2006-06-23

2001年、アメリカからインドへ

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200119日、僕はニューヨークの下町をウロウロしていた。

居候していたローレンスの家はLower East Sideという、

チャイナタウンの結構近くだった。

ローレンスはモロッコに行っていたので、

僕は一人だった。この辺りを散歩するのは楽しかった。

お店も何も無い通りを通り過ぎようとして、ふと足を止めた。

御香の匂いに誘われた。

そこはインドのクリシュナの小さな道場だった。

見た目は普通の一軒家だ。

そーっとドアを開けると中には

3人位の人があぐらをかいて座っている。

「どうぞ」と言われて中に入った。

皆オレンジっぽい服装だ。

インド僧みたいだけど、皆西洋人だった。

インドは僕の憧れの地だった。

何時かインドに行ってみたい。

でもインドの事は殆ど何も知らなかったので、

その人達が何教の何派かなんて全く分からない。

ただただ雰囲気に誘われて中に入ってしまった。

何を話したかも覚えていない。

彼等が師匠と仰ぐ方の本を貰った。

もうその方は亡くなられたそうだ。

数ドルのお布施を置いて、僕はそこを出た。

アメリカに来て5ヶ月が経ち、

僕は初めて、期せずしてインドに触れた。

なんだか良い気分だった。

そこから家への帰り道、

小さな公園の柵にある張り紙が目に留まった。

Full Moon Gathering」と書いてある。

満月の集会?僕は興味を惹かれ、その夜その公園に戻った。

小さな公園には10人ほどが木のテーブルの周りに集まっていた。

驚いたことにチベット僧のような若者も一人居た。

一人がNASAの月の写真集を持って来ていた。

「知ってる?NASAは月の裏側の写真は一切公表していないんだよ。

月の裏側に何が在るかはNASA以外誰も知らないんだ。」

また、こうも言っていた。

「初めて月の上を歩いている宇宙飛行士の様子が

世界中にテレビで流れたけど、

音声は一切カットしてあるんだ。

どうしてだか分かる?

皆フワフワと月面を飛び跳ねながら

笑い転げてたんだよ。

その笑い声はカットしてあるんだ。」

面白い話だと思った。

皆気の良い人達だった。

一人の女性がチラシをくれた。

ダライ・ラマの写真が載っている。

彼女はアメリカからツアーを組んで

インドのダライ・ラマに逢いに行くらしい。

やっぱり一緒にいるのはチベット僧だった。

僕はこれからブラジルのリオの

カーニバルに行くつもりだと話したら、

そこに居たもう一人の女性が

「私は144年に一回のインドのお祭りに行くのよ。」と言った。

144年に一回??」僕は驚いて聞き返した。

一体それはどんな祭りなんだろう。

その夜から僕の頭はその祭りの事で一杯になった。

次の日僕はその女性に電話した。

「僕もその祭り、一緒に行ってもいいでしょうか。」

「もちろん。」

急遽、僕の行き先はブラジルからインドになった。Kumbh_mela001

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2006-06-16

2000年夏、アメリカの旅

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2000年夏、アメリカから始まった放浪の旅。

Burning manというお祭りからスタートした

旅の様子です。

Burning manで出会ったアンドリューは

カナダのトロントから来たサイバーDJだった。

どうサイバーかと言うと、

何千もの曲が東芝のタッチスクリーンの

ノートブックに入っていて、

画面にターンテーブルが現れて、

それを指でクルクル回して曲を混ぜて

DJをしているという具合。

何処に行ってもノートブックを

スピーカーに繋いで即DJ出来る。

感心してしまった。

彼と一緒にサンフランシスコで2週間程遊んだ。

彼の友達のベンチャー会社を訪ねた事があった。

サンフランシスコ・ジャイアンツのスタジアムの

直ぐ近くの倉庫を改造した大きなオフィス。

誰かの隠れ家に遊びに来た様な感じだった。

一人8帖くらいのスペースを持って、

画面も二つを繋げて使っていたのが印象的だった。

オフィスはとてもリラックした雰囲気だったが、

「この会社これから大きくなりますよ。」という自信を皆から感じた。

彼等は今頃どうしているだろう。

あそこで逢った何人かは億万長者にでもなっているかもしれない。

その後5ヶ月弱、僕はアメリカを旅した。

バハカリフォルニア(ここは正確にはメキシコ)

ではフランスやスイスの人達と

バンでキャンプの旅をして

毎晩浜辺でキャンプファイヤーをして

何時振りかに、全く文明から離れた生活をした。

その時一緒に旅したフランス人の一人、クリストフとは

1年後にパリでバッタリ再会した。

ニューオリンズでは世田谷ハウスで

一緒に住んでいたジョンのお姉さん(キャロル)とステファンのカップルを訪ねた。

(キャロルと、ステファンは一昨年10月に結婚して夫婦になった。)

3人での2週間の生活は楽しかった。

南部最大のアンゴラ刑務所内のアリーナで

毎年10月に開催されるロデオ祭りに連れて行ってもらった。

皆シマシマのいわゆる「囚人スタイル」で観戦に来ている。

ロデオをするのは本物の囚人達。

こういう祭りをあっけらかんと楽しんでしまうのが

いかにもアメリカらしいと感じた。

11月には大統領選があり、

皆の話題はブッシュかゴアかでもちきりだった。

これも一種、アメリカ人にとっては

4年に一度の祭りのようなものなのだろう。

牧師の友人ロン(彼は中国系のマレーシア人)に

「どちらが大統領になって欲しい?」と聞いたら

「どっちになったって一緒だよ。」

と言っていたのが印象的だ。

ニューヨークで2001年の新年を迎えた。

30日の夜から大雪が降り、

大晦日は極寒の中、

日本から遊びに来てくれた鎌田夫婦と

カウントダウンに繰り出した。

2001年になった瞬間、

マンハッタンの高層ビルの間から豪快に花火が上がり、

「ウォーーー!!」という歓声が街中に響き渡った。

年越しの瞬間は盛り上がったが、

1月2日ともなるとどこも様子は普段と余り変わらず、

「やっぱり年越しは日本が一番だな。」と感じた。

この後3回、世界各地で年越しを経験したけど、

やっぱりその思いは変わらない。

ニューヨークでは香港人の友達、

ローレンスの家に居候していた。

姉夫婦も駐在でマンハッタン郊外に居たのでたまに遊びに行った。

「次はリオのカーニバルを目指してブラジルに行こう。」

と思っていた2001年最初の満月の日、

1月9日、不思議な出会いがあった。

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2006-06-03

旅を振り返って-2000年夏・Burningman-

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2000年9月、世界放浪の旅が始まった。スタートはアメリカ。初日はリノ市のオートキャンプ場でテント泊だった。

朝、雨音で目がさめる。と、直ぐに止んだ。

テントの入り口を開けると空は晴れている。

雨音かと思ったらスプリンクラーの水がテントに当たっていた。

空気が清々しい。

しばらく車を走らせると、街を出て長―く続く一本道に入る。

遠くには7-800m位の山が連なる雄大な景色。

これから砂漠に入っていくのだろう。

ラジオからはいかにもアメリカっぽいDJの声と音楽。

「おーー。」

昨日まで日本に居たのに今はこんな所を一人でドライブしている。

旅が始まったことを実感した。

昨日まであった不安感は無くなり、景色を楽しんだ。

地図でみるともう少しで目指すBlack Rock Cityだ。

小さなガススタンドがあるので

最後の休憩の為に車を停める。

周りに何も無い小さなスタンドは

やたらと活気付いていた。

売店では埃まみれの若者が

何人も買い物をしている。

「そうか、彼等はBurning manから来てるんだ。」

とうとう目的地が近くなってきたことが分かった。

外に出るとピクニックテーブルで

67人が楽しそうに輪になって話している。

勇気を出して僕も話し掛けてみる。

Burning manに行くの?」

「いやいや、僕らはこれからNew Yorkに帰るところ。

仕事があるからね。最後迄居たいんだけど。」

そっか。

「チケットは買えるかな。」

「いや、もう昨日で販売は終わったよ。」

やっぱりそうか。。ちょっと困っていると、

「これ、私が使っていたチケットの半切れ。これできっと大丈夫。」

と女の子がポケットから出した紙切れを僕にくれた。

なんと素晴らしい。

住所を交換して僕は一路Black Rock City を目指した。

彼等には後でNew Yorkで再会した。

なんと幸先の良いスタート。

気持ちが高揚してきた。入り口がみえてくる。

ゲートでチケットの半切れを見せると、

簡単に通してくれた。

「やった!!」とうとう念願のBurning manに辿り着いた。

ゲートを抜け、先ずはテントを張った。

とにかくどの位この会場が大きいのかが分からない。

早速歩き始める。真っ青な空が気持ち良い。

空気は乾燥していて気持ち良い。

テントは大きく輪状に張られていて、

真中が直径2km位、円形の空き地になっている。

一体どの位の人数がそこに居るのか、検討がつかなかった。

(後で聞けば、約28千人とのこと)

真中の空き地を抜けて

向こう側に行ってみようと歩き始める。

と、5分と経たない内に無茶苦茶に喉が渇いてきた。

僕は当時坊主頭で、帽子も被らず歩いていたので、

物凄い勢いで水分が頭から蒸発していたのだろう。

そう、ここは砂漠だった。

乾燥の度合いが並ではないのだと分かった。

でも、水なんて持ってない。気付くと皆、

リュックを背負って水を入れている。

僕は恥を偲んで近くを通った人に水を求めた。

彼のリュックにはラクダみたいに水袋が装着されていて、

ストローが伸びている。

「あー助かった。ありがとう。」と言うと、

彼は‘Have a nice burn.’と笑顔で去って行った。

確かにこんな砂漠に1週間も居たら焼けてしまう。

「なるほど、これでBurning manってことか。」

なんて納得してしまった。

「これは1週間のサバイバルゲームでもあるんだな。」と、

テントに水を取りに帰りながら思った。

昼間は兎に角,水分補給が大変だった。

バーなども所々にある。

このBurning manの中ではお金は一切使えない。

物々交換であることが後で分かった。

僕は自分が持っていた何を

物々交換に使ったか思い出せないが、

お酒にありついた。

夜になると様子が一変した。

先ず寒い。昼間はtシャツで丁度良いのに、

夜は途端に日本の初冬なみの寒さだ。

でも星空は満天で、何よりも喉が渇かないので

幾らでも歩き続けることが出来た。

僕は会場の輪を抜け、

広大な砂漠をどんどん歩き始めた。

遠く、2km程先に光が見える。結構強い光だ。

「何だろう。」と思い、その光に向かって歩く。

辿り着いてみると、

ディスコのミラーボールが

下からライトアップされて回っている。

何も無い砂漠の中で

静かに回り続けるミラーボール。

周りには誰も居ない。

地面にはミラーボールの模様が反射して、

円形に地面をぐるぐる回っている。

暫く地面を眺める。単純だけど面白い。

さらに先にまた何か見える。

1kmは離れている。

辿り着くと、

それはペダルを踏むと水が出る、

よく日本だと会社等で見かける水飲み機だった。

横には高さ1m位のピラミッドの形の置物もある。

砂漠にポツンと置かれた水飲み機。

「まさか。」と思いペダルを踏むと水が出た。

感動しているとピラミッド型の置物の中から人が出てきた。

びっくりした。

まさかこの人、夜通しこうやって

ピラミッドの中に隠れて水を

供給しているのかと思いきや、

何か修理の最中だった。

その夜はそこかしこに点在する

単純だけど面白い仕掛けを探して砂漠を歩き続けた。

満天の星空の下、何処まで歩いても

学校の校庭みたいに平らで

だだっ広い砂漠を歩くのは気持ち良かった。

8日間続いたBurning manの、

僕は最後の3日間を体験した。

そこは想像力と創造力が一番大事な世界だった。

20m近くある龍の乗り物が走り回っていたり、

雷発生装置が夜中に轟音と共に青光を放っていたり、

開拓時代の雰囲気のバーが

砂漠の中にポツンとあって皆裸だったり。

アメリカという国のスケールの大きさを感じた。

「馬鹿をやる時はとことんやります。」

っていうのがアメリカの底力になっているのかなと感じた。

この後、約半年のアメリカ、カナダの旅でこのBurning manで出来た仲間を訪ねた。アリゾナ州のボブはメキシコ人の為にスペイン語の医療サイトを作っていた。トロントのアンドリューは情報ネットワークのプロで、テクノDJだった。皆、とびきりしっかりした若者だった。

天晴れBurning man

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2006-05-30

2000年夏、アメリカへ。

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2000年夏から約4年続いた世界放浪の旅。そのスタートの頃の様子を昨年書いたものを載せてみます。

アメリカでやっているBurning man というお祭り。これを旅のスタートに決めた。

早速Burning manをインターネットで調べてみる。

8日間位の祭りらしい。827日から9月の3日までやっている。

場所はネバダ州の砂漠の様だ。

しかし、詳しい場所は何処を見ても良く分からない。

とにかく僕は91日のロス行きのチケットを買った。

831日、世田谷ハウスの皆が送別会をしてくれた。

友達も沢山来てくれた。ここでの生活が楽しく、

旅に出るタイミングを逃しそうだったので、

91日、学校で言えば新学期みたいなもので、

出発には丁度良いだろうと考えた。

何故アメリカだったのか。

旅の始めに自分が生まれた国をちゃんと見てみたい。

そして、聞けばインターネット会社の勢いは

日本の比では無いというその現状も見てみたい。

そして憧れの地ニューヨークには、

ここ世田谷ハウスにも居候をしていた

香港人のローレンスも居るし、姉夫婦も居る。

ということで、Burning manを機に

先ずはアメリカを旅してみようと決めた。

91日、世田谷ハウスのゆきがイサオご自慢の

SAABのオープンで成田空港まで送ってくれた。

未だ旅に出る実感は無かった。

兎に角荷物は詰め込みまくって、巨大リュック2個分。

ノートブックまで入れていた。

そして「いのちの祭り」で観た自主制作映画の

「チベット・チベット」に影響を受け、

急いで買ったデジタルビデオカメラまであった。

空港が近づくと、なんだか不安にさえなってくる。

なにせBurning manが一体何処で行われているのか

未だ分かっていないし、91日以降は

チケット販売終了とも書いてあったしと、

不安材料は幾らでもあった。

既に世田谷ハウスが懐かしい気もする。

ロスの空港に着いた。空気が清々しい。

空が青い。匂いがアメリカっぽい。

「おーー旅が始まった。」少し興奮した。

と、ターミナルを移動している間に

ビデオカメラを無くした事に気付いた。

やれやれ、この先どうなるのやら。

とにかく会場に一番近い空港、

ネバダ州のリノに向かう。

僕の思惑では、空港に着けば、

Burning man に行く人達でごった返している筈だった。

リノに着いたのは夜の8時過ぎ。

気が付くと小さなターミナルに

残っているのは僕一人。

まずい落ち着かねば。

空港から先ずはレンタカー会社を探した。

大きな荷物を二つ持ち、

僕はトボトボとレンタカー屋を目指した。

リノはカジノタウンで、何処となく場末感が漂う。

レンタカー屋のおばちゃんは

70年代の映画に出てきそうなゴージャスな髪型だった。

Burning manに行きたいんだけど、何処でやっているか知っていますか?」

「あんた、あんなクレイジーな集まりにわざわざ日本から一人で来たの?」

とおばちゃんは言った。

奥から旦那さまが出てきた。

Black Rock Cityってとこだよ。だいたいこの辺で。」

と旦那さまが指す地図は砂漠の中だ。

「よし。」大まかな場所が分かり一先ず安心。

車を借りて、ウォールマートでキャンプ用具を揃えて砂漠を目指す。

間も無くオートキャンプ場を見つけてテントを張った。

無料キャンプ場の様だ。「アメリカは自由だな。」なんて思う。

果たして明日はBurning manに辿り着けるのだろうか。

日本を出発してもう随分時間が経った気がする。

旅の一日目が無事終わった。

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2006-05-23

2000年夏、ねぶた祭りといのちの祭り

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2000年の8月、青森のねぶた祭りに行った。

当時僕は三軒茶屋の「世田谷ハウス」という処に住んでいた。

元お弁当屋さんの古い一軒家に9人で住んでいた。

いわゆる外人ハウスという、敷金、礼金無しの共同生活宿で、

4人は日本人、残りの5人はオーストラリア、

スペイン、バングラディッシュ、アメリカ、イギリスの人達で

コックさんだったり、英語の先生だったり、

中古ゲームの売買をしていたり、銀座でパントマイムをやっていたりと、

ユニークな連中が集まっていた。

小さな台所は何時も賑わっていた。

国籍不明の9人家族みたいなもので、

この世田谷ハウスでの生活は楽しかった。

そこの仲間、イギリスのウェールズから来たグリンが

友達を訪ねて青森のねぶた祭りに行くというので僕も一緒に行った。

この祭り、とにかく若者の元気が気持ち良かった。

「ラッセーラー!、ラッセーラー!」

と気付いたら僕も短パンに裸足で一緒に飛び跳ねまくっていた。

日本の伝統祭りというとお神輿のイメージだったで、

この体験はとても新鮮だった。

ねぶた祭りで勢いを付けた僕は、

世田谷ハウスに帰ると、

今度はバイクに乗って単身「いのちの祭り」に行った。

春あたりから何度か耳にしたこの祭りの名前が気になっていた。

場所は長野の槍ヶ岳。名前の如く、

切り立つ山が連なる姿は圧巻だった。緑が深い。

こちらは手作り感溢れるお祭りで、

金森太郎君が2年の旅の末に完成させた

ドキュメンタリー「チベット・チベット」は内容も素晴らしく、

上映場所が小高い山の頂上のリフト降り場で

雰囲気も素晴らしく、2回観に行った。

そしてこの祭りのクライマックスは最終日のレイブだった。

夕方から土砂降りの雨。これは中止かと思いきや、

一気に晴れ間が広がって、満天の星空で始まったレイブ。

昼間は見なかった様な有象無象の連中が

それぞれ思い思いのコスチュームで登場。

夜中に演奏が始まったABディジリドゥーという

オーストラリア人は、電子ドラムを叩きながら、

ディジリドゥーを吹き、おまけに手元操作で

電子音リズムを混ぜていた。

静かめのリズムからどんどんテンポは激しくなり、

気が付くと皆、泥んこになって踊り狂う。

「これがレイブか。」と納得。

なんだかタイムトリップして古代の祭りに参加した気分だった。

この「いのちの祭り」で出会った石川県のポンさんが、

レイブ明けの朝風呂で教えてくれた。

「アメリカにバーニングマンって凄い祭りがあって、

砂漠で何日間も踊り続けるんだよ。」

僕は旅のスタートをこのバーニングマンに決めた。

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2006-05-18

2000年夏・Typhoon tour

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昔書いた記事を載せてみます。

2000年の7月で僕は会社を辞めた。

というより、首になった。経緯を簡潔に書いてみる。

当時僕はアイキュースリーという会社に居た。

当時のベンチャー会社ブームで出来上がった

日本初のe-ラーニング会社だった。

6年務めた商社を辞めて旅に出るつもりだったが、

この会社のやろうとしている

「インターネットで授業を配信する」

という斬新なアイディアに興味が湧き、

旅に出る前にもう一仕事してみようと転職を決意した。

社長(のちに会長となる)のケネスは

ペンタゴンで働いていて、

アメリカのe-ラーニングブームを見て、「

これは日本でも流行るに違いない」と思い、

この会社を設立した。

彼はアメリカ人と日本人のハーフで、

初めて逢ったとき僕は彼の熱意に同感して転職を決めた。

「この会社が社会の常識を変えるよ。

インターネットが広まって、少数精鋭の会社が

大会社よりも実力を持てる時代が来ている。

この会社でビジネス界に革命を起こすんだよ。」

「この会社で働いてから旅に出ても遅くは無い。」

と、僕は思った。

実際に転職してみて、ベンチャー会社の難しさを知った。

先ず、あれだけ熱意を持っているケネスは指揮を取らず、

会長となって社長を他から連れてきた。

この辺りから当初あった少数精鋭のチームワークが崩れた。

多くの幹部があっという間に去って行った。

ドッグイヤーと噂されるベンチャー会社のスピード感を体で感じた。

一方で仕事内容はとても充実していた。

僕は趣味担当ということで、

気功、書道、空手、整体、ヨガ、気学等、

東洋の文化に焦点を絞って色々な、

素晴らしい先生方と出会う機会を頂いた。

そして2000年夏、素晴らしい

「祭り」を持ってきた男に出会った。

彼の名前は桝田タクジ。

僕と同い年で、同郷の鎌倉。

本拠地はカリフォルニア、マリブビーチのロングボーダー。

彼は「Origin of Blue」という映画を創って、

Typhoon tour(台風ツアー)」と称して

関東5箇所でゲリラ的に試写会を行った。

この映画に登場するジョエル・テューダーや、

ハービー・フレッチャー等も一緒に来ていた。

この映画、ただの波乗り映画と違って、

それぞれのロングボードのライディングスタイルに合わせて

波乗り映画にありがちなロック一本槍では無く、

ジャズやソウル等、多彩なジャンルの音楽が

映像に実にピッタリはまっていて、

見れば見るほど格好良い映画だった。

そして何よりも僕は桝田タクジという人物が気になった。

僕と同い年で、デカ波に乗り、

一流サーファーを引き連れてゲリラツアーをこなし、

そのツアーの合間にはサラッと

インタビューや打ち合わせをこなす。

まさに人生もデカ波に乗っている。

聞けば、サーファーの間でブレイクした

腕時計「G-Shock」のブームは彼が創ったという。

僕はこの5日間の「Typhoon tour」に同行して、

映像を撮った。アイキュースリーでの特集とする為だった。

が、事前許可無く、無断でこのツアーを追いかけて職場に戻ると、

ケネスに呼び出されて、僕は会社を首になった。

2000年7月半ばの出来事だ。

意外な形で念願の「旅」に出るチャンスを得た。

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