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2008-01-31

世界放浪の旅、ブラジルで波乗り (本出版に向けて・その20)

世界放浪の旅、ブラジルで波乗り (本出版に向けて・その20)
「仕事が楽しみならば人生は極楽だ。苦しみならばそれは地獄だ。」
ゴーリキー ロシアの小説家、劇作家

今日のひめくりカレンダーの言葉。

楽しんで書いてます。

楽しんで頂けてますでしょうか。

波乗りしたいです。

ここ、ドームハウスでは今も波の音が聞こえてます。

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イタカレは波乗りのメッカだった。小さな町なのに、波乗りが出来るビーチが何個もあった。メインの
ビーチは「チリリカ」という名前だった。チリリカは何時も地元の上手いサーファーで賑わっていた。
僕はサーフィン初心者。せいぜいバリ島とカナリア諸島で何回かしか乗ったことが無いリゾートサーフ
ァーだった。サルバドールで買ったかなりボロい板でチリリカの波にチャレンジした。

先ずは波待ちのポジション取り。上手い人は何時も波が入る場所を先読みして「スッ」とベストポジシ
ョンに入る。上手い人は何本も乗れるが、下手だと1本も乗れない。暗黙のルールは、ベストボジショ
ンで波を取った人にその波が与えられて、後からその波に加わることは出来ない。これは波乗りの常識
だけど、僕はそんなことも良く知らなかった。

僕が波待ちをするポジションは、手前の端っこ。デカ波のおこぼれを貰う様な位置で、たいてい誰かが
既に波に乗っているから、ただ眺めていることしか出来ない。「そっか、最初はこんなもんなんだ。」
と波乗りの奥の深さを教えられる。

でも、そんなことで「奥が深い」なんて言うのは恥ずかしい程、波乗りは奥が「ずーーっと。」深かっ
た。

上手い人にくっついて波を追いかけてひたすらバドリングしていると、それだけでヘトヘト、波に乗る
体力なんて残っていない。一番に波を取ろうと前に出すぎて皆よりも随分沖に出てしまったり、初日は
波に乗るどころでは無かった。やっと乗れそうな波が来る。「やった!」気合を入れてパドリング。す
るとそれは既に誰かが乗っている波。「どけどけ。」と言われて、しまいには「お前はもっと端っこの
ビーチに行け。」なんて言われる始末。

チリリカの壁は厚かった。

言われた通り端っこのビーチに行くと、波は確かに小さい。女の子がブギボードなんかをしている。そ
こである程度昔の勘を取り戻すと、また懲りずにメインのビーチ、チリリカに挑む。今度は人の波に乗
らない様に注意しながら波を待つ。皆、それぞれにポジション取りをして沖を睨む。僕もちょっとフラ
フラしながらもボードにまたがり、沖を睨む。うん、これだけでかなり満足。そしてやっと、それなり
の波に乗る。
「快感。」

波乗りの虜になった。

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高尾山で何が起きているか

高尾山で何が起きているか
ここ数日、八王子市長選挙のことでグループメールで色々情報が回ってきていました。

生物多様性が驚く程豊富な高尾さんにトンネルを掘り、自動車専用道路を作ろうという計画があり、す
でに工事が始まっているそうです。

それを止めるべく、立ち上がった環境NGOリーダーの候補は落選、続投した市長さんは地元建設会社の社
長さんだそうです。

霊峰高尾山の現状、マエキタさんの文章が分かり易かったです。是非ご一読下さい。
先ずは現状を知ることからですね。

ミシュランで三ツ星の高尾山に登ろう
http://allabout.co.jp/family/ecolife/closeup/CU20080129A/index.htm

マエキタさんのブログ
http://www.ecocolo.com/starblog/maekita/

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2008-01-30

世界放浪の旅、アマゾン河を下る。(本出版に向けて・その20)

世界放浪の旅、アマゾン河を下る。(本出版に向けて・その20)
「約束は必ず守りたい。人間が約束を守らなくなると社会生活が出来なくなるからだ。」

菊池寛 大正、昭和期の小説家

今日のひめくりカレンダーから。

おっと、今日も耳が痛い言葉が。。この日めくりカレンダー、あなどれないです。

因みに、今日登場するブラジルのサンドロのブログがあります。

http://www.sandrogomes.blogspot.com/

是非。

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ベネズエラから国境を越えてブラジルに入り。サンドロと一緒に最初に向かった街は、マナウスだった
。マナウスはアマゾナス州の州都。その名の通り、アマゾンの真っ只中にある大都市だった。サンドロ
が気を使って安い部屋を探してくれた様だが、僕達が泊まった宿は、インドでもなかなか泊まれない、
ほぼ監獄と変わらない様な、小さな窓が一つしか無い、打ちっぱなしのコンクリート壁でペラペラマッ
トのベットが置いてあるだけの部屋だった。

その夜、サンドロと飲みに行った場所は巨大なストリップバーだった。正にアマゾンの女性アマゾネス
がステージの上で踊っているのを、男達が奇声を上げて、ステージに乗り出す勢いで見ている。流石ア
マゾン。ちょっと野蛮な雰囲気だった。僕達は適当な処で切り上げて、宿に帰った。僕が最初に辿り着
いたブラジルの街、マナウスは結構危険な町だったに違いない。サンドロは常に周囲に気を配って歩い
ていた。彼が居てくれたお陰で、次の日難なくこの街を出ることが出来た。

僕達はフェリーでアマゾン河を4日間下って、海沿いの街べレムに向かった。その距離1200キロ程
。アマゾン河下り。なんと良い響き。「アマゾン河下り」なんて、冒険の代名詞みたいなもんだ。でも
、僕達が下ったのはアマゾンの本流で、川幅は5−600mはあって、余り冒険気分は無かった。その
船は観光船では無く、内陸のマナウスと海沿いの街を繋ぐ定期船だった。ブラジル人が殆どだが、旅人
も数人乗っている。チェスのボードを使って、相手の駒を挟んで取るゲームが流行り、船のあちこちで
皆対戦していた。チェスよりシンプル。楽しかった。僕も4日間の間に結構上手くなった。ゲームをし
たり、河をボーっと眺めたりして1日は過ぎて行く。のんびりした旅だった。途中、アマゾン本流と支
流がぶつかる場所があり、二種類の河の色が混じりあわずに暫く帯状にくっきりと分かれていた。

又、驚いたことに、アマゾンに住む子供達が木をくり抜いただけのシンプルなカヌーに乗って、果物を
売りに来た。果物を売り終わる頃には軽く20km以上は河を下っている。その後、彼らが本流の流れに
逆らって、今来た道をひたすら漕いで帰って行く苦労を考えると、「良くやるなー。」と感心してしま
う。たかが果物の売上げでも、彼らにとっては唯一の現金収入の場なのだろう。

アマゾン河のあちこちから支流が見える。何時の日か改めて、支流に入ってアマゾンにどっぷり浸かる
旅をしに戻って来ようと思った。

べレムからサルバドールまで一気にバスで移動して、無事ステファンとキャロルとの待ち合わせに間に
合った。サルバドールで4人で過ごした数日間は楽しく過ぎた。4人の間で語尾に「チェ」を付ける喋
り方が流行った。サンドロ曰く、南米のカウボーイ、「ガウチョ」は話す時にいつも語尾に「チェ」を
付けるそうで、キューバ革命の立役者チェ・ゲバラの「チェ」はそこから来ているらしい。「チェ」と
は「ねぇ君。」みたいな意味らしい。

ステファンは筋萎縮症で、ニューオリンズで初めて逢った時は歩いていたが、ブラジルではほぼずっと
、車椅子に乗っていた。目の前に海が広がるモーテルに泊まって大西洋を満喫した。そこの宿の名前は
「JAMBO」。スワヒリ語で「こんにちは。」という意味だそうだ。良い宿だった。

ステファンとキャロルといると笑いが絶えないが、サンドロが加わり4人で居ると更に笑いが絶えなか
った。やがてステファンとキャロルがリオに出発して、僕達はサルバドールに残った。

サンドロとは「サルバドールまで来ればパントマイムで残りの旅費は稼げる。サルバドールまで一緒に
旅をしよう。」という約束があった。

サンドロは、久しぶりにサルバドールでパントマイムを始めた。彼のパントマイムのスタイルは、全身
銀色に塗り、銅像の様に街角にじっと立っていて、お金をくれた人に今日の運勢が書かれた紙をそっと
手渡すというものだった。初日はまぁまぁの結果だったようだ。

サンドロの本名はアレックス・サンドロ・ゴメス・センジックという、なんとも長い名前だ。アレック
スが名前で、サンドロがミドルネーム、ゴメスがお母さんの旧姓で、センジックが苗字。こんなに長い
名前の人には初めて逢った。サンドロは兎に角人と話すのが大好きだった。アマゾン河を下る船の上で
も、バスの中でも、ホテルの従業員にも、常に長話。ポルトガル語は殆ど理解出来ないが、ブラジルの
政治の話なんかを話していることが多かった様だ。

サンドロに出逢ったお陰で初めてのブラジルの数日間を楽しく、安全に旅することが出来た。サンドロ
は一人で力強く生きるアーティストだった。ベネズエラの海岸で強盗に出逢い心を痛めていたが、いつ
も陽気に振舞っていた。創造力と独創性があれば、人間何処ででも生きていけることを彼は教えてくれ
た。

サンドロは今もパントマイムをやりながら、ブラジルのあちこちを旅している様だ。今では1歳の子供
も居るらしい。

僕はその数日後にサルバドールから一人イタカレに向かった。

イタカレのことはアリゾナに住む友達のボブにメールで教えて貰った。何の気なしに、2−3日滞在す
るつもりで訪れた。そして、到着したその日に僕はすっかりイタカレが気に入ってしまい、結局2ヶ月
以上滞在することになった。

イタカレは波乗りが出来ると聞いていたので、サルバドールで中古のサーフボードを買ってからイタカ
レに向かった。

イタカレに着き、直ぐに良い宿が見付かった。オーナーはスペインの女性で、「この部屋はね、“クレ
オパトラの部屋”って名前なの。普段はちょっと高いんだけど、オフシーズンだから負けとくわよ。」
と言って庭にポツンと一軒だけ建っている離れを貸してくれた。

その離れは6畳一間プラス洗面所に小さいテラスが付いたかわいい部屋だった。ベットには蚊帳が釣っ
てあって、確かにそれがクレオバトラの部屋っぽいイメージを醸し出している。その部屋に落ち着き、
なんだか長いこと一人になっていなかったことに気が付いた。なんとも快適な離れだった。その宿には
ジャスミンという名前の黒くて賢そうな犬が居て、御腹に赤ちゃんが居た。

次の日起きると、雨がシトシト降っていて気持ち良かった。外に出てみるとジャスミンが子供を産んで
いた。7匹位の生まれたばかりの子犬達。ジャスミンは何を思ったか、後にこの子供達を僕のベットの
下に連れて来た。オーナーが連れ出しても直ぐにジャスミンが連れ戻してしまう。かくして、クレオバ
トラの部屋で、犬との生活が始まった。

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2008-01-29

世界放浪の旅、ドミニカ共和国から南米へ。(本出版に向けて・その19)

世界放浪の旅、ドミニカ共和国から南米へ。(本出版に向けて・その19)
「仕事を追え。仕事に追われるな。」

これは家にある日めくりカレンダーに書いてあった言葉。

その通りだなぁ。とつくづく思う今日、この頃。

薪ストーブの煙突掃除をしなかったら、不完全燃焼で部屋中がモックモクに。今日は煙突掃除に奮闘。


「仕事を追え。仕事に追われるな。」

この精神でいきたいものです。

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ドミニカ共和国では両親、姉夫婦に久しぶりに再会、5人で過ごす楽しい5日間はあっという間だった。
一年で帰ると言いながら、とっくに一年半が過ぎ、未だ帰る様子が無い僕に家族は温かかった。荷物も
少なくなり、風貌もすっかり放浪者的になっている姿を見て、「こりゃ当分は帰って来ない。」と諦め
たのかも知れない。家族は先に姉夫婦の住むニューヨークに帰って行った。帰り際、サングラスをかけ
た母親の目には涙が浮かんでいた。

家族が最初に空港に着いた時に出迎えてくれた日高さんを後日一人で訪ねた。日高さん一家は戦後間も
無く鹿児島からドミニカ共和国に移住して来たそうだ。日高さんは美容室を経営していて、旦那様はド
ミニカ人。僕がお邪魔した時は、かわいいお孫さんと、途中から日高さんの弟さんもいらっしゃった。
弟さんは車の修理工場を経営しているそうだ。空手をやっていて、体格が立派だった。如何にも九州男
児といった感じで、ちょっと西郷隆盛さんみたいだと思った。

弟さんは最初に部屋に入ってきた時に、なんと拳銃を机の上に「ドン」と置いた。僕はビックリした。
護身用に持ち歩いている様だ。「自分の身は自分で守る。ここに住むならその覚悟が必要なんだよ。」
と弟さんは言った。そして「僕はね、キリスト教を信じている。キリスト教を心で理解している。君は
信じているものを心で理解していますか?」と聞かれて、言葉に詰まった。弟さんには、これまた昔の
日本男児の様な、豪快で、真っ直ぐな雰囲気が漂っていた。

弟さんが若い頃に日本に帰って空手を習っていた時の話なんかを聞いた後に、ドミニカ共和国に移住し
て来た日本人が現在、日本政府を訴えて裁判を起こしていることを聞いた。

戦後の日本は引揚者や失業者約7百万人で溢れかえっていて、沢山の日本人が中南米に移住したそうだ
。多くは自分の意思で。ただ、ドミニカ共和国の移住者だけは、国の斡旋で移住して来たそうだ。「カ
リブの島で畑を耕しませんか?肥沃な農地が無償で提供されます。」という国の告知に誘われて、実際
に移住してみると、岩や石だらけの不毛の土地や塩で覆われた一面 の砂漠で、約束された筈の土地とは
違い、農機具も提供されずにそれでも皆命懸けでその土地を開墾した。数年後には半数以上が集団帰国
か南米移住の形で〃約束 の地〃を去ったそうだ。

日高さん達はその当時未だ子供だった。それから数十年が経ち、2000年になって、国を訴えること
を決意した。既に、当時移住して来た多くの人達は亡くなっていた。日高さんのご両親も確か亡くなっ
たばかりだった。

南国の楽園というイメージばかりが強いカリブの島で、そんな出来事があったなんて驚いた。

今、インターネットで調べてみると、結局2006年6月、国の無罪判決が下りたそうだ。東京地裁の判決は
、国に責任はあるが、ドミニカの移住者達が国を訴えるのが遅すぎたというものだったそうだ。日高さ
ん達にはさぞ無念だったろう。

日高さんは、「私の処にはね、良く日本人の旅行者が訪ねて来てくれるんだけど、その度にこうやって
おにぎりを持たせるのよ。」と帰り際にデッカイおにぎりを下さった。美味しかった。

ドミニカ共和国にはその後2週間程滞在した。うっかり詐欺に逢いそうになることもあった。そんなこと
もあったせいか、正直、キューバが懐かしく感じてしまった。

キューバとドミニカ共和国。僕がたまたま訪れたカリブに浮かぶ二つの国。共に、GNPは三千ドル弱の貧
しい国。社会主義と資本主義の二つの国。情報も人の出入りも管理されている国と、情報も人の出入り
も自由の二つの国。

ドミニカの首都、サントドミンゴの繁華街はネオンで溢れていた。ハバナの情緒ある風景とは違い、ガ
ヤガヤと忙しい、何処にでもある味気無い街並み。僕はそんな街中を歩きながら、「資本主義って一体
何なんだろうか。資本主義=自由=幸せ、社会主義=不自由=不幸せというイメージを何故か持ってい
たけど、そのイメージは安易だったな。」と楽しかったキューバの日々を思い出しつつ考えていた。

ドミニカから飛行機でベネズエラのカラカスに向かった。

いよいよ南米大陸の旅が始まった。最初の目的地はブラジルのサルバドール。かつてニューオリンズで
お世話になったカップル、ステファンとキャロルと待ち合わせて居た。

ベネズエラのカラカスからブラジルのサルバドールまでは、アマゾン河経由で約5千キロ。待ち合わせは
2週間後。なかなかの強行軍だった。しかも詳しいルートは全く決まっていなかった。ベネズエラに着い
た次の日の朝、カフェで出逢った初老の西洋人の旅人がサルバドールまでの行き方を大まかに教えてく
れた。助かった。なんとかなるものだ。この頃には、僕も大分行き当たりばったりな旅スタイルが定着
しつつあった。

長距離バスに乗ってブラジル国境を目指した。何度も休憩があり、その内、他の乗客と仲良くなる。僕
は二人組みのブラジル人と仲良くなった。おじさんと若者だった。若者はパントマイムをやっていて、
ブラジルやベネズエラの地方新聞で記事になったものをファイルしてあって、僕に見せてくれた。サン
ドロという陽気な若者だった。

すると、おじさんが言った。「彼はね、ベネズエラで強盗にあってお金持ってないんだよ。彼がサンパ
ウロに帰るまで面倒みてやってくれないか?」

「えーーっ?!」僕はいきなりのそんなお願いにびっくりした。新手の詐欺か?とも一瞬考えたが、二
人の雰囲気からしてそうは思えない。二人は友人同士かと思いきや、バスで一緒になっただけだったら
しい。詳しく話を聞くと、サンドロはベネズエラの海沿いのリゾート地でパントマイムをやってかなり
の額を稼いだそうだ。それを見ていたベネズエラの若者達が彼を襲ったらしい。なんともひどい話だ。
警察がお金を貸してくれて国境までのバスには乗れた。ベネズエラからブラジルに入ったら後はヒッチ
ハイクでサンパウロまで帰るつもりだったらしい。サンパウロまでは優に7千キロはある。果てしない
距離だ。

おじさんは「この日本人ならなんとかなる。」と思ったのだろう。しきりに「助けてやってくれ。」と
言う。「痛い目に逢った同じ国の若者をなんとかしてあげたい。だけど自分には限界がある。」という
雰囲気が伝わってきた。旅は道連れ世は情け。よし、ここは思い切って引き受けてみよう。その日から
、サンドロとのブラジルの旅、珍道中が始まった。

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2008-01-27

世界放浪の旅、キューバ(本出版に向けて・その18)

世界放浪の旅、キューバ(本出版に向けて・その18)
オレンジ収穫祭は年に一度の島を挙げてのお祭りだった。

メインストリートでは豚の丸焼きが何箇所かで行われていた。夕方、リオのカーニバルの様なパレード
が行われた。軽トラックを電飾で飾って、荷台では子供達が思い思いの衣装を着て踊っている。勿論全
て手作りだが良く出来ている。子供達は皆、とても活き活きしている。そんなトラックが一〇台以上続
く。僕は高校時代の体育祭を思い出した。体育祭のメインイベントは「仮装」と呼ばれ、皆、手作りの
衣装、大道具、小道具を用意して、9分間、好きな音楽に合わせて創作ダンスを披露する。それは一年
で一番大事な生徒達の「晴れ舞台」だった。

トラックの荷台に乗っている子供達を始め、島の人達にとってこのお祭りは何よりも大事な、そして非
日常な「ハレ」の日なんだということが、ひしひしと伝わってくる。ただでさえ貧しいカリブ海に浮か
ぶ社会主義の島キューバの、これまた更に貧しい「青年の島」(Isla de la Juventud)での一年に一度
のお祭りは底抜けに明るい笑顔で溢れていた。

夜は島のいたる処で広場を使った野外ディスコパーティー。ビールは給水タンクにふんだんに用意され
ていて、皆スチール製のマイカップを購入して浴びる程に飲む。場所によってちょっとづつ雰囲気が違
うので、一晩中、あちこちの広場をハシゴする。そんなお祭りが丸2日間続いた。最後の日の早朝に見
たライブはなかなか圧巻だった。流石音楽の国、キューバ。日本の野外フェスティバルに負けない位の
立派なサウンドシステムで聞くキューバ音楽は胸に響いた。

そう、キューバは音楽の国。確かに何処に行っても音楽があった。街をぶらぶら歩いているとバンドの
練習風景を窓から覗けることがあったり、5ドル払うと一流のジャズライブが聴けたり、印象的だった
のは、ラジオ局を訪ねた時だ。僕はラジオに興味があって、ラジオドラマの収録風景を見学させて貰い
に行った。そのラジオ収録スタジオは相当に古くて、広かった。ドラマの声優が3人、3本のマイクの
前で立ちながらしゃべっている。そしてBGM。BGMがなんと生演奏だった。5人程の初老の男性陣が奏で
る陽気なジャズ。正に「ブエナビスタソシアルクラブ」の世界。

ドラマの収録風景はなんとものんびりしていて心が和んだ。キューバはカストロの政策のお陰で、国民
は国から出ることが出来ず、半ば軟禁状態で、時代は言わば50年代から止まってしまっている。これ
は不幸である。のか?実際ハバナに来て見て、そんなのどかな風景を見ると、旧き良きアメリカの時代
を残すキューバの人達は実は忙しない現代社会から取り残された幸せものなんじゃないかと思えてきた

青年の島からハバナに戻ると、忘れられない出逢いがあった。

ハバナには「マレコン通り」という海沿いの名物通りがある。マレコンとは防波堤のことらしい。その
名の通り、防波堤がずっと海沿いに続いている道だ。僕はその防波堤の上を海を見ながら歩くのが好き
だった。ある日、ファンミゲルと一緒に防波堤の上を歩いていると、女の子が防波堤に座っていた。キ
ューバ人では無い様だ。話し掛けて見る。「何処から来たの?」「当ててみて。」と彼女が言った。「
ヒントをあげるわ。私は貴方と同じアジア人よ。」え?一体何処だろう。ちょっと色黒だけど、東南ア
ジアの人には見えない。

「私はパレスティナから来たの。ファティマって言うのよ。」僕は初めてパレスティナの人に逢った。
僕は後日彼女の家をファンミゲルと一緒に訪ねた。

お母さんと弟とファティマの3人暮らし。シンプルなアパート。パレスティナ難民を受け入れている国
は、ヨルダン、カナダ、キューバとあと数カ国しか無いそうだ。ファティマは自分達のことを「難民」
と言っていた。一見、幸せそうに3人で暮らしている姿を見ると、その言葉の実感が湧き辛かったが、
遠く全く文化の違う国でひっそりと暮らすのはやはり本意では無い筈だ。ファティマに出逢ってからパ
レスティナのニュースがただの遠い国での出来事では無く、よりリアリティを持って感じられる様にな
った。

パレスティナ難民を受け入れる数少ない国の一つ、キューバ。キューバに来て見てカストロのイメージ
が変わった。もともとカストロのことは詳しく知らなかったが、「独裁者」というイメージがあった。
スペインを旅した時に、スペインに住む正也さんの紹介でキューバ人に出逢ったことがあった。彼は国
から奨学金を貰って勉強の為にスペインに来ていたが、そんな風にして国外に出られる人は本当にごく
僅かな選ばれた人間だけだと言っていた。そんな仕組みを無理やり作ってしまったカストロは確かに「
独裁者」とも言えるかもしれない。でも、キューバに来て見て、カストロは意外と皆に支持されている
印象を受けた。僕が出逢ったキューバ人は限られているが、カストロの悪口を聞いたことは無かった。


僕はハバナの街を歩いていて、或る時ふと思った。「カストロは独裁者なんかじゃ無い。隣国アメリカ
から襲ってくる資本主義の大波から自国を守る為に社会主義の国を創り、已む無く取った措置が国民の
渡航を禁ずるという手段で、そのお陰で海の向こう、数百キロ先にはアメリカが在りながら、資本主義
、拝金主義とは全く無縁な貧しいけど笑顔で溢れる豊かな国作りに成功しているじゃないか。」なんだ
かカストロが凄い人に思えてきた。

僕はすっかりキューバ好きになっていた。兎に角ハバナは人間味溢れる街だった。路上ではドミノを楽
しむ男達だったり、立話を楽しむ主婦だったり、キャッチボールを楽しむ親子だったり、何時も人で賑
わっていた。飲み屋に行けば老いも若きも一緒になって飲み交わしている。世代を超えて、皆、ただ同
じ島の人間として付き合っている。僕は勝手に昭和初期の日本を想像して、「日本の社会もかつてはこ
んなだったんだろうな。」と思った。

そしてキューバに来て、何処に行っても目にするのが「チェ・ゲバラ」の写真や絵だった。僕はそれま
でチェのことは知らなかった。キューバ革命の立役者。キューバの、いや、世界の坂本龍馬みたいなも
のか。キューバの3ペソコインには彼の顔が入っている。僕は何時の間にかチェに魅せられて、本屋に
行くと、革命前後のチェとカストロの写真集なんかを読み漁っていた。

間も無くキューバを発つ時がやって来た。同じカリブの島国、ドミニカ共和国で僕は家族と待ち合わせ
ていた。今考えると何とも優雅な話だが、当時は姉夫婦がニューヨークに居て、僕がキューバだったの
で、日本から来た両親と計5人でドミニカ共和国で待ち合わせをしようということになっていた。

そうでなければ、僕はもう暫くハバナに居ただろう。グローリアとファンミゲルは僕を本当に家族の様
に扱ってくれた。グローリアは何時もタバコ片手に、僕にずっとスペイン語で話し掛けてくれた。殆ど
何を言っているか分からなかった。グローリアもそれは分かっていた。でも、いつも僕に色んな話をし
てくれた。寝る時に着ていたサリーちゃんみたいな赤と白の服が可愛かった。髪形はサザエさんみたい
だった。

ファンミゲルはアメリカに行くのが夢だった。彼にとってはアメリカは豊かさの象徴だったに違いない
。毎日お昼寝をして、学校にも仕事にも行かずに無邪気に近所の仲間と遊ぶ19歳。でも時折、人生を
憂いている様な印象を受けた。当たり前だ。僕が彼だったら、国を飛び出してみたいと思うに決まって
いる。でも、その時彼はどう感じるのだろうか。実は探し求めていたものは、彼が育ったハバナにある
様な、シンプルで温かい、人情味溢れる生活だったと気が付くかもしれない。

カストロが死んでしまったらキューバはどんな国に変わるのだろうか。変わってしまう前に、もう一度
行ってみたい国だ。

僕はハバナから飛行機でドミニカ共和国に向った。

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2008-01-26

世界放浪の旅、メキシコからキューバへ。(本出版に向けて・その18)

世界放浪の旅、メキシコからキューバへ。(本出版に向けて・その18)
キューバはカストロという人が革命を起こして社会主義の国になったということ位しか知らなかった。
「一度も行った事が無い社会主義の国に行って見たい。」ただそんな気持ちでキューバに行くことを決
めた。

キューバに着いた初日、ハバナ市内のアパートの一室を個人が提供している宿に泊まった。一泊20ド
ル。意外だった。メキシコでも10ドルあれば結構良い宿が見付かったが、普通のアパートの一部屋を
間借りして20ドル。宿の主人に話しを聞くと、宿代は法で決められていて、その多くを税金で持って
行かれてしまうとのことだった。「社会主義ってこういうことなのか。」と思った。

僕が泊まった宿は中心地に程近い下町的なエリアにあった。宿が決まり、散歩に行こうと外に出ると、
青年に話し掛けられた。彼の名はファンミゲルと言った。人懐っこく、直ぐに仲良くなった。彼は日本
人の血が入っているという。髪は天然パーマだし、顔付も日本人には見えなかった。彼は僕が泊まった
宿の直ぐ向かいに住んでいた。その通りの名前はサンフランシスコ通り。彼はお婆ちゃんと二人で暮ら
していた。お婆ちゃんの名前はグローリア。お婆ちゃんと言っても、まだ50代だったと思う。聞けば
、彼女は日系3世のキューバ人で、「シガ」という苗字を持っていた。

僕はファンミゲルとグローリアと仲良くなり、次の日から居候することになった。キューバでは観光客
を泊められるのは宿営業許可を得ている家だけで、その場合は20ドルを徴収するのが義務付けられて
いた。近所の人にグローリアは、僕は日本から来た彼等の親戚だと説明してくれていた。

ひょんなことからハバナでの居候生活が始まった。ファンミゲルは19歳で、学校にも行かないし、仕
事もしていない。一日中フリーだ。近所の友達も皆、学校にも行かないし、仕事もしていない。つまり
、二十歳前後の若者達が年中「夏休み状態」で通りをウロウロしている。僕もその仲間に加わった。僕
はキューバに1ヵ月半滞在して、その内1ヶ月をハバナのファンミゲル宅で過ごしたが、その殆どの時
間、サンフランシスコ通りから離れてもせいぜい2−3ブロック以内で過ごしていた。それ位の範囲内
にファンミゲルの友達が沢山居て、その世界だけで十分楽しかった。それはある種の御伽の国に迷い込
んだ様な体験だった。

ハバナの街はそれまで行ったどの街とも違っていた。先ず看板が無い。世界中何処に行っても見かける
コカコーラやマクドナルドやナイキの看板が無い。看板が無いから街がすっきりとしている。そして、
走っている車は全て50年代のアメリカ製の車だ。とてつも無くデカイ。ゴッドファーザーに出てくる
あの、巨大なアメ車だ。そんな車が普通に街中を走っている。そして街並みはヨーロッパの様な石造り
の建物が多い。そんなハバナは何処にも似つかない独特な雰囲気があった。

ハバナのファンミゲル宅での居候生活はなんとも平和な、素朴な日々だった。朝遅く起きると、向かい
の家の友達が外に座っているのが2階の窓から見える。市場に野菜や肉を買いに行く。野菜は種類が限
られていたが美味しかった。市場は直ぐ近くにあって、地元の人しか来ないので、僕は珍しい存在だっ
た。昼食の後、昼寝をして、夕方からまた通りをウロウロ。たまに海まで足を延ばす。夜はテレビで映
画がやっていることも多かった。映画は、80年代のハリウッド映画だ。最近の映画は入ってこない。
音楽も規制がかけられていて、ラジオでかかる曲は同じ曲が多かった。ファンミゲルはラップにはまっ
ていて、良く英語のラップの真似をしてくれた。めちゃくちゃな英語だったが、それらしく聞こえる。


結局、ハバナでの生活が楽しくて、来た当初は色々と島を巡るつもりでいたが、結局ハバナの、サンフ
ランシスコ通りから出なかった。でもやっぱり一ヵ所位は観光もしたいなと思い、気になっていた「青
年の島」に行くことにした。キューバ本島の南に浮かぶ小さな島。どんな処か知らないけど、ファンミ
ゲルと一緒に船に乗った。

青年の島は、何も無い素朴な島だった。人々の暮らしぶりはハバナと比べものにならない位シンプルだ
った。路上で机の上に豚肉が、毛がついたまま売られていた。青年の島にはかつてカストロや反政府市
民が収容されていた監獄があった。そこは、巨大な円柱の建物で、中に入ると中心には監視塔が建って
いて、円形に並ぶ牢獄が一度に見渡せる構造になっていた。アメリカの監獄と同じ作りらしかった。も
う誰も居ないその巨大な建物は、不気味な空気を漂わせていた。カストロは離れにある普通の平屋に投
獄されていた様だ。

或る日、青年の島に日本人が住んでいると聞き、僕は一人、自転車を借りてその家を訪ねた。その家族
は島の中心地から20キロ程離れた処にポツンと住んでいた。原田さんという一家だった。家に着くと
、息子さんが車を洗っていた。見た目は日本人だが、日本語はしゃべれなかった。中に招待された。お
父さんとお母さんにお逢いした。もう結構なお年だった。「こんな何も無い島に日本人が住んでいるな
んて。」とただそれだけで何も考えずに来てしまったけど、何を話したら良いのか分からず、僕は早々
に原田家を引き上げた。日本的な家屋の居間に飾ってあった天皇陛下からの表彰状が印象的だった。戦
前にキューバに移住した苦労を称えての表彰だったそうだ。天皇陛下から送られる表彰状なんて生まれ
て初めて見た。

帰り道、周りに何も無い田舎道で自転車がパンクしてしまった。暫く手で押すと、間も無く家が見えた
。家の主人に助けを求めると、パンクした部分を摘み上げて紐で縛ってくれて、見事、街まで戻ること
が出来た。キューバの人の印象は男は男らしく、女は女らしく、大人は大人らしく、子供は子供らしい
感じがした。自転車のパンクをいとも簡単に応急処置してくれる大人が大層頼もしく見えた。

ファンミゲルと僕は一旦ハバナに戻り、2週間程して又、青年の島に戻った。オレンジ収穫祭のお祭り
があったからだ。

オレンジ収穫祭は年に一度の島を挙げてのお祭りだった。

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2008-01-25

世界放浪の旅 ヨーロッパから中米へ。(本出版に向けて・その18)=?ISO-2022-JP?B??=

世界放浪の旅 ヨーロッパから中米へ。(本出版に向けて・その18)=?ISO-2022-JP?B??=
カナリア諸島はスペイン領で、モロッコの西に浮かぶ島々だ。僕が最初に向かったのはランザローテ島
で、この島は、映画の「砂の惑星」や、スターウォーズに出てきそうな島で、緑が殆ど無かった。見渡
す限り砂漠の様な砂地が広がっている。家は全て、白い壁に緑の屋根で統一されていた。砂地のベージ
ュとのコントラストが綺麗だった。

僕はスクーターをレンタルして島のあちこちを走っていた。辺り一面ベージュの世界はまるで別の星の
様だ。時折、砂地を掘って葡萄の木が植えてある。良くこんなに乾燥した場所で葡萄が育つものだと感
心してしまう。そして或る日、僕は島の北にある岬を目指していた。真っ青な空。乾燥していて喉が渇
く。昼下がり、飲み物を買いに、何も無い村にポツンとあるバーに入った。

バーのおじさんが、僕が店に入るなり、テレビの画面を指さして僕に何か言っている。良く聞くと「ヌ
エバヨーク」と繰り返しいっている。画面を見ると、大きなビルが燃えている。「え?貿易センタービ
ル?ニューヨーク?」信じられない。映画の様な光景が画面に映し出される。おじさんと僕は、暫く無
言で画面を見続けた。

僕はバーを出て北の端の岬を目指した。真っ青な大西洋が広がり、これ以上無い程穏やかな景色。そこ
は見晴らしポイントの様になっていて、観光客が何人か居た。恐らく、ここに居る人達の殆どは、未だ
ニューヨークの惨事のことを知らない。僕はこの海の向こう側で炎上するマンハッタンのビルの事を想
い、地球の財産はビルなんかじゃなくて、今、目の前に広がる大自然なのだとはっきりと感じた。

ランザローテではアパートを週借りして波乗りを楽しんだり、キャンプしたりした。キャンプ場には、
観光客だけで無く、地元の人が大きなテントを張って住んでいた。僕はそこに住んでいるおじさんと仲
良くなり、朝の漁に連れて行ってもらった。おじさんは定置網を3箇所位に仕掛けていて、その場所を
、三点測量で正確に探し当てた。景色の三点が交差する場所に網を仕掛けているのだが、その探し方は
説明を聞いても直ぐには理解出来ない。道具は何も使わずに、メモ帳を覗き込み、景色を眺め、それを
数回繰り返してピタリと網の場所を探し当てる。網にかかった魚をフライにして食べた。流石取れたて
は美味しかった。

ランザローテ島から船に乗り、カナリア島に来た。カナリア島では、スペイン南部のトレモリノスに住
んでいる正也さんという日本人に出逢い、彼と一緒にカナリア島、テネリフェ島に行った。正也さんと
は初対面なのに気が合い、まるで小学校の時の様に、ただただ冗談を言い合い笑い通しだった。テネリ
フェ島にはテイデ山という、富士山と2mしか高さが変わらない3774mの山があった。レンタカー
で山頂近くまで行った。

遠く雲の切れ間に地中海を見下ろす、神々しい景色。後ろには手に届きそうな距離にテイデ山の山頂が
見える。その景色を見ながら正也さんが古事記の話を詳しくしてくれた。「八百万(やおよろず)の神
々の世界。」僕は正直、神社と仏閣の違いも分かっていなかったし、神道というものが、日本古来の宗
教で、「自然に神が宿る。」と信じていることも知らなかった。大西洋に浮かぶ島の、富士山と2mし
か変わらない山の中腹で、自分が日本人であることを再認識した。

僕は日本を出発する時、正直余り日本のことを好きでは無かった。東京でのサラリーマン生活に限界を
感じて旅に出た。世界には、日本よりもうんと居心地の良い場所がある気がして。日本人というアイデ
ンティティーを半ば捨てるつもりで、国籍なんて気にしない国際人になるつもりで旅に出た。でも、旅
を続ける程に自分が日本人であることを日本に居る時以上に意識し、しかも日本のことが好きになって
いった。

旅人は常に自分の国を背負って旅している。何処に行っても先ず聞かれるのは、「何処から来たの?」
だ。その度に、「ニッポンのカマクラって処から来たんだよ。カマクラはサムライが初めて天下を取っ
た場所なんだよ。」って答える。その度に自分が日本人であることを再認識する。そして、地元鎌倉の
景色を思い浮かべる。鎌倉みたいに海も山もそして文化も程よくある町はそうそうあるもんじゃないっ
て事も分かってくる。

そして、正也さんに出逢い、初めて詳しく古事記の話を聞き、「そんな神話をしっかりと語り継いで、
森羅万象に神が宿ると信じて来た日本人っていいじゃないか。これからは自分が日本人だってことに誇
りを持って、自信を持って伝えて行こう。」と思った。

テネリフェ島にはピラミッドがあった。そのピラミッドはマヤ文明のピラミッドと形が良く似ていて、
太古の昔から人は潮の流れを使って大陸を行き来していたことを証明することが出来ると説明してあっ
た。

正也さんとテネリフェ島で別れ、ランザローテ島からアムステルダム行きの飛行機に乗る為にランザロ
ーテ島に戻る船に乗った。

僕はランザローテ島で船を降り損ねて、なんと24時間かけてまたテネリフェ島に戻って来てしまった
。今思えば在り得ない様なことだが、何故だかうっかり又、テネリフェ島に戻って来た。よほど御縁の
ある島だったに違いない。

カナリア諸島の後、フランスの西部ブリターニュ地方にインドを一緒に旅したソフィとヤスミナを訪ね
た。ヤスミナのお兄さんの部屋を借りて、何日か滞在した。10月のちょっと寒い海で泳いだり、栗を
拾いに行ったり、クラブに踊りに行ったり。楽しく時間が過ぎた。ブリターニュ地方はクレープ発祥の
地らしく、いたる所にクレープレストランがあった。僕の感覚ではクレープは屋台だったので、レスト
ランで食べることが大袈裟に感じた。又、ブリターニュの人はブリターニュ語をしゃべるらしく、聞い
た感じはフランス語とは全く違っていた。

ブリターニュ地方からパリへ。パリでは、ティムとけいこちゃんカップルの家に居候させて貰った。世
田谷ハウスで一緒に住んでいたグリンはティムのゴッドファーザー(名付け親)で、ティムとは東京で
逢った。ティムはフランスで育ったイギリス人で、英語とフランス語がペラペラで、けいこちゃんに出
逢い、日本語も上手くなっていた。鎌倉の友達の由紀ちゃんも居候に加わり、暫く4人生活が続いた。


ティムの家はポンピドゥーという美術館の近くで、東京で言えば恵比寿みたいな処だったのだろうか。
アパートの回りをウロウロ散歩するだけで楽しかった。パリに長いこと住んでいる高橋さんという画家
さんは、「パリは昔の江戸みたいな良さがあるね。ツケがきくような情緒が残っている。」と言ってい
た。そう言われて見れば、カフェに行けば頬っぺたにチュッチュッと顔なじみの店員と挨拶したりと、
都会なのにギスギスした感じが無い。僕もパリのファンになった。その後、カナリア諸島を一緒に旅し
た正也さんをスペイン南部に訪ねて、2002年の年越しはドユッセルドルフの龍一宅を訪ねた。

なんだかんだと、あっという間にヨーロッパに来て半年近くが過ぎた。都会の暮らしを満喫して、僕は
中南米を旅するべくメキシコに向かった。

メキシコシティからユカタン半島のカンクーンまでバスでゆっくりと旅をした。ユカタン半島は学生時
代の卒業旅行で来た場所だ。まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。卒業旅行の時は、キャ
ンプツアーに参加して、同じサークルの仲間、中路も一緒だった。当時のルートを辿ってみる。オアハ
カ、サンクリトバル・デラス・カサス、パレンケ遺跡、トゥルム遺跡、そしてカンクーン。パレンケ遺
跡を囲むジャングルは緑が深く圧倒的で、そのまま手ですくって飲める綺麗な川が流れていた。マヤ人
があの地に定住したのが納得出来る。カンクーンの近く、卒業旅行の時には何も無いビーチに3泊程し
たのが印象的だった。その場所に行って見る。リゾートホテルの建設予定地になっていた。

カンクーンの海はエメラルドグリーンで、透明度は抜群だった。或る日、沖に向って平泳ぎで泳いでい
て、グッと水に潜ってみると、黄色い小さな魚が僕の目の前をチョコチョコと可愛く泳いでいる。水中
眼鏡は付けて居なかったので、ボンヤリとその姿が見える。平泳ぎで息継ぎをして又潜ってみると、や
っぱりその黄色い魚が目の前を泳いでいる。沖まで行って折り返し、浪打際に帰って来るまで、ずっと
その黄色い魚は僕に付いてきた。僕をサメか亀かと勘違いしたのだろうか。メキシコと言えば、そのこ
とを思い出す。

カンクーンから飛行機に乗ってキューバに向った。

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2008-01-24

2001年夏、欧州(本出版に向けて・その17)

2001年夏、欧州(本出版に向けて・その17)
龍一宅では耕慈、京子夫婦と待ち合わせて居た。龍一と耕慈と僕は学生時代、同じウィンドサーフィン
のサークル仲間だった。耕慈とは社会人になってからは暫く逢っていなかったが、ある日、数千人が集
まる横浜アリーナのコンサート会場でばったり再会して以来、奥さんの京子と共に、毎週末の様に一緒
に遊んでいた。僕は世田谷ハウスで8人で共同生活をしていた頃で、耕慈、京子夫婦も、世田谷ハウスの
一員かの如く、良く遊びに来てくれていた。前世を見てくれる聖龍さんによると、耕慈と僕(宏一)は
その昔、金髪巻き毛の双子の姉妹だったそうだ。一体どんな姉妹だったのだろうか。

ウィンドサーフィンサークルと称して、飲み会や合コンしかしてなかったアホ仲間だった龍一は、結婚
して、高級マンションに暮らし、駐在員として立派に活躍していた。アフリカのザンビアから来ると、
ただでさえ小奇麗なデュッセルドルフの街並みや、龍一のマンションが一層清潔に、さっぱりとして見
えた。

龍一宅でゆっくりさせて頂いた後に耕慈、京子夫婦とアムステルダムに向かった。
アムステルダムでは空港に行き、インドで預けた荷物を取りに行った。アムステルダムには丁度、ニュ
ーヨークから僕をインドに導いてくれたテリーが居た。2001年最初の満月の夜にニューヨークの公園で
彼女に逢わなかったらインドに行くことも無かった。彼女にインドで買ったパンツをお土産に渡した。
「マイクロコットンって新種のコットンって言ってたけど本当かな。」と聞くと、「そんな訳無いじゃ
ない」と、軽く流された。「ライターで火を点けたら直ぐ分かるわよ。ほら。」と、パンツの余地に火
を点けると生地は簡単に溶けた。その位の知識は持っておくべきだった。

エディにも再会した。エディとは社会人の頃にタイのチェンマイで3日間のトレッキングツアーが一緒だ
った。その後、僕が出張の最中にアムステルダムに彼を訪ねていったり、世田谷ハウスにも彼が1週間程
遊びに着たりして交流が続いていた。

耕慈、京子夫婦、エディと4人で、2001年8月4日の満月にアムステルダム郊外で開催された「ダンスバレ
ー」という野外フェスティバルに行った。9万人でごった返す会場で、偶然にも同じウィンドサーフィン
サークルの後輩だったしゅんちゃんに出逢った。「世界はなんと広い様で時に狭いのだろうか。」と思
った。

9万人がたった1日の間に決して大きくは無い会場に集まるイベント。地面は空のペットボトルで溢れか
えり、足の踏み場も無い位になっていた。欧州の若者達は思ったよりマナーが悪かった様だ。

野外フェスティバルは夜12時に終わり、皆、最寄の駅を目指した。もうバスは無く、雨の中、駅に歩く
行列が出来ていた。8月だというのにえらい寒い。駅まではなんと十数キロもあった。道路は車が渋滞し
ていて、歩道を歩く人が余りに多すぎて、なかなか前に進まない。雨で気温は更に下がっていた。結局
僕達は、途中にあった動物病院に非難させてもらった。夜中の2時頃になっていた。結局、20人程がその
動物病院で数時間避難して、早朝に病院の人がアムステルダムの中央駅まで車で送ってくれた。

駅には、フェスティバルの参加者達が始発を待ってごった返していた。ちょっとした難民状態だ。8月な
のに、なんと寒かったことか。次の日、野外イベントの主催者の企画不足を訴える形で、テレビニュー
スになっていた。余りにも客が多すぎて道が渋滞して駅までのシャトルバスが出なかったことと、8月に
は在り得ない程の寒さが重なった為の不運だった。夜中の雨の中を歩き、寒すぎて救急車で運ばれた人
も居たそうだ。期せずして、ちょっとしたサバイバル訓練を受けた様だった。

アムステルダムからイビザ島に向かった。

イビザ島から更に船にのって、フォルメンテーラ島に向かった。船から見るイビザ島の海岸線は、地元
鎌倉にそっくりだった。イビザが欧州の若者で溢れているのと対照的に、フォルメンテーラ島は大人の
リゾート島と言った感じだった。沖には何隻もの豪華ヨットが停泊している。僕はそのビーチで、試し
にインドからはるばる運んできたパンツやシャツを並べてみたが、誰も興味を示さなかった。僕は直ぐ
に諦めて、海で泳いだ。

夕方、御土産屋に行くと、京子が履いていたパンツを見て、「それ、いいパンッだね。何処で買ったの
?」と聞かれ、そこから会話が弾み、結局僕が持っていたシャツとパンツの半分を、買値の倍の値段で
買い取ってくれた。「やった!」僕は興奮した。旅の間に初めて味わった商売の感覚。ボンベイで走り
回ったのは無駄では無かった。僕の買い付けの勘に狂いが無かったことが分かり、嬉しかった。

次の日、僕は満足気にフォルメンテーラ島の海を満喫した。地中海の青はとても綺麗だった。水中眼鏡
を付けて、深くまで潜った。そして、気持ち良く海から上がり、後ろポケットに居れっ放しだった昨日
の売上げ全てが、地中海に消えていたことに気が付いた。

2001年夏、ユーロに通貨が統合される直前のスペインのフォルメンテーラ島で、僕のポケットに入って
いたペソは、揺ら揺らと地中海を彷徨っていた筈だ。それは地中海へのお布施だった。

イビザ島に戻り、僕達は世田谷ハウスで一緒に住んでいたイギリス人のグリンと合流した。イビザ島で
はキャンプ場に泊まった。キャンプ場は欧州中から集まる若者達で賑わっていた。夕方になると、皆お
洒落をしてクラブ(ディスコ)に繰り出して行く。トイレの鏡の前は、着飾った女の子で混みあってい
た。自然の中のキャンプ場に似つかわない風景が面白かった。

イビザ島には1ヶ月滞在、欧州の夏を満喫した。アムステルダムに戻ると今度は単身、カナリア諸島に向
かった。

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八王子市長選

八王子市長選
今週末に大事な市長選がある様です。以下、是非読んで頂きたいので載せてみます。
2008年、ニッポンが良い方向に動いている感じが伝わってきます。

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今月の27日、八王子市長選があります。
高尾山に「圏央道」のためのトンネルを掘ろうとしている現市長と
高尾山の自然を守る活動を長年してきた橋本よしひろさんの一騎打ちです。
高尾山が守れるかどうか、
開発型か自然保護か、と注目をあびています。

僕は霊山高尾山を守りたいと思っています。
植生の豊かさにおいて世界第二位といわれている水の恵みの山です。
ゼネコン開発破壊型から、市民中心の持続可能な環境型社会へと移行していって欲しいと思っています

僕は市町村という単位の政策こそが今最重要だと思っています。
日本が持続可能な環境型の社会に向かって行けるかどうか。
そして、ティッピング・ポイントのことを考慮するならば、
これから4、5年の政策こそが将来の環境を決めてしまう瀬戸際なんではないでしょうか?
市長の任期にして、わずか一回です。
今回の八王子の選挙は、まさに天下分け目ならぬ、日本の市民の態度を国に知らせる本当に重要なもの
だと捉えています。
たかが市長選なんかじゃない。
COP13でもろくな態度を示せなかった日本だけど、
日本の市民は違うぞと世界に発信するチャンスです。

1月20日、葉山町長選では、箱物行政を批判した環境派の候補が勝ちました!
東海村では、反原発の議員が当選しています。
すごい変革の時が訪れていると感じます。

このあと岩国市長選も注目を浴びています。

以下はエコアクション虔十の会(けんじゅうのかい) の坂田さんからの文章です。
どんどん転送してもらえるとうれしいです。

**********************************************
********

♪どんどん転送歓迎♪

【八王子の人、八王子に友達がいる人へ】

いま、八王子が市長選をめぐって大変なことになってます。

8年間、市長をつとめてきた現職の黒須隆一さんと
高尾山の自然を守る活動を長年してきた橋本よしひろさんの
一騎打ち!!!

と〜にかく、対照的な二人なんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高尾山トンネル工事をすすめ、圏央道早期完成をめざす黒須さん。

ミュシュラン三ツ星となるほどの高尾山の自然を破壊するのは、八王子市にとって大きな損害だと、迂
回路の検討もふくめた環境保全をめざす橋本さん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川口町トラックターミナル構想による八王子の物流拠点化や、
八王子駅南口開発などの大型開発で経済を活性化させようとする黒須さん。

環境にやさしい企業の誘致や、地産地消・地域通貨で、八王子農業や商店街を重視した生活型で経済を
活性化させようとする橋本さん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都立八王子小児病院の廃止を進めている黒須さん。

子供の医療体制は重要と、ぜったい存続を求める橋本さん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現職の黒須さんが有利か?と思いきや
この市長選で、高尾山の運命が決まってしまうこともあって
坂本龍一、サエキけんぞう、川田龍平、大貫妙子・永六輔など
多数の著名人が、橋本さんを応援。
若者もどんどん橋本さんの支持に回っているもよう!
おもしろくなってきました!

橋本よしひろさんのHP要チョック
http://www.project8.jp/

八王子市長選がどうなるか、これは見逃せない状況に!

どっちが市長になるかで
八王子の市制は、180度ちがってしまいます。。。

今回は、ぜったい選挙に行かなくっちゃ!


╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ■エコアクション虔十の会(けんじゅうのかい)
 ■代表 坂田 昌子
 □E-mail:kenju-no-kai@nifty.com
 □Homepage:http://www3.to/kenju
 □Blog:http://kenju-no-kai.cocolog-nifty.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━╋
▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
       Oto
oto2013@ybb.ne.jp
    サ_ヨ_コ_オ_ト_ナ_ラ
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲

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2008-01-22

世界放浪の旅、アフリカからヨーロッパへ。(本出版に向けて・その16)

世界放浪の旅、アフリカからヨーロッパへ。(本出版に向けて・その16)
「ビクトリアの滝」の名前の由来は、1855年に英国の探検家リビングストンがヨーロッパ人として初め
てここを訪れ、当時の英国君主、ビクトリア女王の名を冠したことによるそうだ。現地語では「Mosi-o
a-Tunya」(モシ・オア・ツンヤ)とよばれ、意味は「雷鳴の轟く水煙」という意味で、これは言い得て
妙だ。

ビクトリアの滝に流れ込むザンベジ川の川幅は1700mもあり、滝はザンビアとジンバブエをまたい
でいる。それぞれ、滝の周りは国立公園になっていて、色んな場所から滝を見ることが出来る。ザンビ
ア側の公園内には、島のような部分がある。地が裂けた時に一部取り残された様な形で残る周囲500
m程の島。島といっても、周囲は全部、100mの断崖絶壁だ。初めてこの島を歩いた時、僕以外には誰
もこの島に居なかった。この中は、滝の飛沫で湿度が高いお陰で緑が凄く豊富で、ジャングルみたいな
雰囲気があった。シダ類が沢山生えていた。

朝日が差し込むその島の中を一人で歩きながら、僕はボブ島で拾ったガラス玉の中を覗きながら歩いて
いた。そのガラスはダイヤモンドみたいに、何面体かに綺麗にカットされていて、覗くと、万華鏡みた
いに同じものが何個にも分身して見える。そのガラス玉を通して見る島の世界はとても幻想的だった。
島の中は滝の飛沫が霧状になっていて、葉っぱには露が沢山付いていて綺麗だった。

僕は勝手にアダムとイブの世界を想像した。日本の神話で言えば、イザナギ、イザナミの世界。地球最
初のカップルは、こんな幻想的なジャングルの中で生活してたんでは無いだろうか。そんな気分を楽し
んでいた。最初に滝を見ながら飛沫を浴びてビショ濡れになったが、それが乾いてくると、島の霧が肌
に気持ち良かった。僕は、海水パンツ一丁で島の中を歩いていた。

一人の島歩きを満喫した。そして、もう一度崖っぷちに行き、轟々と流れ落ちる滝を見ながら、僕はガ
ラス玉を滝つぼに向かって投げた。そのガラス玉は、ずっと取っておきたい様な綺麗なものだったけど
、その時はなんだかそうしたかった。

「生まれ変わった。」と言えば大袈裟だが、僕はそんな清々しい気分で滝を後にした。公園の入り口に
向う階段の途中で、僕は服を着る為に座っていた。するとそこに、アフリカ人の若いかプルがやって来
た。良く見ると中学生位だろうか。どうやって話始めたかは覚えていない。

彼らはジュマとマチルダ。カップルかと思いきや、兄妹だった。僕達はそこで仲良くなった。僕はその
後、国境を越えて、ジンバブエの側から滝を見に行ったりして、暫くリビングストンに滞在して、いた
が、その間にも彼等との交流が続き、やがて僕は彼等の家に泊まりに行くことになった。

その話の前に、ジンバブエの側の滝を訪れた時に出逢った人に大事な人生の教訓を教えて貰った。滝が
見える数あるスポットの中でも、ここが一番。という処があって、そこでスリランカから来たという初
老の御夫婦に出逢った。僕は東京で仕事をしていたけど、今は世界放浪の最中なんです。と告げると、
奥さんが「人生の秘訣はね、先ず旅をして、それから人生のパートナーを見つけて、そしたら仕事を見
つけるのよ。」と教えてくれた。

その御夫婦はそういう人生だったのだろうか。そこまでは聞かなかったが、とても仲が良さそうな、品
のある御夫婦だった。そして、その言葉を、自分でも不思議な位、僕は忘れることは無かった。「そう
か。仕事を探すのは最後で良いんだ。」僕の中では、旅をした後には先ず仕事を探すのが常識だと思っ
ていたので、その秘訣を聞き、肩の力が抜けた気がする。

話しは戻る。リビングストンの中心街はヨーロッパの雰囲気が漂う建物がある、かわいい街だった。彼
等の家は、中心街からちょっと離れた住宅地で、そこは所謂下町だった。初めて見るアフリカの庶民が
住む住居。それはコンクリートの、小さくてシンプルな平屋だった。家に着くと、ジュマが七輪のよう
なもので、庭先で何かを料理していた。

彼らは4人兄弟で暮らしていて、親は居なかった。何処かに働きに出ているのか、詳しい事情は聞かな
かった。クリスタベルという2番目のお姉さんと、もう一人、長女の名前は忘れてしまった。長女は高
校生位で、皆のお母さん役と言った感じだった。

夕方は近所の酒屋に行く。ビリヤードをやっている若者達にクリスタベルが僕を紹介する。その内、皆
でビールを飲んでダンスタイムになってしまう。皆、底抜けに陽気だった。

暗くなって家に帰る。電気の無い生活。夜はロウソクの灯の元で皆でトランプをした。トランプは相当
に使い込んであって、ボロボロだった。洋服も、よく見ると女姉妹達は着回している様だった。そんな
シンプルな生活。次の日は近所の家に遊びに行ったりして、僕は自分の宿に帰った。

リビングストーンを離れる日が来た。僕の泊まっている宿に彼等を招待して、皆でバーベキューをした
。そして街に繰り出して、バーに行った。今考えると、末っ子のマチルダは未だ中学生位だったが、ジ
ュースを飲んで一緒に楽しんでいた。そのバーはかなり大きかったが観光客は僕位だったので、宝石を
売りに来る人、酔っ払って酒を買ってくれと言う人、色んな人が寄って来た。その度に兄弟達が僕を守
ってくれた。

わずか1ヵ月半の滞在だったけど、アフリカのインパクトは大きかった。日食、ビクトリアの滝、そし
てジュマやマチルダ兄弟との出逢い。僕はすっかりアフリカファンになってしまった。もっとアフリカ
に居たかったが、ヨーロッパで友達と待ち合わせて居た為、渋々アフリカを出発した。「又何時かアフ
リカに戻って来よう。」と心に決めた。

ヨーロッパの行き先はドイツのドュッセルドルフだった。そこには学生時代の友達の龍一が駐在員とし
て暮らしていた。そこで、東京から来る耕慈と京子夫婦と待ち合わせて居た。

ドュッセルドルフまでは珍道中だった。

先ず、ザンビアからインドに戻り、インドからアムステルダムに行き、アムステルダムからドュッセル
ドルフに行く。どうしてそんなにややこしいのかと言うと、ニューヨークからインドへはアムステルダ
ム経由で行ったので、その帰りのチケットが残っていたからだった。

先ずはザンビアからエチオピアのアジスアベバへ。そこで珍道中の第一歩が始まった。

アジスアベバでは乗り換えの時間が半日程あった。エチオピア航空の粋な取り計らいで、乗客は一旦空
港から出て、皆でバスに乗って、市内のホテルで朝食バイキングを食べるという機会があった。お陰で
、アジスアベバの市内をバスの窓から眺めることが出来たし、何よりも面白かったのは、朝食の席だっ
た。

アジスアベバはアフリカのハブ空港だったのだろう。バイキングには、実に様々な国からのアフリカ人
が集まっていた。皆が国名を付けた名札を付けている訳では無かったが、衣装や肌の色も実に様々。ア
フリカの民族多様性を感じる貴重な機会を頂いた。

朝食を終えて空港へ。ニューデリー行きの飛行機が飛ぶまではまだ2時間ほどあった。僕は椅子に横に
なり、熟睡してしまった。寝過ごすかなと思ったが、きっとアナウンスもかかるし、大丈夫だろうと高
を括っていた。そして気が付くと、ニューデリー行きの飛行機はもう飛んでしまった。僕は相当に焦っ
た。どうしよう。ニューデリーでは、会社時代の同期で、駐在員としてニューデリーに居る高橋君と逢
うことになっている。それにチケットはどうなるのだろうか。

航空会社は優しくも、その後に出るボンベイ行きのチケットに換えてくれた。良かった。先ずは一安心
。ボンベイに向かいながら、その後のことを考える。高橋くんは僕から連絡が無くて心配するのでは無
いだろうか。ニューデリーからアムステルダム行きのチケットは使えるのだろうか。寝過ごしたことを
ひどく後悔した。

ボンベイに着いた。KLMで事情を説明すると、なんとあっさりとボンベイーアムステルダムのチケットに
換えてくれた。よし。ボンベイで丸一日フリーな時間が出来た。先ずはニューデリーの高橋君に電話し
て、お詫びをする。高橋君宅には、ニューヨークからインドに着いたその日に遊びに行っていた。イン
ド、ネパール、アフリカの旅を終えて、報告に行けずに残念だった。

次の日、僕はボンベイの市内でかなりの量の買い物をした。ヨーロッパに持って行くお土産と、ヨーロ
ッパで売る為の商品だった。僕はこの旅で初めて、商売をすることを思いついた。ヨーロッパではイビ
ザ島に行く。イビザは欧州の若者達の夏休みのメッカだ。インドからセンスの良い服を持って行けば売
れる筈だ。僕はそんなことを考えていた。

ボンベイでの買い付けが始まった。タイムリミットは朝から夕方まで。僕は初めて訪れる巨大な街ボン
ベイで、少ない情報を手掛かりに買い付けに走った。

そして、ボンベイの街をあちこちと歩き回り、かなりの量のものを買い込んだ。ウールの大きなショー
ル、シャツ、パンツ、そして、アーユルベーダ(インドの漢方)の粉歯磨き。それらを、車輪の付いた
トランクを買って詰め込んだ。今思えば良くやったものだ。僕はその時、もしこの買い付けが上手く行
ったら、今後インドを拠点にあちこち旅が続けられる筈だと思い、その実験第一回目のつもりだった。
まぁ、結局そのアイディアを実行したのは、その一回限りとなったが、良い経験になった。

インドでは、騙されるのは日常茶飯事だ。騙される方が悪いという感じがあって、僕もインドでの日々
が続くに連れて、そんな風に思うようになったが、旅の間、何度かインド人と喧嘩もした。リキシャー
の運転手とだったり、宿の主人とだったり。そんなやりとりを繰り返し、僕は結構なインド通になった
つもりで居た。でも、インドはそんなに甘くない。僕はインド人に最後まで騙された。

僕が買ったパンツは、タイバンツに似て、シルエットは袴に近いユニークなスタイル。龍なんかの柄が
入っていて、如何にもアジアっぽく、欧州でうけそうだった。生地は光沢があって、ポリエステルの様
だった。僕は店員に、「これはポリエステル?」と聞くと、「いやいや、これはマイクロコットンって
言って、新しく開発された、凄く細い綿の糸で作ってあるんだよ。」と言われ、僕はそれを鵜呑みにし
てしまった。勿論、「マイクロコットン」なんてある筈も無く、それはポリエステルだと後で分かった
。僕は最後の最後までインド人に一杯食わされていた。やれやれ。それにしても、「マイクロコットン
」なんてさも在りそうな名前を良くも考え付くものだ。

そんな、期せずして着いてしまったボンベイでの買い付けを済まして、飛行機で一路、アムステルダム
に向かった。アムステルダムからは電車に乗ってドイツのドュッセルドルフに行く。

そこで、不思議なことが起こった。アムステルダムに行く筈の飛行機が天候不順で、デュッセルドルフ
に不時着することになった。暫く待機した後、アムステルダムに飛ぶ。僕の席は、飛行機の真中辺りで
、スチュワーデスさんが向かいに座っていた。「友達がデュッセルドルフに住んでいて、逢いに行くと
ころなんだ。」と何気なく言うと、「ここで降りたら?」と言われた。「そんなこと出来るの?」僕は
聞き返した。「ちょっと待ってて。」彼女は席を立ち、ちょっとして戻って来た。「大丈夫よ。その代
わり、預けた荷物は後日アムステルダムで受け取りになるけど。」

かくして僕は、予定よりうんと早く、デュッセルドルフの龍一の家に着くことが出来た。

思い起こしてみると、アジスアベバの空港で飛行機をうっかり寝過ごしたお陰で、インド最大の都市ボ
ンベイで買い付けをして、インドからダイレクトで友達の住んでいるデュッセルドルフに来ることが出
来た。「うっかり」は時に思わぬ結果を生むものだ。でも、うっかり飛行機を乗り過ごす様なことはも
うしたく無い。

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2008-01-21

天地創造・ビクトリアの滝 (本出版に向けて・その15)

天地創造・ビクトリアの滝 (本出版に向けて・その15)
ボブ島でのアフターパーティーは、その後ゆったりと過ぎていった。日毎に島の人数が減ってくる。帰
る時は皆、カヌーに乗って向こう岸に行く。僕は暇だったので、カヌーを漕ぐのを手伝っていた。女の
子がカヌーに乗り、男の子が島から見送っている。お互い泣いている。アフターパーティーで結ばれた
カップルだろうか。岸まではほんの数十メートル。でも,カヌーの別れはなんだか情緒がある。思わず
、こちらまでもらい泣きしそうになる。

アフターパーティーが終わった後も、僕は数人のスタッフと一緒にボブ島に残った。とても居心地が良
かったし、僕は「祭りの後」が好きで、「ワーッ。」と盛り上がった後の、静かな時間を同じ場所で味
わうのが楽しみになっていた。スタッフ以外で僕と同じ様に最後まで残っていた人がもう一人居た。ド
イツ人のステファン。彼はHIV感染者だった。彼はさらっとそれを僕達に打ち明けてくれて、既にHIVと
共に生きる覚悟が出来ている感じだった。彼はお気に入りの音楽をMD(ミニディスク)に録音して僕に
くれた。その後の旅で、僕はそのMDを聞く度にボブ島の最後の夜の情景を思い浮かべた。

皆が帰った後の島を散歩するのは楽しかった。テントで溢れていた島が、静かになる。今まで何処に隠
れていたのだろう。猿も出てきた。

僕はスタッフと一緒に最後のカヌーでボブ島を後にした。

リビングストーンに行くと、いよいよビクトリアの滝を訪れた。
朝一番で滝に行くと、未だ殆ど人が居なかった。僕は滝の姿に圧倒された。轟音と共に流れ落ちる滝の
姿は、一言で表すなら、「天地創造」だった。

小学校の修学旅行では日光の華厳の滝を見に行った。滝というと、僕は先ず、ああいう滝を思い浮かべ
る。だけど、ビクトリアの滝はスケールが違った。地が裂けている。しかも想像を超えるサイズで。自
分が立っている高さと、滝の天辺の高さが大体同じだ。つまり、自分と滝の間に、巨大な地の割れ目が
あって、そこに轟音と共に水が100m下の谷底にドッと流れ落ちている。白い渋きを上げながら流
れ落ちる水は、スローモーションの様に下に落ちていく。ずっと眺めていても決して飽きない、

そして、滝つぼから上昇気流が起こるのか、谷間からは、常に水しぶきが天に向って吹き上がっている
。だから、暫く立っていると水浸しになる。しかも、アフリカらしく、岸壁には手摺も何も一切ない。
崖っぷちにどこまで近づくかは自分次第だ。

僕は渋きを浴びながら、暫く滝を眺めていた。「天地創造」思い浮かぶのはやはりその四文字だった。

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2008-01-20

2001年アフリカ・皆既日食(本出版に向けて・その14)

2001年アフリカ・皆既日食(本出版に向けて・その14)
会場を出ると、遠くに丘が見えた。「あそこの丘の上から日食を見よう」と思い、僕は丘の方角に歩き
始めた。良く晴れた昼下がり、会場を一歩出ると、静かで平和なアフリカの田舎の日常があった。建物
も何も無い、アフリカの草原。暫く歩くと喉が渇いてきた。丁度、ポツンと一件だけ家があったので、
僕はその家に水を貰いに行くことにした。

「すいません。」と言うと、お父さんが出てきた。一緒に小学校に入ったばかり位の子供も居た。お水
をもらい、御礼を言った。ところで、この人達はもうすぐ皆既日食が起こることを知っているのだろう
か。ふとそんなことを思い、僕はポケットからメガネを出した。

それは、皆既日食を見るための厚紙で出来たメガネで、レンズ部分には濃いフィルムが付いているので
、太陽を眺めることが出来る。日食は既に始まっているので、そのメガネで見ると、太陽が欠けている
のが解る。

「太陽が欠けているのがこのメガネで見えますよ。」とメガネをお父さんに渡した。お父さんは太陽を
眺めて、「ふーん。」と感心、子供にメガネを渡した。子供もずっと太陽を眺めている。その時、「ふ
っ。」と不思議な感覚があった。
「この感じ。」
僕は子供がメガネで太陽を眺めている様子を見て何故だか急に、原爆のことを考えた。広島に原爆が落
とされる朝、人々は何も知らずに日常を送っていた。そして一瞬にして世界が変わる。その原爆が落ち
る前の感覚。目の前の親子はこれから何が起こるかきっと解って居ないんだ。と勝手に僕は思い込んだ
。そして、のどかな昼下がりに何も知らずに無邪気にメガネで欠けている太陽を眺めている子供のその
風景が、何故だか、僕が体験したことのない原爆が落とされる日の朝の感覚に重なった。

「なんだったんだろう。今の感覚。」
僕は親子に御礼を言って、丘を目指しながら考えた。不思議な感覚だった。

丘に登ると、誰も居ないと思いきや、そこには物見ヤグラの様なものがあって、観光客が来ていた。そ
して、なんと不思議なことに、その観光客はインド人だった。インドから日食を見る為にザンビアに来
て、日食のタイミングでインド人に出逢うとは。

あと10分程で日食のピークを迎える。ピークは3時9分から3分15秒間続き、その間は太陽がスッ
ポリと月の後ろに隠れる。辺りはだんだんと暗くなってきた。だが、夕方の暗さと違う。色味がなんと
もいえない、独特の暗さになる。アーノルド・シュワルツネガーの映画「トータルリコール」に出てく
る火星の様な不思議な暗さだった。

そして、そこに居たインド人の顔を見ると、今まで見たことの無い、不思議な肌の色になっていた。そ
れまで暫くインドに居ただけに、肌の色が普段と違うことが余計良く解る。なんだか、「別の星の人」
と言ったら大袈裟だが、見たことの無い人種の色になっている。きっと僕の顔色も不思議な色だったこ
とだろう。

物見ヤグラからちょっと離れた木の上に、人が居るのが見えた。太陽を背にしているので誰かは解らな
いが、手首にオレンジ色のリストバンドが見えた。ということは、同じ日食パーティーの会場から来て
いる人だ。「それは名案。」と思い、僕も近くにあった木に登った。木に登ると、岡の上から周りの様
子が360度見渡すことが出来た。よし、ベストポジションだ。後は日食を待つのみ。いよいよ暗くな
り、鈴虫の様な虫の鳴き声や、犬なんかが鳴いているのが聴こえる。やはり、野生動物が変化に気付い
ている。それにしても、木に登っている人はどんな人だろう。ちょっと気になった。何故か、パーティ
ー会場で出逢った背の高いドイツ人のことを思った。「彼かな。」

と、いよいよ皆既日食が始まった。「パッ!」と照明を消した様に辺りが暗くなった。太陽は黒くなっ
ていて、輪郭がうっすらとリングの様に光っている。良く見ると、太陽の表面でオレンジっぽい火がメ
ラメラと燃えている様子がわかる。肉眼で見えるってことは、相当に巨大な火だと分かる。それは専門
用語では「紅炎」、「プロミネンス」と言うらしい。

そして黒い太陽の周りには薄っすらと白けたモヤがかかっていた。それは「コロナ」という太陽を取り
巻くガスだそうだ。

辺りを見回してみた。すると、地平線に沿って、空がうっすらとしたオレンジ色になっていて綺麗だ。
夕日の時のオレンジは太陽の周りだけだが、そのオレンジは、ほぼ360度、グルッと地平線を囲んで
いた。そして、空を見上げると星空が見える。西の空には黒い太陽。不思議な光景だ。

暫くして、突如、黒い太陽の一点が強く光り始めた。太陽が又姿を現し始めている時に見える「ダイヤ
モンドリング」と言われる現象だ。本当にダイヤの様に、強くて白い、綺麗な光だった。その光はどん
どん強く大きくなり、そして「パッ!」と又一瞬にして元の明るい世界に戻った。

鶏が鳴いているのが遠くから聞こえた。太陽が戻り、朝だと思ったのだろうか。そして、アフリカらし
い音楽も聞こえてくる。何処かで地元の人達が集まっていたのだろうか。

あっという間の3分間だった。丘の上で見ることが出来て良かった。僕は木を降りると、最初に木に登
っていた人の所に行った。彼もこちらに向かって来た。僕が思っていたドイツ人の彼では無かった。お
互い自己紹介をする。

彼は南アフリカで勉強しているドイツ人だった。
僕は、何故だかパーティー会場に居たドイツ人じゃないかと思っていたことを彼に告げた。偶然にも、
彼も木に登っていた時に、何故か日本のことを考えていたそうだ。「ふーん。」そんな話で盛り上がっ
た。彼はこれから直ぐに南アフリカに向けて出発するらしく、住所だけを交換すると、直ぐに丘を降り
て行った。

その時に握手をした。丘の頂上は農場同士の境界線だったのだろうか。有刺鉄線が張られていた。そし
て、何故か僕達二人は有刺鉄線のあっち側とこっち側に立っていて、握手はこの有刺鉄線越しだった。
そして彼は丘のあっち側から下って行き、僕はちょっとしてから来た通りの、丘のこっち側から下って
行った。なんだかそれが不思議だった。まるで、戦時中のドイツ兵と日本兵が握手をして、丘をそれぞ
れの方向に下って行く、そんな気分になった。

それから暫く僕は辺りを散歩して、オレンジ色に綺麗に沈む夕日を、一人原っぱで眺めていた。

待ちに待った皆既日食が終わった。満足感と共に、疲労感もあった。なんだか色々あった一日だった。
沈む夕日を見ながら、あの時の、原爆の朝を感じた感覚を思い出していた。そして、丘の上での不思議
な出逢いのことも。

日食パーティーはその後3日間続いた。そして、今度は会場を移して、アフターパーティー(後夜祭)
が行われた。場所はボブ島。ザンビアには世界三大瀑布のビクトリアの滝があって、ボブ島は、その滝
の源流のザンベジ川に浮かぶ島だった。周囲1.5km程の小さな島で、川辺からカヌーで渡る。

後夜祭には300人程が集まった。3千人の大パーティーと違い、こじんまりと楽しかった。日本人も
30人程居ただろうか。ある夜、キャンプファイヤーを眺めながら、僕は日食の時に感じた、あの不思
議な感覚について、日本人の女の子に話していた。その子に説明をしながら、僕はある事実に気がつい
た。というか、改めて考える機会を持った。僕の両親は、長崎に原爆が落ちた時、それぞれ、長崎市内
から100km圏内に居た。

僕が日食の日に感じたあの感覚は、遺伝子の記憶ではないだろうか。ということを話していた子に言わ
れて、「そうかも知れない。」と思った。

小学校6年生の時に、近所に住む同級生、寿司屋のきっちゃんから借りた「はだしのゲン」。読み終わ
った後は、夜、空を飛行機が飛ぶ音が聞こえる度に、原爆を落とされないかと心配した。今考えると有
り得ないことだが、当時、小学校の体育の先生が、「もしかしたらソ連が日本を攻めてくるかも知れな
い。」なんてことを話していたからだった。当時は冷戦最中で、そういう可能性も無きにしもあらずだ
ったのかも知れない。それにして、小学生にそんな話をするとは、今思うと、その先生も困ったものだ
。小学生の心って本当にデリケートなんだと、これを書きながら思ってしまう。

なんか話があちこち飛ぶが、日食の時の不思議な体験は、「もう二度と(原爆を使うような)同じ過ち
をしてはいけないよ。」という太陽からのメッセージだったのかも知れない。

後夜祭では生まれて初めてスウェットロッジを体験した。スウェットロッジは、北米インディアンのラ
コタ族に伝わる儀式で、Body(身体)、Mind(心)、Spirit(魂)の浄化と統合の儀式だそうだ。スウ
ェットロッジはインディアンの言葉では”イニィピー” と呼ばれ、それは「子宮回帰」を意味するそう
だ。子宮をシンボライズした半円球のドームの中に焼石を入れ、水を注ぎ蒸気が舞い上がる中で瞑想す
る。後夜祭に参加していたイギリスの人達数人が手造りで、島の川辺に作ってくれた。僕はどんなもの
か詳しいことは分からずに、兎に角そのセレモニーに参加した。

セレモニーは夜に行われた。口コミで伝わっていて、僕はたまたまボランティアスタッフの女性からセ
レモニーのことを聞いて参加した。集合時間に行ってみると、なんと参加者は全員女の子だった。男は
セレモニーを取り仕切る人と僕の二人。残り11人が女性で計13人だった。

生まれて初めてのインディアンの儀式。僕はアメリカのシアトルで生まれたので、インディアンには特
別な思いがある。取り仕切るのはインディアンでは無いが、僕は初めてのインディアンの儀式に最大限
の敬意を払おうと思った。スウェットロッジのルールや、詳しい意味は良く解らないが、僕は勝手に「
無言の行」をすることにした。正直、11人の女性は何故だか綺麗な子が多かった。そして、皆水着に
なって、小さな半円形のロッジに入る。僕の両脇には、これまた困ったことに、ブラジルの金髪の女の
子と、イギリスの黒髪の女の子で、思わず話し掛けたくなるような子達だった。

「水着のギャル達とアウトドアサウナ」と思えば、気持ちは開放的になれたのだが、「インディアンの
儀式」ということで、僕なりに考えて、彼女達とはセレモニーの間は一切喋らないことを心に決めた。
13人全員が中に入り、入り口が塞がれた。真っ暗闇だ。取り仕切る男性が水を石にかける度に、「ジ
ューーッ」と蒸気が上がり、室内の温度が上がる。本来は、ロッジの中で皆で歌ったりするらしいが、
その時は確か、皆何も言わずに瞑想していた。こういうのを「暗黙の了解」と言うのだろうか。示し合
わせた訳では無いのに、儀式の最中、しゃべる人は居なかった。

10分程中に居たのだろうか。熱くなり、皆で外にでた。体から湯気が立ち上る。星空が綺麗だった。
初めてのスウェットロッジが終わった。外には、石を温めていた焚き火があった。僕は服を着てそこに
座った。そして火を見つめる。「これは一体何の儀式だったんだろう。」と考えた。

僕は勝手に、これはインディアンとして生まれ変わる儀式だと解釈した。僕はもし自分がインディアン
になったらインディアン名は何だろうと考えた。例えば、映画の「Dance with wolfs」で主人公のケビ
ン・コスナーがインディアンから「Dance with wolfs」という名前を貰った様に。

火を見ながら、そんなことを考え始めた。僕はその晩、一人でずっとその火を眺めていた。会場からは
トランス(という音楽の種類)の「ドッドッドッドッ」という音がずっと聞こえる。「トランス」は心
臓の鼓動に似ていると言われている。「ドッドッドッドッ」という一定のリズムに色んな旋律が乗って
いる。どうもこの一定音をずっと聞いていると覚醒し易い様だ。僕はザンビアに来てからの数日間、ず
ーっとこの「ドッドッドッドッ」という音を聞いていた。これは、言わば赤ちゃんが胎内に居る状態だ
。会場は母の胎内の如く、「ドッドッドッドッ」という音の羊膜に包まれている。

僕はある時ふと考えた。「世界中からこのレイブパーティーに集まった人達は、(僕を含めて)赤ちゃ
ん帰りをする為に集まっているんじゃないだろうか。」

「ということは、レイブパーティー好きは、胎児の頃を懐かしむ、甘ったれの集まりってことになるの
かな。」勝手にそんな解釈をしていた。

そして、僕は其の晩、スウェットロッジの火を見つめながら「ドッドッドッドッ」という音に合わせて
、「アン、ジン、ミー、ピー、ジー、パー、ヤー、イン、ファー、ディン」という10の言葉をずっと
心の中で唱えていた。これは気功の「十訣」と言われるもので、東京のIQ3で仕事をしていた時に出逢っ
た気功の先生に教えて貰ったもので、赤ちゃんが母親の胎内に居る時に聞いている10種類の音だそう
だ。それぞれの音に漢字がついていたが、僕はとにかく音としてこの10の言葉を覚えていたので、リ
ズムに合わせてずっと唱えていた。

そして、唱えながら僕のインディアン名を考えていたが、何も浮かばなかった。僕は火を眺めながら、
今日はこの火の番人になろうと思った。生まれて初めてのインディアンの儀式、スウェットロッジに使
う石を暖めたこの火を今日は僕が守ろう。そう思って、僕はその夜、ずっとそこに座っていた。

やがて、カップルがやって来た。イギリス人だった。女の子は、さっき僕と一緒にスウェットロッジに
入った子だった。男の子は、僕が今守っている火を最初に付けた人だった。彼はスウェットロッジの準
備をする為に火を起こしていて、手を火傷してしまったそうだ。それで、儀式には参加出来なかったら
しい。3人で暫く、あれやこれやと話をしていた。

二人は又、踊りに行った。僕は相変わらず火を眺めながら、また、「ドッドッドッドッ」という音に合
わせて、「アン、ジン、ミー、ピー、ジー、パー、ヤー、イン、ファー、ディン」という10の言葉を
ずっと心の中で唱えていた。唱えながら、又自分のインディアン名を考える。僕の名前、コウイチは漢
字で書くと、宏一で、「宏」は「広い」とか、「大きい」という意味だ。で、「一」。だから、英語で
言うと”Big One”になる。「そうだ、Big Oneだ!」僕のインディアン名が決まった。なんだか知らな
いけど、満足感があった。

やがて、空が明るんできた。川の方を見ると、枯れた木の上に鳥がとまっている。西の方を向いている
。「西に向かえってことかな。」と思った。その夜は、インディアンになった気分で、何でも自然のサ
インが意味ありげに思えた。

そして、夜明け前、空がピンクに色付いた頃に、会場の方から、誰かが叫んでいる声が聞こえる。その
声は、なんと、「Big One!」と言っている。僕は一瞬耳を疑った。彼は何度も「Big One!」と声を上げ
ていた。友達の名前か?何かは分からないが、兎に角、有り得ない様な偶然だが、確かにその声を聞い
た。

かくして、僕のインディアン名は、自分で勝手に「Big One」と命名された。

さっきのカップルが戻って来た。その日7月6日は満月で、尚且つ部分月食だった。そして、月食は朝
方に起こった。空がピンク色に色付く頃、満月の月食が始まった。川の向こうに、何時もよりも大きな
満月が地平線近くに「ドン。」とそびえている。そして、その月がなんと、朝もやの中、淡い赤紫色の
様な、今まで見た事が無い不思議な色になった。僕達3人は、川辺に降りて、月を見に行った。カップ
ルは、月の方に歩いていく。僕は川辺に立っていた。二人の姿と、大きな、不思議な色の月が重なる。
何故だか急に、二人がイギリスのテレビマスコットのテレタビーみたいに見えてきた。不思議な色の月
が、そんな錯覚を誘ったのかもしれない。

アフリカ大陸のザンビアに来て、21世紀初の皆既日食と、その後に部分月食も体験して、一つの旅の
区切りが付いた気がした。でも、旅はまだまだ続いた。

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2008-01-19

everblue 2008年 1月号

everblue 2008年 1月号
1月10日に発刊されたフリーマガジン、”everblue” 2008年 1月号の14〜21頁に記事が載りま
した。ウェブマガジンでもご覧になれます。デジタル版エバーブルーの今月号をクリックしてみて下さ
い。巻頭企画です。よっ!

http://www.everblue-mag.com/

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2008-01-18

世界放浪の旅、インドからアフリカへ。(本出版に向けて・その14)=?ISO-2022-JP?B??=

世界放浪の旅、インドからアフリカへ。(本出版に向けて・その14)=?ISO-2022-JP?B??=
テレビではずっと王室が殺されたニュースが流れていた。結婚に反対された末息子が逆上して家族全員
を殺したという説明だった。そして、その日王室を護衛していたという男性が王室内の見取り図を見な
がら、その夜王室で何があったかを克明に説明している映像が何度も流れていた。

「息子が逆上して家族を殺害したなんて嘘だ。」ポカラをガイドしてくれていた青年は言っていた。「
殺された王様は皆に愛されていたんだよ。マオイスト(共産主義政党)からも人気だったんだ。彼が死
んだのは本当に悲しいことだ。」

宿のスタッフや食堂の店員などから話を聞いても、殺された王様は本当に民衆から支持されていたこと
が伝わってきた。何よりも、本当に皆元気が無い。

テレビからは相変わらず護衛していた男性の証言映像が繰り返し流れていた。なんだかその映像がうそ
臭く見えてくる。実際にはその夜、一体何が起こったんだろう。と僕も不思議に思い始めた。

新しい国王には、結局殺された国王の弟が即位した。彼が事件の黒幕であるとの専らの噂だった。今、
当時の記事を見ていても、やはりその説が濃厚なようだ。でも噂は噂。真相は解らない。

事件のあった数日後、僕達3人はレンタルした自転車に乗ってポカラの住宅街を走っていた。すると、
遠くにちょっとした人だかりが出来ているのを発見した。そこは緩く傾斜した坂道で、道沿いの家の2
階の窓からは皆顔を出して外の様子を伺っている。僕達は坂の下に居た。どうも坂の上で政府と市民が
なにやらぶつかり合っている様だ。

僕達は「ちょっとマズイな。」と思いつつ、怖いもの観たさで、ゆっくりと坂道を登り始めた。坂の上
の様子は未だ遠くて詳しくは見えない。僕はある程度まで近づくと、そこで止まって様子を観ていた。
ソフィとヤスミナは更に近づいていく。坂の上の人だかりは、右奥に消えていき、見えなくなった。向
こうに行ってしまったのだろうか。と思った次の瞬間、「ドッ!!。」と人の群れが坂を駆け下りてき
た。政府(恐らく警察だったと思う。)が市民を威嚇する為に車で群集に向かってきた様だった。現場
の詳細は解らないが、兎に角人の群れが坂を駆け下りてくる。ちょっとしたパニック状態だった。

僕は坂の外れにしゃがみ込んだ。ソフィとヤスミナが勢い良く自転車で駆け下りてくる。ヤスミナの驚
きの表情が今でも忘れられない。僕は二人を呼びとめた。が、二人は僕を通り過ぎて、間も無く止まっ
た。坂の上の騒ぎが一旦治まった。ほんの一瞬の出来事だったが、恐ろしかった。暴動はこんな風にし
て起こるんだと体で教えられた。「君子危うきに近寄らず。」やっぱり「怖いもの観たさ」はろくな結
果を生まないことを教えられた。僕達は直ぐに宿に帰った。

テレビにはカトマンドゥの暴動がニュースになっていた。民衆が手にした旗を燃やしている映像が映っ
ていた。このまま暴動がネパール中に広がるんじゃないか。そしたら国を出られなくなってしまうかも
知れない。そんなことを考え始めた。

僕達はネパールを出ることにした。国境を越えてインドに入った時はホッとした。

あれから7年近く経つが、ポカラの青年はどうしているだろうか。ポカラは居心地が良かった。という
か、ネパールは居心地が良かった。そして、食事がとても美味しかった。彼等の主食はダルバートと言
って、豆スープがたっぷりとかかった御飯にホウレン草みない濃い緑の野菜が付いていた。それを手で
食べる。ポカラでお気に入りのダルバート屋を見つけて、朝、晩2回、大盛りのダルバートを食べてい
た。それだけ食べても飽きが来なかった。朝起きると、体がダルバートを欲していた。インドに比べて
、御飯がしっとりとしていて美味しかった。

ネパールには最近、平和省が出来たと聞く。あの悲惨な事件を乗り越えて世界の一歩先を行く平和な国
になっているのだろうか。ネパールには是非又行きたい。

国境を越えて、インドのニューデリーに来た。ソフィーとヤスミナは、そろそろフランスに帰る時期が
来ていた。僕はインドからアフリカに行くことにした。

3年9ヶ月の世界放浪の旅の間、日本に帰りたいとは余り思わなかったが、インドを旅している時にふ
と、「もう日本に帰ってもいいかな。」と思ったことがあった。アンダマン諸島に行っていた時だった
だろうか。でも結局その考えは長く続かなかった。2001年の夏至にアフリカのザンビアで行われる
皆既日食の集いに参加することを決めたからだった。

皆既日食の話を聞いたのは、2000年、東京でだった。僕はマディという路上詩人と友達になった。
彼の友人が99年8月、ハンガリーに皆既日食を見に行ったそうだ。

99年8月にはグランドクロスという、四つの惑星が十字に並ぶという珍しい天体現象があって、その
グランドクロスの数日前に起こった皆既日食を見たマディの友達(女性)は、日食を見てエクスタシー
の境地を味わったという話を聞いた。マディのまるで自分が日食を体験したかの様な上手な話し振りに
僕はすっかり惹きこまれて、それ以来、皆既日食が気になっていた。
99年の欧州での皆既日食は8月18日で、僕は99年8月31日に、商社の出張でポーランドに行っ
ていた。あと2週間早く出張に行ければ日食に遭遇していた訳だ。

そんな訳で、2001年の夏至にアフリカのザンビアで日食が見られると知り、僕はインドからザンビ
アに行くことを決めた。ニューデリーからザンビアの首都ルサカまでの往復チケットを買った。ザンビ
アでは日食に合わせてレイブ(野外ダンスの祭り)が1週間開催される。僕はそこを目指すことにした

ソフィーとヤスミナがフランスに帰る日が来た。結局4ヶ月近く、一緒に旅をしていた。僕はそれまで
、自分は以外と国際的な感覚というか、無国籍な感覚というかを持った「粋」な旅人のつもりでいたが
、彼女達と一緒に居て、自分がやっぱり日本人だってことに気付かされた。ヤスミナに良く言われてい
た。
「コウイチは何かって言うと、“日本では、日本では”って。貴方相当に日本が好きなのね。」そうか
、それは気が付かなかった。旅をすると、色んな自分に気付かされる。

フランス人の特徴なのか、たまたまそういう二人だったのか、ソフィとヤスミナは何でもズバズバ言う
のが面白かったし、時に恐ろしかった。次の日から二人の冗談が聞けなくなると思うと、ちょっと寂し
かった。

二人がフランス語でずっとしゃべっているのをただ、ボーっと聞いているのも結構好きだった。耳に心
地良い言葉だった。

最初はソフィのことが好きだった。ソフィもヤスミナもそれを知っていた、だけど残念ながら恋沙汰に
は進展しなかった。でもそれで良かった。お陰で、3人で楽しく旅が出来た。旅を続けるうちに、僕の
二人への感情は、なんだか兄弟に対するものみたいになっていった。貴重な旅仲間に出逢うことが出来
た。

二人のお陰で最高のインド・ネパールの旅になった。

ニューデリーでは何故かチベット人が「猿岩石旅行社」というお店を開いていた。そこで偶然、これか
らザンビアの皆既日食パーティーに向かうキンジさんという方に出逢い、一緒の飛行機でザンビアのル
サカに向かった。

ニューデリーからエチオピア航空でアジスアベバ経由でルサカに向う。スチュワーデスは勿論エチオピ
ア人で、スラッと背が高く、白い民族衣装が似合っていた。顔立ちは凛々しくてエキゾチックだった。
空から見たエチオピアの景色は、以外と緑が多かった。たまたま、山岳部が見えていたのだろう。

そしていよいよルサカに到着。タラップを降りて初めて踏むアフリカの大地。やって来ました。アフリ
カ。

昭和46年生まれの僕はテレビと共に育った世代。「野生の王国」や、「わくわく動物ランド」、「な
るほどザ・ワールド」で見るアフリカは、象やチーター、キリンやサイがその辺に沢山いて、マサイ族
みたいな原住民が色とりどりの衣装を着ていた。自分にとって一番エキゾチックな土地、アフリカ。そ
のアフリカの大地を今、踏んでいる。気分が高揚した。
空港から街まではライトバンを改造した乗り合いタクシーに乗った。夕日が綺麗だった。そして、何よ
りも驚いたのは雲が巨大だったことだ。「ドーーン!」と空一杯に広がる雲。アフリカの大地が遠くま
で、づーっと続いていることが容易に想像出来る。そんな雲だった。

一週間の皆既日食パーティーの会場はルサカ郊外の農場だった。そのパーティーには3千人が集まって
いた。欧州、北米を中心に、南アフリカの若者、そして何故か日本人とイスラエル人が多かった。

僕は早速その農場の周りを散歩してみた。天気はずっとカラっと気持ち良く晴れていて、乾燥していて
気持ちが良かった。裸足であるいてみた。土も乾いていて気持ち良い。暫く歩いていると、突如足の甲
に痛みが走った。「イテッ!」観ると、小さなアリが何匹か僕の足の甲に噛み付いている。僕はアリの
行列を踏んだらしい。かなり痛かった。アフリカの洗礼を受けた様だった。流石アフリカ。アリの勢い
も日本とは全然違う。以降、裸足で歩く時は足元を注意するようになった。

日食パーティーには一芸を持ったユニークな若者が集まっていた。中でも、ファイヤーダンスをするダ
イ君という日本人の若者には驚いた。「ポイ」という本来はマオリ族の女性が儀式に使う道具に火をつ
けて、音楽に合わせて格好良くグルグルと回す。

この「ポイ」を初めて見たのは香港人の友達、ローレンスをニューヨークに訪ねた時だった。「これ、
面白いんだよ。」とローレンスが8帖程の狭い部屋でクルクルと回してくれた。一瞬で僕はポイの虜に
なった。早速僕も一つ買って、旅のお供として持っていた。簡単に構造を説明すると、紐の先に重りが
付いていて、その重りにはヒラヒラと尻尾のような布が付いているから、紐の端を持ってクルクル回す
と、綺麗な円模様が現れる。新体操のリボンみたいなものだが、回すパターンは無限と言って良い程あ
り、奥が深い。

ダイ君が使っていたのは、チェーン紐の先に、不燃布が尽いていて、それに灯油を染み込ませて火を付
けて回すタイプで、「ファイヤーポイ」と言われていた。

彼がクルクルと火を回している姿は忍者を思い起こさせた。でっかい水晶を片手の手のひらで、なんと
一度に四つも回す仲間も居た。彼らはプロの大道芸人だった。そして、彼らがパフォーマンスをすると
、いつも人だかりが出来た。

「そうか、こんな一流の大道芸をする日本人が居るのか。」彼等の存在はなんだか頼もしかった。そし
て僕はこの日食パーティー以降、いっそうポイの練習に精を出した。あの時の日食パーティーで「ポイ
ファン」になった日本人は僕だけでは無い筈だ。

そしていよいよ皆既日食当日の6月21日が来た。日食は午後3時頃にピークを迎える。パーティー会
場には朝からソワソワした空気が流れた。一体どんな体験が待ち受けているのだろう。お昼が過ぎ、日
食までいよいよあと数時間と迫ってきた。

僕は盛り上がるパーティー会場から外に出て、散歩に出かけた。会場から離れた処で一人になって日食
を見る為に。

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2008-01-17

2001年インドからネパールへ (本出版に向けて・その13)

2001年インドからネパールへ (本出版に向けて・その13)
アンダマン諸島での1ヶ月はあっという間に過ぎた。火を一切使わない先住民族が住んでいる島は旅行者
は残念ながら立ち入り出来無かった。1ヶ月間、蒼い海を満喫した。ほぼ毎日のように海に泳ぎに行って
いた。シュノーケリングをすると、沢山の魚が居た。ブダイは70cmはあった。何時も群れで白くな
った珊瑚を食べていて、珊瑚をガリガリを噛む音が聞こえた。島にはポツポツと生きた珊瑚が点在して
いた。その昔、ダイナマイトを使った漁が主流で、サンゴの殆どを破壊してしまった様だった。勿体無
い。

アンダマン諸島から今度は3日間船に乗って、マドラスに着いた。そこからインド南部を旅して、ハンピ
という街に辿り着いた。ハンピの周りには巨石が沢山集まった山がそこかしこにある。ハンピの都市遺
跡は、14世紀前半にヒンドゥ教を奉ずるヴィジャヤナガラ王国の首都として建設が始められて世界遺産
になっている。

そんなハンピの街を一人でふらふらしていると、向こうからソフィとヤスミナがやって来る。その横に
は少年が一緒に歩いていた。歩いていたというか、正確には四つん這いだった。身体障害を持った少年
だった。

ソフィとヤスミナが友達になった少年は重度の障害を持っていて、四つん這いでしか歩けなかった。し
かも手足は凄く細い。正直、最初彼に出逢った時僕はちょっとうろたえた。普通の人間の体型とは大き
く違う。インドでは驚いたことに、何処に行っても大概手や足が無い人が物乞いをしている姿を見かけ
た。最初は驚いたけど、旅が続くに連れて見慣れてしまう。慣れとは凄いものだ。でも彼程の障害を持
つ人は見たことが無かった。

彼は友達と二人で住んでいた。数日間ハンピで過ごす間に彼等と一緒に遊んだ。正直、僕一人で旅をし
ていたらその少年とは友達にはならず、遠くから眺めるだけだったかもしれない。段差がある処を歩く
時は皆で順番に彼をオンブした。びっくりする位軽かった。

ハンピをあと数日で出発しようという時に、ソフィーとヤスミナが言った。「あの子に車椅子を買って
あげたい。」びっくりした。

ソフィーとヤスミナは決して沢山お金を持っている訳では無い。ヤスミナは失業手当を使って旅をして
いる。フランスでは日本と違ってはハローワークスに通わなくても失業手当が口座に振り込まれるから
、旅をしていても大丈夫な訳だ。それにしても、インドーフランスの往復航空券と旅での生活費でギリ
ギリ位の手当てを使って、車椅子を買ってあげようというアイディアが思いつくのが驚きだった。

二人の正義感の強さに心打たれた。この優しい心は何処から生まれてくるのだろう。普段は二人でずっ
と馬鹿話をして、宿を一歩も出ない日も沢山ある様な二人が、突如マザーテレサの様に見えてくる。

僕もそのプランに参加。僕達は早速次の日、隣町まで車椅子を買いに行った。ソフィとヤスミナは既に
情報を仕入れていて、隣町の何処に行けば車椅子を買えるかを知っていた。その車椅子は手で漕ぐタイ
プで、その車椅子に乗れば、あの少年でもデコボコ路でなければ手漕ぎ自転車の感覚で自由に街を行き
来することが出来る。注文をすると、ハンピに届けてくれるのは翌日ということになった。

ソフィとヤスミナはその日の夜行バスでネパールに向かう予定だったので、ハンピに残る僕が責任を持
ってその車椅子を受け取ることになった。

二人はネパールのカトマンドゥで友達と待ち合わせていて、僕はハンピからゴアに行こうと思っていた

車椅子のレシートを少年に渡して、受け取りを彼に任せることも出来たが、ソフィは少年が車椅子を手
にする前に返品してお金に変えてしまうことを心配していた。実際に車椅子に乗ってその便利さを体で
理解すれば、返品してお金に変えるという考えを無くすだろう。ソフィはそこまで考えていた。確かに
その通りかもしれない。僕はこれまた感心してしまい、もう一泊ハンピに残って車椅子の到着を待つこ
とにした。

その晩、ネパールに向うソフィとヤスミナを送り出した。2ヶ月の旅仲間。正直僕はソフィに心魅かれ
ていたので、なかなか寂しい別れだった。それにしてもこの二人には色々と旅の楽しみ方を教えて貰っ
た。

彼女達が去り、一人部屋で彼女達との日々を思い出していた。すると、彼女達が戻ってきた。バスに乗
り遅れたか、バスが出なかったか、どちらか忘れてしまったが、二人が帰ってきた。「お騒がせだね。
」なんて言いながら嬉しさを隠せない僕であった。

次の日の夕方、隣町から車椅子が届いた。少年は嬉しそうに手漕ぎの車椅子に乗っていた。僕達には満
足感があった。その後、あの少年はどうしただろう。あの車椅子を使い続けただろうか。それとも、売
ってしまっただろうか。結果が何れであれ、僕はソフィとヤスミナのアイディアに参加出来て良かった

ハンピのそんな出来事を終えて、ここで別れるのもなんだから。ということで、僕達は3人でネパールを
目指した。そもそも旅人の予定なんてあって無いようなもの。ゴアには又何時か来ればいいし。という
ことで、僕も急遽インドからネパールを目指すことにした。

アジャンタ、アグラの遺跡は神秘的だったが、夜も35度近くあるのには閉口した。水をコンクリートの
床に撒いても、20分も経たないうちに乾いている。

ニューデリーからカトマンドゥまでは電車とバスを乗り継いだ。国境越えのバスは激混みで、僕は生ま
れて初めて屋根席を体験した。高校生位の子供達で溢れかえるバスの屋根。たまに道路を横断するよう
に電線が走っていて、バス添乗員の少年の掛け声と共に皆、一斉に頭を下げた。その度に盛り上がる。
お陰で楽しく旅が出来た。

一年ぶりのネパール。2000年の5月、僕は東京でアイキュースリーという会社に勤めていて、レイドゴロ
ワースというアドベンチャーレースを観にネパールに来た。あれから丁度一年。偶然にも、僕がインド
からネパールに国境を越えた日は、1年前に僕がネパールに到着した日と一緒の日だった。

カトマンドゥはインドのゴア、アフガニスタンのカブールと並んで、ヒッピーの3大聖地と言われていた
だけあって、無国籍な感じのする居心地の良いカフェが沢山あってしかも安かった。そして、日本食屋
も結構充実している。ソフィとヤスミナと3人で日本食屋に行くと、日本の漫画に飢える長旅旅行客がた
またま集まっていたのか、2−3人の日本男児が、皆黙々と漫画を読んでいた。「日本人の男はどうして
そんなに漫画が好きなの?」と二人に聞かれても「たまたまでしょ。」としか答えられなかった。

カトマンドゥで待ち合わせる筈のソフィとヤスミナの友達は予定が変わって来なくなり、僕達は突如予
定が何も無くなった。
「そうだ、僕がクンバメラで出逢ったババ達に逢いに行って見よう。12年間しゃべらないババとか、面
白い人が沢山居るんだよ。」僕はこれは名案とばかり彼女達を誘った。

彼らの住所も何も知らない。ただ知っているのは「ダヌシャダム」という地名だけ。でも行けばなんと
かなる。という、根拠の無い自信が僕にはあった。「ふーん。」半信半疑で彼女達は僕のプランに乗っ
た。次の日、ダヌシャダムを目指す。

カトマンドゥからジャナクプールという街まで行き、そこで一泊。次の日またローカルバスに乗ってダ
ヌシャダムを目指す。ネパール南部は貧困地区が多く、バスは乾いた大地を奥地へ奥地へと走る。カト
マンドゥとは対照的な何も無い村を走り抜ける。

カトマンドゥを出た次の日の夕方、やっとのことでダヌシャダムに着いた。そこは旅人なんてとうてい
来ることは無いだろう、小さな村で、もちろん宿なんて無かった。小さな出店がポツンと建っている。
とんでもない田舎まで来てしまった。

僕は英語なんて通じない村の人に、ババは何処かと尋ねる。身振り手振りで。村人の答えは、「旅に出
ている。」と言っている様だ。まずい。こんなに長旅の末に、不在なんて。ソフィとヤスミナは冷やや
かな目で僕を見ている。それにしても誰か一人位居る筈だ。沢山居たババ達の中で唯一覚えているのは
「ラックスマンダッシュ」という、No2らしきババの名前だけだ。

「ラックスマンダッシュ、ホーム?」村人が指をさす。「あの家だ。」僕は最後の望みを懸けてその家
を訪ねる。子供が出てきた。「ラックスマンダッシュ?」旅に出ている。という様なジェスチャー。絶
望的。そうか。ババは全員旅に出るものなのか。ソフィとヤスミナに顔向け出来なかった。もう暗くな
っていて、次の日までバスは無い。宿も無い小さな村。

小さな屋台に戻り、途方に暮れていると、ジープが現れた。あれから7年。僕の記憶もいい加減だ。どう
してそこにジープが現れたのかが思い出せない。が、そのジープに乗せてもらって、僕達は宿があるジ
ャナクプールまで戻ってくることが出来た。

その一件で、僕はソフィとヤスミナに頭が上がらない状態になってしまった。

次は何処を目指すか。もう僕は何も意見しない。(出来ない)二人の意見を待った。「よし、動物を見
に行こう。」ということで、チトワン国立公園を目指した。

ライフルを持ったガイドと一緒に国立公園を歩いた。サイが茂みに隠れる後姿だけが見えた。相当に大
きかったが、お尻だけで物足りなかった。次の日は象の背中に乗って公園内を歩いた。目線も高いし、
動物も怖がらないせいか、前の日より格段に沢山の動物が見れた。「のっしのっし」と歩く象の背中に
乗るのは気持ちよかった。国立公園を出る時に、野生の孔雀が飛んでいるのが見えた。とても神秘的だ
った。このままずっと象の背中に乗って旅を続けたいと思った。

そしてポカラへ。ポカラはトレッキングのメッカだ。仲良くなった地元の青年がガイドになってくれて
サランコットという、8千m級の山が見渡せる標高2500m位の小さな集落までトレッキングに行った
り、満月の夜に湖で泳いだりして楽しい日々が過ぎていった。これまた青年達の名前が思い出せないが
、彼らは親戚同士で、一人はなんと10歳まで、そしてもう一人は7歳までお母さんの母乳を飲んでいたそ
うだ。沢山の旅人に出逢うから、英語も上手いし、日本語もちょっと覚えていた。「もうかりまっか?
ぼちぼちでんな。」なんて言葉を知っていた。フランス語も少し解っていた。そういう意味では、凄く
国際的な感覚を持った若者達だった。

ポカラは居心地が良くて、あっという間に日が過ぎていった。そしてある朝、ポカラの街を何時もの通
り歩いていると、なんだかいつもより人通りが少なく、活気が無いことに気が付いた。お土産屋に入り
、何気なく店員と話をして驚いた。

「ネパールの王様が銃殺されたんだよ。」
「息子が王室内で機関銃を乱射して家族を殺したそうだ。」
と告げる店員は意気消沈している。ポカラの街全体が意気消沈している様に感じられた。

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2008-01-16

2001年インドの旅・アンダマン諸島 (本出版に向けて・12)

2001年インドの旅・アンダマン諸島 (本出版に向けて・12)
2000年9月に日本を出発して7ヶ月が経っていた。フランスから来た女の子二人と一緒にインドのカルカ
ッタから4日間船にのって目指すアンダマン諸島は、ミャンマーの南に位置していて、4年弱の放浪の旅
の中で、一番日本に近い位置にあった。でも、気分としては、物凄い異国に向っている気分だった。ど
んな処だんだろう、アンダマン諸島。

噂ではアンダマンには火を使わないで暮らしている先住民族が居るそうだ。一体どうやって火を使わず
に暮らしていけるのだろうか。そんな先住民族に逢えるのだろうか。船の甲板にはクンバメラから同じ
ようにバラナシ、カルカッタと流れてきた旅人が沢山乗っていた。レインボーギャザリングで一緒だっ
た人達も沢山居る。

クンバメラに参加して以来、僕は大きな放浪の流れに乗っていた。行き先は自分で決めている様な、出
逢った仲間の流れに任せている様な、とにかく楽しそうな処に向かっている感覚だけはハッキリとあっ
た。「これが放浪の旅ってものなのかなー。」と船に乗りながらそんなことを考えた。久しぶりに日本
から持って来たMDを聞いた。良く世田谷ハウスで聞いていたFat Boy Slimや、サザン、友達の弟の音楽
。インド洋上で日本の生活を思い出す。東京で仕事をしていたのが遠い昔の様にも思える。

4日間船に揺られてやっと辿り着いたアンダマン諸島。観光客が入れる島は限られていて、船が着いたポ
ートブレアの町並みはインド本島と殆ど変わりが無かった。僕達はそこから更に船に乗って、小さな島
を目指した。(島の名前が出てこない。)結局その島に約1ヶ月僕達は滞在した。

宿は高床式の竹を編んだような小さな家が何件も建っているかわいい宿だった。部屋の中には扇風機と
マットがあるだけ。波の音が聞こえる気持ちよい宿だった。朝はキッチンからパンケーキを頼んで、昼
は適当に済ませて、夜はまたキッチンから魚なんかを頼む。たまには市場に魚を買いに行ってその魚を
料理させてもらう。そんな贅沢な生活を1ヶ月したが、3人のそれぞれの滞在費は2万円も掛かっていなか
った。

僕はソフィーとヤスミナに出逢って、旅の仕方を教えてもらった。バラナシで初めて出逢った時、僕は
90リットルはある巨大バックパックにパンパンに荷物を詰めていた。インドでは雪山に登ぼるかもしれ
ないと思い、冬装備も入っていた。そして、アーユルベーダ(インド版の漢方)に興味があった僕はや
たらとアーユルベーダの薬を持っていたし、アメリカから持って来た総合ビタミン剤みたいなものもあ
った。

二人に、「なんで貴方はそんなに薬一杯持っているの?」と驚かれた。そして、巨大なバックパックに
も驚かれた。対照的に、二人はお洒落にうるさい(というイメージの)フランスの女の子が半年近く旅
をするのに、二人ともなんと20リットル位の小さなバックパックしか持って居ない。驚いた。と共に、
自分のデカイ荷物が恥ずかしくなった。

僕は冬服を全て、バラナシの宿に預けた。後で取りに行くつもりで、結局バラナシに戻ることは無かっ
た。持っているだけで、殆ど飲まないビタミン剤も処分した。それなりに身軽になって、僕はバラナシ
を出た。二人との出逢いを機に、その後の旅の中で、荷物を最低限に減らすことを一つの目標にしてい
た気がする。インド以降、僕の荷物の量は格段に少なくなった。

そして、旅のスタイル。アンダマンの綺麗な海とシンプルな生活以外には何も無い島に1ヶ月滞在すると
いうアイディアは当時の僕には無かった。一人だったら、もっと色んな島に出掛けて居た。でも動き回
らなくても、綺麗な海はいつもそこにあって、ちょっと潜ると、色とりどりの魚が居た。2週間もすると
、宿のスタッフとも仲良くなった。市場に魚を買いに行くだけで楽しかった。一所にゆっくりと滞在し
て、そこでの生活を楽しむという旅のスタイルを教えて貰った。

ソフィーとヤスミナはとにかく良くしゃべる二人だった。フランス語なので、何をしゃべっているか解
らない。ので、こちらも全く気にならない。3人でしゃべる時は英語になる。ソフィーは蒼い目をした金
髪の大柄な子で、ベルサイユのバラに出てきそうな、気の強そうな女性だった。ヤスミナは黒い髪で、
ちょっと色黒でいつも冗談を言って笑っていて愛嬌のある、でも怒らせると怖い、そんな女の子だった

ソフィーはフランス人で、ヤスミナはフランスに移住してきたアルジェリア人で、なんと16人兄弟の16
番目の末っ子だった。16人兄弟というのはちょっと信じ難いが、お父さんが二人、奥さんを貰って8人づ
つの子供を産んだそうだ。流石イスラム教の国だ。

ヤスミナは、フランスに住んでいるけど、厳密に言えばアフリカ人で、そういう意味では、初めて出来
たアフリカ人の友達だった。

二人は良く、ボブ・マーレーをカセットテープのウォークマンで聴いていた。ヤスミナのお気に入りは
「アフリカ・ユナイト」だった。

We are the children of the rastaman
We are the children of the higher man

So, africa, unite, africa, unite
Unite for the benefit of your people
Unite for its later than you think

僕も何度もこの唄を聴いているうちに、この唄が好きになった。

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2008-01-15

世界放浪の旅、インド。うっかり一晩中走る。(本出版に向けて・その11)

世界放浪の旅、インド。うっかり一晩中走る。(本出版に向けて・その11)
クンバメラを終えて、先ずバラナシに向かった。バラナシの川辺の雰囲気は、なんとなくイタリアのベ
ニスみたいだと思った。インドなのに、ヨーロッパみたいな雰囲気があった。

クンバメラで沐浴を終えたババやサドゥーが沢山、川辺に住んでいた。川辺にはガートと呼ばれる沐浴
場が連なっていた。

バラナシでシバラトリというお祭りが行われるという前夜、ガートを歩いていると、突然沢山の子供達
が僕を追い抜いていった。しかも子供達の列は延々と続いている。時計を見ると11時を過ぎている。

「これはもしや、シバラトリの前夜祭が何処かで行われるのかもしれない。待てよ、深夜12時になっ
た瞬間にどこかでお祭りが始まるのかな。」
と勝手な解釈をして、僕はその長い行列に混じり、一緒になって走り始めた。

ほんの軽い気持ちで。

「どんな処でお祭りをやってるんだろう。」僕はワクワクしながら、一緒に走る。ビーチサンダルだっ
た。結構走った。走る速度が落ちる。子供達がどんどん僕を追い抜いていく。これだけ沢山の子供達が
走っているけど、一緒になって走っている観光客は一切居ない。

だんだんバラナシの街を抜けて、郊外にやってきた。勿論、土地勘が無く、どの辺りを走っているのか
全く分からない。「さては郊外の広場でお祭りやってるんだな。」僕は未だ、お祭りに向って走ってい
るということを信じて疑わなかった。

もう暫く走って、やっと目的地らしき処に着いた。子供達が沢山居る。そこはお寺だった。ただ、何も
やっている様子は無い。僕は子供達の流れに乗って、寺に入った。寺に入ると、子供達は勢い良く「カ
ーン!」と寺にある鐘を鳴らして、そのまま寺を出発し始めた。僕も沢山の子供達に続いて、「カーン
!」と勢い良く鐘を鳴らして、また一緒に走り始めた。

「あれ?ここが会場じゃ無かったのか。」僕は不思議に思いながら、未だ、お祭りを期待して一緒に走
り続けた。もう、バラナシを出て、1時間以上は経っていた。そこから又、暫く走った。大分クタクタ
だ。すると、また子供達が集まっている。そこは又、お寺だった。「お、ここか?!」と思いきや、子
供達はまた鐘を「カーン!」と勢い良く鳴らして、そのまま走り去っていく。「そうか。」薄々感づい
てはいたが、2つめの寺を出て、僕は確信をもった。これは祭りでは無い。というか、僕が期待してい
た様な、大きな広場に子供達が夜中に集まる様な祭りじゃない。どうもこの子供達は寺巡りをしている
様だ。しかもバラナシ中の子供達が集まっているんじゃないかっていう程の数で。今これを書きながら
思い出したが、しかもそれは全員男の子だった。

「乗りかかった船だ。一緒に走ってみよう。」僕は一緒に走り続けた。でも、それがどの位の間続くの
かは全く分かっていなかった。ビーチサンダルなので余り上手く走れない。三つ目の寺を過ぎる辺りか
ら、一緒に走る仲間が出来てきた。6−7人の子供達。きっと小学校6年生位だろうか。僕はヒンズー
語が分からず、彼らも英語は殆ど喋らなかったから、会話は殆ど無かったが、一緒に楽しく走った。

四つ目の寺を抜けた頃、そろそろきつくなってきた。時計も無く、はっきりした時間は解らなかったが
、もう3時間以上は走り続けている。子供達は「テッチャロ、テッチャロ!」という掛け声をかけなが
ら走っている。僕も最初は陽気に「テッチャロ、テッチャロ!」と声を出していたが、だんだんと元気
が失せて来た。何しろ、ビーチサンダルを履いた足が痛い。

子供達の中に親分的な子が居て、僕の走るペースが落ちてくると、僕の横に来て、「テッチャロ!テッ
チャロ!」と気合を入れに来る。映画に出てくる鬼教官みたいに。一瞬「この野郎」なんて気持ちも生
まれるが、お陰で気合が入り、皆に取り残されずになんとか着いていくことが出来た。そんな時間帯か
らはグッと彼らと一体感が生まれてきた。

その親分的な子がペース配分してくれて、途中でドブロクみたいなお酒を飲んだり、噛むと強い刺激が
あるタバコの様なものを口に含んだりしながら、体を休め休め、先を目指した。もう、どの位この寺巡
りが続くのか解らない。「テッチャロ!テッチャロ!」と大声を張り上げながら歩いていると、ちょっ
としたトランス状態に入る。足の痛みや、時間の流れを忘れてしまう感覚があった。気が付くと、うっ
すらと空が白み始めていた。

子供達の精神力に驚いた。彼らは未だ小学校6年生位なのに、皆で力を合わせて夜通し走り続けている

陽もすっかり昇り、朝になった。7つ目の寺に到着した。そこが最後のお寺だった。もう僕の足は殆ど
動かなくなっていた。これが最後のお寺と知って、僕はそこで走るのを止めた。一緒に歩いた子供達は
更に先を目指す。彼等が何処に行くのかはその時点では解らなかった。

そこは周りは畑ばかりの郊外で、何処なのかはサッパリ解らなかった。かろうじてリキシャーを見つけ
て乗り込む。もう朝の8時だ。実に8時間近く、走っていたことになる。

宿に着いた。宿のスタッフに聞くと、バラナシからお寺を七つ回って帰ってくる恒例の行事で、全部歩
ききるとなんと120キロになるそうだ。まあ、ちょっと割引いても恐らく100キロを越える距離を
あの子供達は走ったのだろう。僕は最後のお寺でリタイアしたので、恐らく70キロ近くを走った訳だ
。人生でそんな距離を走ることになるとは思わなかった。部屋に戻ると、クンバメラからバラナシまで
の電車が一緒で、一緒に泊まることになったイスラエル人のバウッフが丁度起きた処だった。僕はうっ
かり夜通し走ってきたことを告げて、ベットに横たわった。

間も無く、バウッフの友達の3人組が彼を訪ねて来た。皆で街に行き、シバラトリを観に行った。僕は
とても歩ける状態では無く、已む無く部屋で一人寝ていた。

昼過ぎに目が覚めた。ベットから立ち上がるのも大変な程、足が痛い。外の様子を観たいけど、ちょっ
とそこまで歩くのも一苦労。結局僕はそれから二日間は全く出歩けなかった。シバラトリの前夜祭で力
尽きて、本番のお祭りは全く見ることが出来ずに寝込んだ二日間。

その数日後、バウッフと僕と、フランスから来たソフィーとヤスミナの4人で次の街、プーリーを目指
した。

バウッフは初めて出来たイスラエル人の友達だった。僕より少し年上のクールで面白い兄貴分といった
感じだった。ソフィーとヤスミナは「シスター」と呼び合うパリから来た仲良しの女の子二人組みで、
4人での旅は楽しかった。バイクを2台借りてピクニックに行ったりして楽しい日々が流れた。

何処の街に行っても、クンバメラに行っていたという旅人に沢山出逢った。クンバメラからバラナシ、
カルカッタと皆、同じようなルートで旅をしている。そして次はアンダマン諸島に行く旅人が沢山居る
ことを知った。僕達も1ヶ月、アンダマン諸島に行くことを決めた。バウッフは西に向うことを決め、
カルカッタで別れることになった。

その日から3ヶ月程、ソフィーとヤスミナと僕の3人の旅が始まった。
僕達は3泊4日の船旅をして、一路アンダマン諸島を目指した。

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2008-01-13

2001年インド・いざ沐浴2 (本出版に向けて・その10)

2001年インド・いざ沐浴2 (本出版に向けて・その10)
いよいよサンガムに到着した。

うっすらと辺りが明るくなって遠くの様子が見えてくる。驚いた。見渡す限り人だらけだ。緩く傾斜し
た川辺には沐浴する人で溢れている。川の対岸にも人が溢れている。
夜明け前、一番冷え込む時間だ。皆、震えながら沐浴に向かう。老いも若きも、男も、女も。「これが
クンバメラか。」その場の空気を感じながら、初めて、なんとなくだけどクンバメラの意味が分かり始
めた。

人で溢れる川辺を眺めていると、もう今が一体何年なのか分からなくなる。西暦50年と言われれば、
そのまま頷けてしまう光景。数千年来変わらないだろう風景がそこにあった。

だんだんと朝日が昇るにつれて、沐浴する人達のエネルギーが高まってくるのが感じられた。圭君と僕
も興奮気味だ。空を見上げると、川の一方に満月が沈む。さっきまでちらほらと見えていた星はもう無
い。そして、その反対側からは朝日が昇り始め、そらがオレンジ色に染まってきた。明るくなるにつれ
て、人の姿もハッキリと見える様になってきた。インドの女性達は皆、色とりどりのサリーを着ている
。朝日が上がると共にそのサリーの色が朝もやの中に鮮やかに浮き出てきて幻想的だった。

僕達は勢いに乗って服を脱ぎ、一気に川に入った。水は冷たかったが、興奮していて、寒く感じなかっ
た。爽快だった。頭からザブンと川に入る。。その数日前にキャンプ地近くのガンジス川にも入ってい
たが、そこよりも流れが速かった。そして水も澄んでいる。

辺りを見渡すと御爺さんもお婆さんも、大人も子供も、気合を入れて川に体を浸している。朝もやのそ
の光景はこの上なくめでたい感じで、日本の元旦の初詣に近い感覚を覚えた。インドの人達にとっては
、それは144年に一度しかこない、とてつもなく大事な元旦だった訳だ。

僕は何度も全身川に浸かった。圭君を見ると、圭君はインドの修行僧らしく、慎ましく静かに沐浴して
いた。それを観て、僕もザブザブと入るのを止めた。

川から上がり、服を着る。体がホカホカと温かい。

気がつくと、陽はすっかり昇り、快晴の朝になっていた。沐浴を終えた女性達がサリーを乾かしている
。サリーは長い一枚の布なので、色とりどりの長い旗が沢山揺れている様に見える。

沐浴を終えて、クンバメラに来た目的を果たせた気がした。満足感。そしてとても清々しい気分。ニュ
ーヨークで2001年初めての満月に、ひょんなことから公園の集まりに参加してクンバメラのことを
知り、その次の2月の満月の朝にクンバメラの会場、インドの聖地サンガムで沐浴をした。そして、こ
のサンガムからインド放浪の旅が始まった。

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2008-01-11

2001年インド・いざ沐浴 (本出版に向けて・その9)

2001年インド・いざ沐浴 (本出版に向けて・その9)
今日はちょっとだけですが。。

昨日から、いよいよ氷点下。お風呂の蛇口が凍りついたり、大家さんの車のバッテリーが上がったりと
、北海道での越冬初体験を日々楽しんでます。身が引き締まる寒さ。気持ち良いです。

======================================


レインボーギャザリングのキャンプ地はクンバメラの会場内にあった。クンバメラの会場といっても、
ゲートがある訳でも無く、とにかく沢山の人達が三つの川の合流地点のサンガムの周りにテントを張っ
ている。その様子は突如巨大な村が出現した感じで、想像をはるかに超えるサイズだった。だから、サ
ンガムの沐浴する場所までは、僕達のキャンプ地からは5−6km離れていた。ゆっくり歩いて1時間
半。

圭君と僕は朝日を拝みながら沐浴する為に3時半にキャンプ地を出発。寒かった。1月末のアラハバッ
ド。朝方は10度近くまで気温が下がる。

サンガムに近づくにつれて、どんどん人が増えてきた。驚いたことに、沢山の人が地べたに寝ている。
恐らく、144年に一度の満月の沐浴の為に遠くから来て、朝方仮眠をとっているのだろう。それにし
ても、皆、ペラペラの布一枚位しか持っていない。凄い生命力だ。

未だ暗いなか、沢山の人達がサンガムを目指して歩く。僕達もその流れに入って黙々と歩き続けた。い
よいよサンガムが近い。もうかなりギュウギュウに込み合ってきた。後で気が付いたが、リュックに入
れたカメラが無くなっていた。

放浪の旅のスタートするや否や、デジタルビデオカメラを空港で無くして、インドの旅をスタートする
のを機に、ニューヨークで買ったフィルムカメラ。そして大量に買い込んだ36枚撮りフィルム。ネパ
ールのババを撮った写真なんかは、結構良い出来だったんじゃないかと思うが、インドに着いて2週間
も経たない内に又カメラが無くなった。

これはもう、今回の旅は一切記録に残すなってことかな。と勝手に解釈して、結局僕は4年弱の放浪の
旅の様子を一切カメラで撮ることは無かった。

今思えば、ちょっと位写真を撮っても良かったんじゃないかとも思うけど、写真に撮らない分、僕は旅
の全ての時間をリアルに感じることが出来たと思う。でも、そんな説明よりも、旅をしている時は、「
とにかくそれでいいんだ。」っていう、割り切った気持ちがあった。写真は時に余りにもその情景を克
明に残し過ぎるので、他の記憶が薄まってしまう気もする。全く写真が残って居ない分、3年9ヶ月の
世界放浪の旅の記憶は全部の時間が同じくして僕の心の中に残っている。

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2008-01-10

2001年インド・ババとの出逢い (本出版に向けて・その8)

2001年インド・ババとの出逢い (本出版に向けて・その8)
レインボーギャザリングの人達は、ドレッドヘアー、麻の生成りの服を着た人が多くて、小さな子供連
れも沢山居た。なんだか中世の西洋の森にタイムトリップして、森の奥深くに住んでいる一族に出逢っ
た様な気分になった。滞在費は無料。食事は毎食配給されて、食後に「マジックハット」と呼ばれる帽
子が回ってきて、好きな金額を寄付する。良く出来たシステムだった。

皆、思い思いのワークショップをやっている。朝のヨガには僕も良く参加した。若くして、かなりヨガ
を追及している先生が沢山居た。レインボーギャザリングに集まる若者達に出逢い、刺激を受けた。世
間一般の常識を超えた、自然に即した生活を目指す国境を越えた旅人達の集まりだった。食事は勿論ベ
ジタリアン。皆自分の食器を持ち寄る。トイレは少し離れた場所に溝を掘ってあって、ペットボトルに
入った水を持参してお尻を綺麗にする。

最初の数日は戸惑ったが、慣れてくると居心地も良くなってきた。

昼間はレインボーギャザリングのキャンプ地から散歩に行き、クンバメラの会場を歩く。
広大な川辺にはなんと7千万人が1ヶ月の間に集まったらしい。とにかく広大で、全部見渡すことは不
可能だ。沢山のサーカステントの様な巨大なテントが張られている。中に入ると、ヒンズー教のお経だ
ろう声や、説法が聞こえてくる。残念ながら話している内容が分からないが、皆熱心に聞き入っている

僕達のキャンプ地の直ぐ近くのテントの中では、皆アコーディオンや手のひらサイズのシンバルの様な
ものを鳴らして、ずーっと「シタラーム、シタラーム」と言っていた。

この声がずーーっと、夜も昼もレインボーギャザリングのキャンプ地に聴こえていた。何日かすると、
皆、気が付くと「シタラーム、シタラーム」と思わず口ずさんでしまう様になった。

シタとラムはヒンズー教の神話、「ラーマーヤナ」の主人公で、二人はネパール南部のジャナクプール
という所でめでたく結婚する。「シタラーム、シタラーム」とずっと唱えている人達はこのジャナクプ
ールから来た人達だった。

僕はクンバメラに滞在した2週間の間に、このネパールの南部、ジャナクプール界隈から来た人達と仲
良くなった。

ディリップという高校生はサッカーが大好きで、日本のJリーグ選手になるのが夢だと言っていた。彼が
紹介してくれたババは12年間しゃべっていないというババだった。

がっしりとしていて、たっぷりと髭をたくわえた勇敢な姿のババだった。全てジェスチャーなので、お
互い言葉が分からなくてもコミュニケーションがとれた。そして、流石12年間しゃべっていないだけ
あって、ジェスチャーと目の仕草で何を言おうとしているかは大概理解出来た。彼はネパール南部から
来たババ達のリーダーの様だった。

ネパール南部のババ達のテントに招待されて、僕はそのテントに通う様になった。ネパール人はインド
人よりも日本人に近い感じがして、親しみが湧いた。彼らが話している内容は理解出来ないが、そのテ
ントに居ると何故か安心感があった。

或る時、しゃべらないババと、ナンバー2的なババと、僕の3人だけがテントに居た時があった。その
時、しゃべらない筈のババは、ナンバー2的なババと普通に会話をしていた。

「なーんだ、しゃべる時もあるんだ。」僕はちょっと肩透かしを食らった気分だった。
まぁ、人前では一切しゃべらない生活を12年間続けているということで、別に詐欺では無い。むしろ
ちゃんとしゃべれることが分かって一寸ホッとした。

彼らはネパール南部のダヌシャダムという処から来ていた。僕はクンバメラの4ヵ月後に、旅で出逢っ
た仲間とそのダヌシャダムを訪れた。ネパール南部はネパールの中でも貧しい地域で、ダヌシャダムは
その貧しい地域の片田舎で、本当に何も無い質素な村だった。しゃべらないババ達は旅に出ていて逢え
なかった。

そんな、何も無い地域から来たババ達だったが、皆威厳があり、人間味溢れる格好良い男達だった。

そんなネパール南部のババ達との交流を深めている間に、クンバメラでの日々は淡々と過ぎていった。


そして2月8日の満月の朝、僕はサンガム(三つの河の合流地点)に沐浴に行くことにした。

クンバメラは沐浴の祭りだ。ガンジス川とヤムナ川とサラスパティ川という三つの聖なる川が合流する
サンガムという聖地で沐浴をするというのは、江戸時代の人達にとっての「御伊勢参り」みたいなもの
なのかもしれない。そして、日本では初詣が特にめでたいように、ヒンズー教の人達にとっては、12
年に一度のクンバメラの日に沐浴をするのがこれまた特にめでたくて、そのめでたい中でも、12回に
一回は特にこれまためでたい。だから、2001年のクンバメラは、144年に一回のマハ・クンバメ
ラ(言わば超・クンバメラ)で、45日間のクンバメラ期間中に実に7千万人の人達が集まった訳だ。


1月の満月から始まり、最初はサドゥーと言われる聖人が沐浴をして、次にババ達、そして2月8日の
満月は、主に一般人向けの「聖なる沐浴日」だった。

僕はレインボーギャザリングのキャンプ地で出逢った圭くんと一緒に朝3時起きで、沐浴をする為にサ
ンガムを目指した。

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2008-01-09

世界放浪の旅、アメリカからインドへ。(本出版に向けて・その7)

世界放浪の旅、アメリカからインドへ。(本出版に向けて・その7)
いやいや、お正月気分満喫しました。

晦日から7日まで友達が訪ねてくれて、最高のお正月。

食べて、飲んで、遊ぶ。クウノムアソブです。あと、温泉も。

体が、ちと重いです。

おっと、いつの間にやら1月9日。そろそろ通常生活に戻らねば。

忍路は今日からぐっと冷え込んで、トイレの温度計が初めてマイナスを表示。いよいよ冬到来って感じ
です。

今日からまた、書き書き再開します。

皆様、今年も宜しくお願い致します。

未熟者の人生を読んで下さいませ。

そして、ご意見、ご感想などありましたら是非。

====================================


(2000年9月、世界放浪の旅が始まった。スタートはアメリカ。初日はリノ市のオートキャンプ場でテ
ント泊だった。)

朝、雨音で目がさめる。と、直ぐに止んだ。テントの入り口を開けると空は晴れている。雨音かと思っ
たらスプリンクラーの水がテントに当たっていた。
空気が清々しい。「おー、そうだ、ここはアメリカだったんだ。」

しばらく車を走らせると、街を出て荒野を真っ直ぐに長く続く一本道に入る。遠くには7-800m位の山が
連なる雄大な景色。これから砂漠に入っていくのだろう。ラジオからはいかにもアメリカっぽいDJの声
と音楽。
「おーー。」

昨日まで日本に居たのに今はこんな所を一人でドライブしている。旅が始まったことを実感した。昨日
まであった不安感は無くなり、西部劇に出てきそうな景色を楽しんだ。地図でみるともう少しで目的地
のBlack Rock Cityだ。

小さなガススタンドがあるので最後の休憩の為に車を停める。周りに何も無い小さなスタンドはやたら
と活気付いていた。売店では埃まみれの若者が何人も買い物をしている。

「そうか、彼等はバーニングマンの会場のBlack Rock Cityから買い物に来てるんだ。」
とうとう目的地が近くなってきたことが分かった。外に出るとピクニックテーブルで6−7人が楽しそう
に輪になって話している。
勇気を出して話し掛けてみる。
「バーニングマンに行くの?」
「いやいや、僕らはこれからニューヨークに帰るところ。仕事があるからね。最後迄居たいんだけど。

そっか。
「チケットは買えるかな。」
「いや、もう昨日で販売は終わったよ。」
やっぱりそうか。。ちょっと困っていると、
「これ、私が使っていたチケットの半切れ。これできっと大丈夫。」
と女の子がポケットから出した紙切れを僕にくれた。なんと素晴らしい。

住所を交換して僕は一路Black Rock City を目指した。彼等には後でニューヨークで再会した。なんと
幸先の良いスタート。気持ちが高揚してきた。入り口がみえてくる。ゲートでチケットの半切れを見せ
ると、簡単に通してくれた。「やった!!」とうとう念願のバーニングマン(Burning man)に辿り着い
た。

ゲートを抜け、車をゆっくり走らせる。自転車に乗っている人が多い。砂漠に2週間だけ突如現れたバ
ーニングマンの会場、Black Rock Cityは、映画の「マッドマックス」に出てくる近未来の砂漠の村みた
いなイメージだった。興奮した。

適当な場所を見つけ、先ずはテントを張った。とにかくどの位この会場が大きいのかが分からない。早
速歩き始める。真っ青な空が気持ち良い。空気は乾燥してる。テントは直径2km位の円状に張られて
いて、真中が巨大な空き地になっている。一体どの位の人数が会場全体に居るのか、検討がつかなかっ
た。(後で聞けば、約2万8千人とのこと)

真中の空き地を抜けて会場の向こう側に行ってみようと歩き始める。と、5分と経たない内に無茶苦茶に
喉が渇いてきた。僕は当時坊主頭で、帽子も被らず歩いていたので、物凄い勢いで水分が頭から蒸発し
ていたのだろう。

そう、ここは砂漠だった。乾燥の度合いが並ではないのだと分かった。でも、水なんて持ってない。気
付くと皆、リュックを背負って水を入れている。僕は恥を偲んで近くを通った人に水を求めた。彼のリ
ュックにはラクダみたいに水袋が装着されていて、ストローが伸びている。「あー助かった。ありがと
う。」と言うと、彼は
‘Have a nice burn.’と笑顔で去って行った。
確かにこんな砂漠に1週間も居たら焼けてしまう。「なるほど、これでバーニングマン(Burning man)
ってことか。」なんて納得してしまった。
「これは1週間のサバイバルゲームでもあるんだな。」と、テントに水を取りに帰りながら思った。

昼間は兎に角,水分補給が大変だった。バーなども所々にある。このBlack Rock City の中ではお金は一
切使えない。物々交換であることが後で分かった。僕は自分が持っていた何を物々交換に使ったか思い
出せないが、お酒にありついた。夜になると様子が一変した。先ず寒い。昼間はtシャツで丁度良いのに
、夜は途端に日本の初冬なみの寒さだ。でも星空は満天で、何よりも喉が渇かないので幾らでも歩き続
けることが出来た。

僕は会場の輪を抜け、広大な砂漠をどんどん歩き始めた。遠く、2km程先に光が見える。結構強い光だ。
「何だろう。」と思い、その光に向かって歩く。辿り着いてみると、ディスコのミラーボールが下から
ライトアップされて回っている。何も無い砂漠の中で静かに回り続けるミラーボール。周りには誰も居
ない。地面にはミラーボールの模様が反射して、円形に地面をぐるぐる回っている。暫く地面を眺める
。単純だけど面白い。

さらに先にまた何か見える。又1kmは離れている。辿り着くと、それはペダルを踏むと水が出る、よく日
本だと会社等で見かける水飲み機だった。横には高さ1m位のピラミッドの形の置物もある。砂漠にポ
ツンと置かれた水飲み機。「まさか。」と思いペダルを踏むと水が出た。感動しているとピラミッド型
の置物の中から人が出てきた。びっくりした。まさかこの人、夜通しこうやってピラミッドの中に隠れ
て水を供給しているのかと思いきや、何か修理の最中だった。

その夜はそこかしこに点在する単純だけど面白い仕掛けを探して砂漠を歩き続けた。満天の星空の下、
何処まで歩いても学校の校庭みたいに平らでだだっ広い砂漠を歩くのは気持ち良かった。8日間続いたB
urning manの、僕は最後の3日間を体験した。そこは想像力と創造力が一番大事な世界だった。

20m近くある龍の乗り物が走り回っていたり、雷発生装置が夜中に轟音と共に青光を放っていたり、開
拓時代の雰囲気のバーが砂漠の中にポツンとあって皆裸だったり。アメリカという国のスケールの大き
さを感じた。「馬鹿をやる時はとことんやります。」っていう感じで、これがアメリカの底力になって
いるのかなと感じた。


バーニングマンで出逢ったアンドリューと一緒に、僕はその後サンフランシスコを目指した。バーニン
グマン発祥の地、そしてインターネットのベンチャー企業が多く集まる街、サンフランシスコ。

アンドリューはカナダのトロントから来たサイバーDJだった。どうサイバーかと言うと、何千もの曲が
東芝のタッチスクリーンのノートブックに入っていて、画面にターンテーブルが現れて、それを指でク
ルクル回して曲を混ぜてDJをしているという具合。
(アンドリューのサイトhttp://www.mentalfloss.ca/)

何処に行ってもノートブックをスピーカーに繋いで即DJ出来る。感心してしまった。彼と一緒にサンフ
ランシスコで2週間程遊んだ。彼の友達のベンチャー会社を訪ねた事があった。サンフランシスコ・ジ
ャイアンツのスタジアムの直ぐ近くの倉庫を改造した大きなオフィス。誰かの隠れ家に遊びに来た様な
感じだった。

一人8帖くらいのスペースを持って、画面も二つを繋げて使っていたのが印象的だった。オフィスはと
てもリラックした雰囲気だったが、「この会社これから大きくなりますよ。」という自信を皆から感じ
た。彼等は今頃どうしているだろう。あそこで逢った何人かは億万長者にでもなっているかもしれない

その後5ヶ月弱、僕はアメリカを旅した。バハカリフォルニア(ここは正確にはメキシコ)ではフラン
スやスイスの人達とバンでキャンプの旅をして毎晩浜辺でキャンプファイヤーをして何時振りかに、全
く文明から離れた生活をした。(その時一緒に旅したフランス人の一人、クリストフとは1年後にパリ
でバッタリ再会した。)

ニューオリンズでは世田谷ハウスで一緒に住んでいたジョンのお姉さんのキャロルとステファンのカッ
プルを訪ねた。

3人での2週間の生活は楽しかった。南部最大のアンゴラ刑務所内のアリーナで毎年10月に開催され
るロデオ祭りに連れて行ってもらった。皆シマシマのいわゆる「囚人スタイル」で観戦に来ている。ロ
デオをするのは本物の囚人達。こういう祭りをあっけらかんと楽しんでしまうのがいかにもアメリカら
しいと感じた。

11月には大統領選があり、皆の話題はブッシュかゴアかでもちきりだった。これも一種、アメリカ人に
とっては4年に一度の祭りのようなものなのだろう。牧師の友人ロン(彼は中国系のマレーシア人)に
「どちらが大統領になって欲しい?」と聞いたら「どっちになったって一緒だよ。」と言っていたのが
印象的だ。

バーニングマンで出逢ったボブを訪ねてアリゾナ州のフェニックスにも行った。彼はメキシコ人の為に
スペイン語の医療サイトを作っていた。

アンドリューを訪ねてトロントにも行った。

そしてニューヨークで2001年の新年を迎えた。30日の夜から大雪が降り、大晦日は極寒の中、日本から
遊びに来てくれた鎌田夫婦とカウントダウンに繰り出した。2001年になった瞬間、マンハッタンの高層
ビルの間から豪快に花火が上がり、「ウォーーー!!」という歓声が街中に響き渡った。年越しの瞬間
は盛り上がったが、1月2日ともなるとどこも様子は普段と余り変わらず、「やっぱり年越しは日本が
一番だな。」と感じた。この後3回、世界各地で年越しを経験したけど、やっぱりその思いは変わらな
い。

ニューヨークでは、世田谷ハウスで2週間を共に過ごした香港人のローレンスの家に居候していた。姉
夫婦も駐在でマンハッタン郊外に居たのでたまに遊びに行った。

「次はリオのカーニバルを目指してブラジルに行こう。」と思っていた2001年最初の満月の日、1月9日
、不思議な出会いがあった。

2001年1月9日、僕はニューヨークの下町をウロウロしていた。居候していたローレンスの家はLower Ea
st Sideという、チャイナタウンの結構近くだった。ローレンスはモロッコに行っていたので、僕は一人
だった。この辺りを散歩するのは楽しかった。お店も何も無い通りを通り過ぎようとして、ふと足を止
めた。御香の匂いに誘われた。

そこはインドのクリシュナの小さな道場だった。見た目は普通の一軒家だ。「そーっ。」とドアを開け
ると中には3人位の人があぐらをかいて座っている。「どうぞ」と言われて中に入った。皆オレンジっぽ
い服装だ。インド僧みたいだけど、皆西洋人だった。

インドは僕の憧れの地だった。何時かインドに行ってみたい。でもインドの事は殆ど何も知らなかった
ので、その人達が何教の何派かなんて全く分からない。ただただ雰囲気に誘われて中に入ってしまった
。何を話したかも覚えていない。彼等が師匠と仰ぐ方の本を貰った。もうその方は亡くなられたそうだ
。数ドルのお布施を置いて、僕はそこを出た。

アメリカに来て5ヶ月が経ち、僕は初めて、期せずしてインドに触れた。なんだか良い気分だった。そこ
から家への帰り道、小さな公園の柵にある張り紙が目に留まった。「Full Moon Gathering」と書いてあ
る。「満月の集会?」僕は興味を惹かれ、その夜その公園に戻った。

小さな公園には10人ほどが木のテーブルの周りに集まっていた。驚いたことにチベット僧のような若者
も一人居た。一人がNASAの月の写真集を持って来ていた。「知ってる?NASAは月の裏側の写真は一切公
表していないんだよ。月の裏側に何が在るかはNASA以外誰も知らないんだ。」また、こうも言っていた

「初めて月の上を歩いている宇宙飛行士の様子が世界中にテレビで流れたけど、音声は一切カットして
あるんだ。どうしてだか分かる?皆フワフワと月面を飛び跳ねながら笑い転げてたんだよ。その笑い声
はカットしてあるんだ。」面白い話だと思った。

皆気の良い人達だった。一人の女性がチラシをくれた。ダライ・ラマの写真が載っている。彼女はアメ
リカからツアーを組んでインドのダライ・ラマに逢いに行くらしい。やっぱり一緒にいるのはチベット
僧だった。僕はこれからブラジルのリオのカーニバルに行くつもりだと話したら、そこに居たもう一人
の女性が「私は144年に一回のインドのお祭りに行くのよ。」と言った。
「144年に一回??」
僕は驚いて聞き返した。一体それはどんな祭りなんだろう。その夜から僕の頭はその祭りの事で一杯に
なった。次の日僕はその女性に電話した。「僕もその祭り、一緒に行ってもいいでしょうか。」「もち
ろん。」急遽、僕の行き先はブラジルからインドになった。

憧れの地、インドに着いたのは2001年1月24日、未だ薄暗い早朝だった。ニューデリーの空港。
そんな時間でも薄明かりの中、空港は人で賑わっていた。黒い英国っぽいデザインの古いタクシーでニ
ューデリー市内に入る。憧れのインドに着いた僕は興奮していた。

ニューヨークのかつての下町で、今は若者に人気のLower east sideに15年以上住んでいる画家のテリー
と一緒の旅だった。ニューヨークからニューデリーへ。同じ「都市」だが、初めて見る未だ明るくなる
前、早朝の空港のタクシー乗り場の雰囲気は、薄暗いオレンジの光の中で人があちこちと忙しく動き活
気に溢れ、何処か19世紀始めの中東か何処かの街に迷い込んでしまったような感じだった。

テリーも僕も初めてのインド。テリーの友達情報を元に、ニューデリーで宿を取り、早速クンバメラの
会場であるアラハバッド迄の夜行列車のチケットを買いにニューデリーの中央駅に向かった。とても不
思議だったのは、駅のチケット売り場に辿り着くまでに、僕達は何人ものインド人に話し掛けられた。
「夜行列車のチケット買うんでしょ。僕が変わりに安く買ってくるよ。」最初はそれがとっても不思議
だった。「何で僕達が夜行列車のチケット買いたいって知っているのだろう?」まあ、こんな疑問は、
この後数ヶ月インドを旅してすぐに消えたのだが、兎に角インドでは、旅行客と見ればあらゆる商売を
する人間が話し掛けてくる。

チケットを買いたい僕達と、チケット売り場の人との間を取り持ちたい人間が駅近辺に蠢いている。「
隙間産業」で生きている人間の層が、日本人の想像を遥かに越えている訳だ。アメリカからインドにい
きなり来てしまった僕には、最初それがとても新鮮だった。ニューヨークの街を歩いていても、誰かに
いきなり話しかけられるなんてことは無かった。それが、インドに来た途端、10歩歩けば誰か寄って
来る。この日から約5ヶ月続いたインドの生活の中で、これが後にだんだんと厄介になり、気が付けば
、それが日常になり、旅なれてくると、もうそのこと自体に何の感情も湧かなくなっていった。何事も
最初の出来事は良く覚えているものだ。

テリーと僕は、そんな「隙間産業」には仕事を与えずに、自ら列に並び、夜行列車のチケットを無事入
手した。その晩夜行列車に乗って、翌朝早くにクンバメラの開催地、アラハバッドに到着した。これま
た未だ薄暗い早朝だった。

駅に着いて兎に角又驚いた。ホームは人、人、人でごった返している。寝ている人も沢山居る。飛行機
が着いたニューデリーとは又全く違う雰囲気だ。アラハバッドの駅からクンバメラの会場を目指す。ク
ンバメラは「サンガム」という場所で行われていた。サンガムとはガンジス河、ヤムナ河、そして地下
を流れる伝説のサラスパティ河が合流する場所で、そこは何千年もの間、聖地とされている場所だ。

サンガムまでの道程は長かった。初めて「リキシャー」に乗った。自転車の後ろに貨車が付いている。
人で溢れる道をリキシャーが走り抜ける。時代の感覚が薄れていく。「今は21世紀だったろうか?」
でもそれは未だ序の口だった。

暫く走ってやっとサンガムに辿り着いた。そこは想像を超える広大な土地だった。見渡す限り、サーカ
スのようなテントと人しか見えない。その景色は完全に異空間で、千年前と言われれば、納得出来てし
まう、何千年も続いてきただろう風景だった。

とうとう「クンバメラ」にやって来た。今思い出すと会場全体が全体的にオレンジっぽい感じなのは、
ババ(インドの僧侶)が着ている服の色がオレンジで、ババが着ている服の色と、薄茶色の地面の色が
マッチして、全体的にオレンジっぽいイメージだったからだろう。

この放浪の旅のスタートだったアメリカのネバダ砂漠で行われるお祭り、バーニングマンを思い出す。
普段は誰も住まない広大な土地に突如、巨大な村が出現した感じだ。

インドに来る前、ニューヨークのテリーの友人のお店で昔のクンバメラのビデオを見せてもらい、その
内容に驚いた。画面には、素っ裸で灰を体に塗った人たちが沢山歩いている。「サドゥー」と呼ばれる
人たちだ。サドゥーは「聖人」とか、「世捨て人」とか訳されているようだ。聖人と世捨て人は紙一重
、或いは同一なんだろうか。

次の映像が衝撃だった。真っ黒に日焼けした、無駄肉が一切付いていない御爺さんがアグラをかいてい
る。80歳だというその御爺さんは、次から次に信じられないようなヨガポーズをとった。関節がどち
らにでも動く超合金のオモチャみたいに、本当にどんなポーズでもとれる。しなやかで張りのある日焼
けした肌は、御爺さんの肌では無い。「これがヨガなのか。」本物を見せ付けられて圧倒した。人間、
追及するとここまで出来るんだ。

その後も衝撃映像は続いた。片手を挙げ続けて生活しているナガババという僧侶は、上げ続けた手が小
枝みたいに細くなって、爪はツタみたいに延びていた。一体どの位の間手を上げ続ければそんなになる
んだろう。インドって、クンバメラって一体どんな処だんだろう。僕はその映像に釘付けになった。

そしてそのクンバメラに漸く辿り着いた。あのビデオで見たオレンジの衣装を着たババが沢山目の前を
歩いている。それだけで興奮した。サドゥーの姿はほとんど見えない。これは後から分かったことだが
、サドゥーはいち早く沐浴を済まして、既に次の聖地を目指して巡礼を始めた後だったからだった。
この日から2週間、僕のクンバメラ生活が始まった。

僕はクンバメラの中のレインボーギャザリングで2週間を過ごした。

レインボーギャザリングとは、ヨーロッパやアメリカの若者達が中心になって世界中で行っているキャ
ンプのことで、一緒にクンバメラに行ったテリーはレインボーギャザリングに古くから参加している人
だった。僕はそんなキャンプの存在など一切知らなかった。

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2008-01-07

新春スキー

新春スキー
それにしても微笑ましい二人。

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2008-01-06

新春スキー

新春スキー
ミキオと、昨日74歳になったミキオのお母さんとスキーしています。いや〜気持ち良い。ひっさしぶりです。この感覚。

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2008-01-05

カムイ岬

カムイ岬

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カムイ岬

カムイ岬

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2008-01-01

雪一色のお正月

雪一色のお正月
大晦日からアースデイ北海道の仲間が山口さんの処に大集合。

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新年明けましておめでとうございます!

新年明けましておめでとうございます!

中渓 宏一:)
www.earthwalkerjp.cocolog-nifty.com

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