりに来た日本人旅行者が残してくれた南米のお勧め旅スポット情報がこ
と細かに書いてあった。

このノート、ガイドブックよりも情報が新鮮で、非常に役に立った。「他の人の為に記録すること」に
関しては、日本人を凌ぐ国民は余り居ないのでは無いだろうか。と思う位に、所謂「日本人宿」に置い
てある情報ノートの情報は痒い処に手が届く内容だった。

特に南米では良く日本人宿にお世話になった。泊まらなくても、情報ノートの他、日本の漫画や本を読
みに行ったり、そこに泊まっている旅人と情報交換をする為に足を運んだりした。

エル・ソラリオには長旅を続ける日本人が集まっていた。もう6年間、南米でトレッキングの旅を続け
ているなんていう人が居たり、アメリカ大陸を50ccのスクーターで縦断するという若者のスクータ
ーにはプラスチックの棒がハンドルの横に付いていて、南米では標高の高い山を登る時にスピードが出
なくなり、犬に追いかけられるから、その犬を追い払う為の棒だというのが微笑ましかった。

トレッキング天国の如く書かれたソラタは、そんな宿の情報ノートの中で見つけた気になる場所だった

早速ソラタで標高5千メートルの氷河を見に行く3泊4日のトレッキングツアーに参加した。メンバー
はオランダ人のカップルと、アメリカ人とガイドと僕の4人とロバ一匹。ロバの背中に荷物を積むので
手ぶらで行ける。

一泊目は標高3千5百m程でキャンプする。既に富士山より高い。星空が綺麗で、豊富に流れる川の水
は身が引き締まる冷たさだった。そして2泊目は標高4千2百m程。小さな湖の畔にテントを張った。
もちろん、僕達以外には誰も居ない。3日目。いよいよ標高5千mの氷河を目指す。3日も一緒に山を
登り続けると、初めて逢った人でも仲良くなる。

テントが一緒だったアメリカ人のジョーダンはインドのボンベイで映画制作の仕事をしていた。アメリ
カの「ハリウッド」に因んでインド映画を「ボリウッド映画」ということを教えて貰った。インドの映
画のメッカ、ボンベイの頭文字を取って着けた名前だそうで、ボリウッド事情を色々と聞きながら山を
登った。

標高5千mの山の斜面に氷河が広がり、その麓には湖があった。その湖を地元インディオの人達は神聖
な湖として崇めているとのことだった。氷河に無事到着して、もう一泊するために昨晩の湖の畔のキャ
ンプ地に夕方戻って来ると、僕達の他にテントを張っている人達が居た。近づいてみると、ガイドと西
洋人の初老の女性だった。

まさか初老の女性にそんな場所で出逢うことは誰も予想していなかったので、皆でその女性に話し掛け
た。すると彼女は、「私はこの湖の横にあるインカの遺跡を訪ねて来たのよ。そこには、失われた文明
の文字が刻んである石片が落ちている筈なの。」と言った。僕達は驚いた。なんだか映画に出てくる様
な話だ。

彼女は続けた。「この湖はね、とても神聖な湖なの。この湖には世界の歴史が刻まれているのよ。」と
湖の向こう岸の水面を指さした。

風が無く、水面は鏡の様になっていて、崖の模様が水面に映し出されている。そこに彼女は世界の歴史
が刻まれていると言う。皆、不思議がった。

「でもね、その歴史は第三の目じゃないと読み取れないの。そしてこの湖にはね、宇宙の守り神が住ん
でいるのよ。その姿は明日の朝に見えるわ。」
もう何が何だか分からない。僕達は挨拶をして、自分達のテントに戻った。

次の日の早朝、他の仲間は一足先にソラタに向かって山を降りて行った。僕は、彼女の言葉が気になっ
て、一人その湖に残った。

朝日がゆっくりと湖を照らし始めた。日が昇るに連れて、湖の対岸の右側から、ゆっくりと日が差し込
み、水面には崖の模様が映り、水際を境に上下対称の模様が現れた。

日が更に昇り、どんどんとその対称な模様が広がり始めると、信じられない光景が現れ始めた。確かに
、対岸の水面に、10m以上ある人が横たわっている姿が写り始めた。しかも、「なんとなく人っぽい
」では無く、どうみても人の姿。胸から首、アゴのあたりまで陽が指した時に、僕は彼女に言った。「
貴方が言っていた意味が分かりました。」「そうでしょ?」彼女は満足気にその「人」の姿をスケッチ
していた。

頭まではっきりと現れると、その人は西洋の騎士のヘルメットの様なものを被っている。「彼の名前は
オキラヤムと言って、コスミックガーデイアン(宇宙の守り神)なの。この湖に何万年も住んでいるの
よ。」

ガイドブックにも載らない小さな湖は、彼女曰く、とても神聖な湖だそうだ。これまたガイドブックに
も載らない、湖の横にあるインカの遺跡をその後彼女と歩き、僕もその「失われた文明の文字」が書か
れた石片を一緒に探したが、それは見つからず、僕は友達と合流する為に一足先に山を降りた。

彼女はソラタで薬草のお店を開いているマリアという女性で、オランダ出身の人だった。僕はソラタに
戻ると、後日マリアのお店を訪ねた。

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2008-02-05

産まれました!

産まれました!
本日午前、無事自宅にて男子誕生致しました。

穏やかな海を眼前に、穏やかな出産でした。

やりました!

応援ありがとうございます。

今日の我が家の日めくりカレンダーの言葉は

「自分の生命を打ち込むことのできる仕事を持っている者は幸福である。」
九条武子:大正時代の歌人

でした。

褌締めなおして、気合入れて行きます。
皆様、引き続き宜しくお願い致します。

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2008-02-04

世界放浪の旅、ブラジルからボリビアへ。(本出版に向けて・その22)

世界放浪の旅、ブラジルからボリビアへ。(本出版に向けて・その22)
「希望は強い勇気であり新たな意志である。」
ルター:ドイツの宗教改革者

我が家の今日の日めくりカレンダーから。

今日は立春。

出産間近です。


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イタカレからリオで一泊だけして、三千キロ近くを一気に旅してイグアスの滝にやって来た。8日間以
内にブラジルの国境を越えなければならず、僕が選んだ場所はイグアスの滝だった。イグアスの滝はブ
ラジルとアルゼンチンの国境沿いにある。

イグアスの滝は圧巻だった。アフリカのビクトリアの滝の様な豪快さは無かったが、やっぱり轟々と流
れ落ちる滝はずっと眺めていても飽きない。滝の渋きのお陰で虹が色んな処に出ている。

ブラジル側からの滝を満喫すると、国境を越えてアルゼンチン側からも滝を眺めた。イグアスの滝は幅
が4kmもあり、色んな角度から滝を見れる。「悪魔ののど笛」なんて名前のポイントもあり、木製の
遊歩道が滝の直ぐ近くまで延びている為、轟音と共に滝が流れ落ちる様子を間近に見ることが出来る。


確かに大迫力。だけど、歩道も何も無い、剥き出しのままのビクトリアの滝が懐かしかった。

アルゼンチンには2泊程して直ぐにブラジルに戻った。アルゼンチンは1ペソ=1ドルの兌換制度が崩
壊して、旅人にとってはとてもありがたい物価だった。とても美味しいアルゼンチンのワインがボトル
で1ドル。昼間から酔っ払ってしまった。

そんなアルゼンチンから直ぐにブラジルに戻って来たのは、ブラジルの大湿原「パンタナル」に行って
、そこからボリビアに抜ける為だった。

パンタナールでは4泊5日のツアーに参加した。皆でパンタナールの中にあるキャンプステーションに
寝泊りする。パンタナールは地球上に現存する最も大きな野生生態系の一つとして、ユネスコの世界遺
産・自然遺産リストに登録されていて、そのキャンプステーションには世界中の旅人が集まっていた。


大湿原の中にポツンと存在するキャンプステーションに日毎、世界から旅人が集まってくる。無国籍の
キャンプ場だった。僕はインドのお祭りクンバメラの時に滞在したレインボーキャンプや、アフリカの
日食のパーティーを思い出した。

朝日が何時も綺麗だった。朝もやの大湿原の彼方から真っ赤な朝日が昇る。鳥達の鳴き声があちこちか
ら聞こえた。

ピラニアを釣りに行ったり、ワニが遠くに見える池で泳いだり、歩いて動物を探しに行ったりしたが、
忘れられないのが乗馬だった。ガイドをしてくれたのはアマゾン出身の青年だった。馬で走っていると
、遠くにアリクイが見える。なんと、そのガイドは急にそのアリクイを追いかけ始めた。僕ともう一人
が咄嗟にガイドに付いて行く。馬が疾走する。以前何度か馬に乗ったことはあったが、振り落とされそ
うになった。奇声を上げてアリクイを追いかける。アリクイはそんなに早く走れないので直ぐに追いつ
いてしまったが、ちょっとした西部劇気分を味わった。

僕はパンタナールに滞在している間にチャンスがあれば乗馬をした。そして最後の日の夕方、僕の乗っ
た馬は数時間パンタナールを歩き回った後、キャンプ場に戻って全力疾走してくれた。生まれて初めて
味わう馬の全力疾走。遠くには赤い夕日が沈む。馬の体はしっとりと汗ばんでいる。僕はお尻をちょっ
と浮かせて体をビッタリと馬に近付ける。
「これだ。この感覚だ。」今迄何度かギャロッピングという「パカラン、パカラン」というのは味わっ
ていたが、その時のは、「ドドドドドドドドーッ。」という感じで、「これが馬に乗るってことなのか
。」と思った。

馬の息遣いが聴こえる。バイクが「何馬力」と言われる意味が分かる気がした。僕が乗っていた馬はバ
イクで言えばナナハン見たいな大きな馬で、その息遣いが体に伝わってくるのが心地良かった。キャン
プ場に戻る最後の1km程だったが、あの感覚が忘れられない。

パンタナールは流石、動物の楽園で、カピパラという巨大なビーバーの様な動物や、インコをはじめ無
数の鳥達なんかが居たが、一番凄かったのは夕方の蚊だった。そしてもう一つ。ダニだ。パンタナール
を歩き回った後、靴を脱ぐと、足の爪の間に黒いものが。ダニだった。何匹かは取れたが、結局シツコ
イのはパンタナールを離れた1週間後位まで僕の足の裏の皮の中に入り込んでいた。それを見つけた時
はゾッとした。動物の楽園は、勿論、虫の楽園でもあった。

パンタナールから国境を越えてボリビアに入った。ボリビアではオキナワという日本人居住区での運動
会を見に行ったり、ウユニ塩湖という一面真っ白く固まった塩で出来た湖に行ったり、世界最高地点の
都市と言われる、標高4千メートルの町、ポトシに行ったりと、観光を楽しむうちにあっという間にビ
ザの期間が残り僅かとなった。僕はブラジルの二の舞を踏まぬべく、オルーロという小さな街でビザの
延長手続きをしに行った。

僕はなんだか仰々しく、局長の部屋まで連れて行かれて、その局長に20ドル相当のビザ延長料を請求
されるままに支払った。

その1週間後、僕は首都ラパスに到着。そこで出逢った日本人の旅人と話をしているうちに、ビザの延
長料金なんて無いことが分かった。良く調べておけば良かったが、僕は上手く20ドルを騙し取られて
いた訳だ。僕は腹が立った。これは他の旅人の為にも、あの局長を懲らしめねば。

僕は日本とアメリカの二つのパスポートを持って旅をしていた。日本とアメリカの条件を比べると、大
体アメリカの方がビザ代金が若干安かったり、インドだとアメリカパスポートなら、なんと10年有効
のビザが取れたり、ブラジルでも5年有効(なのに僕は60日で国外退去にあったけど。勿論、5年連
続で滞在出来るビザでは無かった。)だったり、何かと優遇されていたのでアメリカのパスポートを使
うことが多かった。

南米ではずっとアメリカのパスポートを使っていたので、僕はアメリカ領事館に行き事情を説明すると
偉く混雑していたのに、その日のうちに領事がボリビアの移民局宛に手紙を書いてくれた。その対応の
早さに驚いた。

その手紙を移民局に持って行くと、その2日後には300キロ以上離れた町のあの局長が呼び出されて
いた。望んでいた状況ではあったものの、余りにスムーズに事が進み、やはり驚いた。僕と呼び出され
た局長は、移民局の偉い人の部屋で、並んで座ることになった。偉い人の横には記録係の女性が座って
いる。なんだか裁判みたいな光景だ。

結局、その局長は「そんな覚えは無い。」の一点張りだった。領収証をもらった訳でも無く、僕はそれ
に対しては何も反論しなかった。お互い顔を見合わせず、偉い人の方を向いたままだった。

次の日僕は偉い人に呼び出され、名目は何だったか忘れてしまったが、20ドルを返して貰った。あの
局長は職を追われたかもしれない。でも、黙っていることは出来なかったので仕方が無いと思った。

そんな一悶着を終えて、アンデス山脈の麓にある小さな街、ソラタに向かった。

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2008-02-02

必見の動画発見

必見の動画発見
「機会は鳥のようなものだ。飛び去らないうちに捕らえよ。」
シラー、ドイツの詩人、劇作家

我が家の日めくりカレンダーから、今日の言葉です。

えー、今日はとっても為になる動画を発見(というか教えて貰った)ので紹介します。

全部で20分の映像ですが、後半が特に面白いです。

資本主義のからくりというか。
が良く分かります。

http://ameblo.jp/eco-in-usa/
この方のブログの1月28日分か、

英語版はこちら
http://www.storyofstuff.com/

是非ご覧下さい。

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2008-02-01

世界放浪の旅、ブラジル北部の小さな村、イタカレ(本出版に向けて・その21)

世界放浪の旅、ブラジル北部の小さな村、イタカレ(本出版に向けて・その21)
「いちばん多忙な人間がいちばん多くの時間を持つ」
ビネ スイスの神学者

我が家の日めくりカレンダー、今日の言葉。

うーーん、今日はどうコメントすればいいのやら。
あんまり多忙なのもねぇ。と思います。

雪かき、薪割り、執筆。

多忙です。

=====================================


イタカレには小さなサーフショップが何件かあった。その中でも、看板も出さずにボード修理をしてい
るマルセロと仲良くなった。僕はマルセロから中古のボードを購入した。サルバドールで手に入れたボ
ードはマルセロに引き取ってもらった。マルセロのボードを使ってから、うんと波に乗り易くなった。
どっぶりと波乗りに浸かる日々が始まった。

マルセロの処には夕方暗くなると、村の若者が集まり、こんな波に乗った、あんな波を逃したと、波乗
り談義が始まる。ポルトガル語は難しかったが、耳に心地良くて、そんな会話を聞いているのが好きだ
った。マルセロの家の中には常に3−4枚の修理中の板が立て掛けてある。僕はふと思った。「サーフ
ボードは海に浮かぶ一番小さな船だ。ってことはマルセロの家は船の修理屋で、ここに集まる若者達は
皆船乗りなんだ。」マルセロの奥さん、ホッサナは何時も奥の方で家事をしながら皆の会話を聞いてい
る。ほのぼのした空間だった。

「クレオバトラの部屋」もすっかり気に入った。ベットの下に居た沢山の子犬は貰われて行き、2匹だ
けが残った。ネロとネタ。可愛かった。朝起きると、すぐ近くの浜に2匹を連れて散歩に行く。最初は
波を怖がっていたが、すぐに慣れた。

宿の近くには村唯一の魚市場がある。毎日、沢山の魚が上がってくる。でっかいカワハギ一匹が200
円位で買える。嬉しいことにブラジルは何処でも醤油が売っているし、イタカレにはスシマン(寿司職
人をそう言うらしい)が寿司も出すシーフードレストランをやっていたので粉わさびも手に入る。僕は
久しぶりにイタカレで刺身を満喫した。美味しかった。残りはバーベキューにする。

美味しい昼食を食べ終わり、チリリカに波乗りに行き、夕方になるとマルセロの家に行く。そんなイタ
カレでののんびりとした楽しい日々が過ぎていった。

夕方になると、路上ではいつもカポエラをやる若者で賑わっていた。カポエラは19世紀始めにアフリ
カからブラジルに連れて来られた奴隷達が、看守の目をごまかして踊りと見せかけて武術の練習をした
もので、音楽に合わせて、向かい合った二人が体を触れ合わず、廻し蹴りやハイキックを繰り出し合う
、ダンスと格闘技の混ざった様なものだった。

イタカレではこのカポエラがえらく盛んで、皆、相当に上手かった。今思えば果敢にチャレンジすべき
だったとも思うが、眺めるだけで十分だった。イタカレの男達は波乗り、カポエラ、ビーチサッカーの
どれかをやっている。皆スポーツマンだ。凄い人になると、全部こなす。因みにブラジルではサッカー
の次に盛んなスポーツは波乗りらしい。

そんなイタカレに滞在していた2002年6月、日本と韓国でサッカーのワールドカップが始まった。


マルセロの家で良く皆で観戦した。何時もは静かなホッサナが、「行け、行けー!」と声を張り上げて
いたのが可笑しかった。

日本がロシアに勝った試合は嬉しかった。夜中、一人で宿のラウンジで観戦した。試合が終わると、余
韻も無く直ぐに放送が終わった。地球の裏側の日本はさぞかし盛り上がっていることだろうと、その時
ばかりは日本に帰りたくなった。

ブラジルは快進撃を続けた。ブラジルがコスタリカに5−2で快勝した夜、イタカレの小さなバーで皆
狂喜乱舞。背の高いアフリカ系のブラジル人が「俺はブラジル人だ。俺はブラジル人だ。」と何度も言
っていたのが忘れられない。

そして、いよいよブラジルードイツの決勝戦の日、良く晴れた日曜日の朝だった。試合の前に村を散歩
していると、おじさんに話しかけられた。彼は
「ブラジル、ペンタカンビオン」と何度も言った。「ベンタカンピオン」の意味が分からなかった。

海沿いのバーの外にある小さなテレビに人が群がる。子供達はブラジルのスーパーヒーロー、ロナウド
を真似て、前髪だけカマボコみたいに残す、子連れ狼の大五郎みたいな不思議な髪形にしていた。

そしてブラジルがドイツを2−0で破り優勝。テレビの画面には「Penta Champion (ペンタカンピオン
)」の文字が。つまり、大会史上5回目の優勝だった。なるほど、朝方のおじさんはこのことを言ってい
たのだと分かった。イタカレはその後、勿論お祭り騒ぎになった。夜はどこからともなく巨大スピーカ
ーがセットされて、「フォホー」というブラジルのダンス音楽で皆盛り上がった。

波乗りの方は、マルセロにも教えて貰いながら、大分上達した。プロから安くで譲ってもらったボード
は、更に軽くて乗り易かったが、買って数日で、チリリカのデカ並みに真っ二つに折られた。ショック
だった。マルセロが見事に修理してくれた。

バスに30分程乗って行くと、更に大きな波が来るポイントがあり、そこにも度々出掛ける様になった
。チリリカより波はデカイが、安定していて乗り易かった。大きな波を掴まえて、パドリングの体勢か
ら素早く立ち上がり、波の斜面を「サーーーッ。」と滑り落ちる瞬間にアドレナリンが吹き出る。

もう僕はイタカレから離れられなくなっていた。「イタカレに住みたい。」旅に出て初めて、「住みた
い。」と思う場所が見付かった。イタカレは僕のイメージでは「ペンギン村」だった。ドクタースラン
プ・アラレちゃんの。ペンギン村みたいに、こじんまりとしているけど、たいそう面白い人達が集まっ
ている心地良い村だった。

そんなイタカレとの別れは突然やって来た。僕はビザの延長をしに、移民局のある隣町まで行った。そ
してパスポートを見せると、「貴方のビザ、切れていますよ。即、国を出て下さい。」と言われ、唖然
とした。

僕はベネズエラからブラジルに入る時に、90日有効のピザを取得した。そして入国する際に「貴方は
どの位ブラジルに滞在するつもりですか?」と聞かれ、それは単なる会話と思い、余り考えずに「2ヶ
月」と答えると、90日有効のビザのシールの上に、「60日」と書かれた添付用紙のようなものを貼
られた。結局はその60日が僕のビザ有効期間だったという訳で、僕はいきなり「不法滞在者」となっ
てしまった。

不法滞在日数分の罰金を払った後に、8日間以内に国外退去という仕打ちに僕はうろたえた。イタカレ
での夢の生活が突如消え去った。

マルセロや、宿のオーナーに突然の別れを告げてイタカレを後にした。ボードはマルセロに託した。バ
スがイタカレを去る。なんと、宿の愛犬、ジャスミンがずっとバスを追いかけて来た。ジャスミンはい
つも、チリリカで波乗りをしていると、浜で僕の帰りを待っていてくれて、本当に賢い相棒だった。さ
らばジャスミン、さらばイタカレ。

僕はブラジル北部から南部までバスで一気に走りぬけ、リオに一泊だけすると、イグアスの滝に向かっ
た。

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